2章・4節

 おかしい、透は窓の外を見やりながら怪訝な顔をした。居間にかかっている掛け時計の針は既に七時を回っている。それだというのに、一向に白崎が現れる気配はない。

「待ち人来たらず、か」

 相変わらずソファとその周りに本の牙城を築き、本を読んでいたイツキが言った。

「ちょっと、変な事言わないの」

「失礼、つい」

 単純に、時間にルーズな男なのではないかと思った。少し話した感触から、気を遣う男なのだろうと踏んでいたから意外ではあるが、そういう事もあるのだろうと透は思った。

「もう少し待つ」

「さよですか、ふむ」

 イツキは読書に勤しもうと再び視線を下に向けようとした。

 その時、電話が鳴った。透は反射的に振り向き、駆け寄ってその受話器を取る。

「もしもし、透です」

「透さん、か」

 間違えて下の名前で電話に出てしまったと思ったが、どうやら電話の相手が白崎である事が分かり、ほっと安堵する。

 しかし、何か様子がおかしかった。受話器の先から、微かに荒い息遣いが漏れる。

「どうしたんですか、少し息が乱れてるような気がするのですが」

「済まない。ちょっとそっちに行くのに時間がかかるかもしれない。話は後で」

「今、何処にいますか? 道に迷ったのなら、迎えに行きます」

「近くまでは来ている。が、来てはいけな――」

 「あっ」という声の後に携帯が硬い物にぶつかる音がして、通話が途切れた。透はそれで理解した。白崎の身に何か良くない事が起きているのだと。

「トオル」

 イツキがトオルを呼んだ。電話の様子から何かが起きたのを悟ったのであろうと、透は思った。

「分かってる。行こう」

 透は急いで二階へ行き、上着とウエストバッグを掴んで下に降りる。そしてイツキを伴い、家の戸を開けて外に出た。空を見上げれば、既に日は沈み夜が世界を支配していた。

「電話で白崎さんは近くまで来ていると行ってた。だから、この周辺にいる筈」

「成程。他に電話で何か読み取れませんでしたか?」

「どういう事?」

「白崎さんの声以外に、周囲の音とか」

「……いいえ。ただ、車の音とかそういうのは聞こえなかった。静かな所にいたと思う」

「そうですか。さて、どうしたものか」

 そう言った時、西の方から微かに音がした。それは、何かが弾ける音であった。

「さて、白崎さんか、あるいは別の何者かが出した手がかりか」

「どっちにしても、他に手がかりはない。行こう」

 

 大坂山公園は市内有数の大きな公園である。野球グラウンドや遊具広場、ランニング用に整備された遊歩道等の他、市内を一望出来る見晴台までがある。

 だが、夜ともなると流石に人気はなくなる。だからこそ、白崎はそこに逃げ込んだ。身を隠せる場所が多いからではない。却って、ここは人が少なく見通しもいい所だから身を隠す場所としては不適切だ。にも関わらず白崎が逃げ込んだのは、ここでならそれに応戦出来ると考えたからである。

 白崎は陰陽家である。魔を祓うという事を専門にしているというわけではないものの、何かとそういう機会も多かったので、自然と迎撃のための陰陽術を身に付けていた。

「まあ、中々抵抗しはるなおもたけど、もうお終いやろか?」

 だが、今回は特別相手が悪かったのだろう。関西弁を思わせる口調。グラウンドに倒れ伏した白崎はその言葉の主を見上げる。

 綺麗な女だった。羽織を纏った着物姿に、まるで人形のように極限まで無駄の削がれた、品の良さを思わせる顔、そしてそこから覗く。その夜に輝く金の髪の間からは、二本の牛の角のようなものが生えていたが、その内の一本は、途中から継ぎ足したかのように角の色が微妙に異なっていた。

「さてどないしまひょか。私は別にあんさんの命が欲しいわけじゃあらしまへんさかい、このまま見逃してやってもいいんやけど。ただ、あんさんが後生大事に持っている物を見せてもらえたらそれでええんやで」

 白崎は顔を歪める。何故、この女は自分が何か大事な物を持っていると判断したのだろうか。確かに少し挙動不審な所はあったかもしれないが、それは他の人間だって同じであった筈だ。

「ああ、何であんさんがえらい大事なもんを抱えてるのが分かったか、疑問におもてはるのね。別に大した事じゃあらしまへん。私ね、こう見えてももうずっと長い事生きとんのよ。そんで色んな人間見てきたさかい、分かるんよ、ほんまにほんまに大事なもん持ってる人間が」

 そう言って、女は白崎の顎を持ち上げ、白崎をじっと見つめる。

「減るもんやなし、別に良かろ?」

 白崎はその女の視線に耐えきれず、目を逸らす。その様子を見て、女は「仕方あらしまへん」と呟く。

「どうせ、見たら心変わりしてー、とか思ってんのやろ。じゃあもうええわ。見せてくれへんのなら、力ずくで見せてもらいますえ」

 白崎は女に気付かれないようにそっと懐に手を入れた。駄目元だが、やられる前にせめてもの抵抗をしてやろう。

 その時だった。女の背後に光るものが見えた。それは、まるでプロの投手が投げたストレートボールの様な速さでこちらに向かってきた。

 女は振り向き、指先をそれに向けた。直後、何かが砕け、空中に赤い煙が広がった。

「惜しい。もう少しだったのに」

 グラウンドに声が響いた。声は少女のような、少年のような声だった。白崎は光るものが放たれたであろう場所を見た。

 そこにはイツキと、透が立っていた。二人は白崎と女のいる方に近付いてきた。それを女は立ち上がったままじっと見つめる。

「何のつもりでっしゃろ。もの投げつけて危ないやろ」

「ああ大丈夫だよ。それは見ての通り、只の煙だから」

 イツキは言った。白崎は当初彼の事を少女かと思ったが、話しぶりを察するに、どうやら少年であるらしいと判断した。

「あそこで膝をついている男性が白崎さんかな」

 イツキはその白髪の老人の方を向いて言った。

「多分」

「一応聞いてみますが、誰かお付きの人が来るとか言っていなかったでしょうか」

「いいえ、何も。そもそも、あれがお付きの人に見える?」

「まあ、見えませんね」

「じゃあ、暴漢の類よ」

「何をぼそぼそ喋っとんのや、坊や達」

「いやあ申し訳ない。少し状況確認したくてね」

「そうか。ま、それは大事な事やな」

「それで念の為聞いておきたいのだけれど、貴方はここで一体何をしているのかな」

「あら何か疑わしげな聞き方。私そんなに悪党に見えますやろか」

「いいえ。大変品の良い姫君に見えますが」

「あらおおきに坊や。せやかて、その引っかかる物言いは何やろなあ。私、只この紳士さんが大事なもん持ってるさかい、見せてくれますか言うてるだけなんやけど」

「そうかね。私には、いたいけな中高年男性をいたぶっているようにしか見えないのだが」

「ま、そんな事。傷付くわあ」

「いやそれにしても、おかしいな。この辺りの逸話や伝説に関する資料は一通り目を通していたつもりだったんだが、君のような奴は何処にも掲載されていなかった」

 イツキが女の角を見ながらそう言うと、女は薄い笑みを浮かべた。

「坊や、頭でっかちのインテリみたいな事言うんやなあ。ご本に書かれてる事だけが全てじゃないやろ」

「耳に痛いね。今度は宮本某殿に倣ってちゃんとフィールドワークも取り入れてみるよ」

「そりゃ、よろしい心掛けで」

「貴方は一体何者。人間ではない、ようね」

 透がおそるおそる尋ねた。角の生えた女は透を見て微笑む。

「何者も何も、見た通りの者や、可愛いお嬢さん。分からへんやろか、これだけ分かりやすい記号網羅してるのになあ」

 人間離れした美しい容姿、染めたのではないナチュラルな金の髪、暗がりでも分かる真紅の瞳。そして何より二本の角。

 透もそれから連想されるものにはもちろん馴染みがあった。

「……鬼?」

「せや、正解。本当なら正解したお嬢さんにいい子いい子してあげたいんやけどなあ」

「く」

 正真正銘の魔物。これまで幾度か見てきたような小物のあやしとはわけが違う、透はその事を肌で感じた。一体全体、この国に土着の魔物が何故こんな所をうろついているのか。透がどうするべきか考えていると、イツキが一歩踏み出す。

「イツキ」

 透がイツキを呼ぶと、イツキが振り返る。

「ここはお任せを」

「援護する」

「いえ、どうか自分の身を守る事に専念してください」

 それから、イツキは女に尋ねた。

「私はイツキという。後学までに聞いておきたいのだが、貴方の名は何という?」

六条院紅葉りくじょういんもみじや」

「ほお、雅そうな名前。実に貴方にしっくり来る」

「ありがと、坊や」

 六条院と名乗った女が言うと、イツキは走り出した。

 その次の瞬間、イツキの姿は忽然と消えた。

 イツキは、数十メートル離れていた筈の六条院との距離を一瞬にして詰め、いつの間にか手にしていた短剣で六条院に斬りかかった。六条院の方もいつの間にか握っていた、何処から出したのか分からない薙刀で応戦する。

 甲高い金属音がグラウンドに響く。六条院の踏んでいる砂地の周囲に大きな亀裂が走り、窪んだ。しかし、六条院はそんな事など意にも介さず足に力を込め、上からのしかかる形で斬りかかってきたイツキを振り払う。

「坊や、作法っちゅうもんを知らへんのか」

 吹き飛ばされ数メートル離れた所に着地したイツキに、六条院は呆れた様に語りかける。

「お生憎様で。残念ながら私は騎士道にも武士道にも縁がない身でしてね。戦いなんて、何はともあれ勝てればよいと考えている外道というわけです」

「そらいけまへんわ。たとえどんな異国でも、作法はあるもんやおもうてるのやけど、坊や一体何処の生まれや」

「さて、私を打ち負かしたとあれば教えて進ぜようが、如何いかがか」

「ほんに坊や、ちょいとしつけが必要やな」

 お互いに踏み込む。その次の瞬間透が目にしたのは、もうお互いが目の前で斬り合っている様であった。

 目まぐるしく互いの位置が動く。互いに持っている得物えものの動きを透はとても追いきれず、かろうじて把握出来るのはほんの一呼吸のごく些細な一瞬、得物の動きが止まる時だけであった。

 金属音が響き合う。それを、透は歯ぎしりして見つめている。

 とても手が出せない。

 透は薙刀を嗜んでいたが、それもこういう事があるかもしれないからと、いざという時のためにやっていたものだ。腕は悪くもない筈。先生からも腕は随一だと言われたし、試合でだっていい成績を残した。

 だけど、それだけだ。

 ここじゃ、そんなものはあってないようなものだ。

「女の癖に、大した力だ。全く恐れ入るよ」

 つば迫り合いの状況の中、イツキは目の前の六条院に言った。

「そっちこそ。可愛らしいなりしてえらい力やなあ、坊や」

「ぐ」

 イツキの体勢が崩れる。間髪入れずに六条院は薙刀を横に薙いだ。イツキはそれをかろうじて短剣で受け止めるが、吹き飛ばされてしまう。

 膝をついたイツキは咳き込むが、すぐに、立ち上がり、構える。

「このままじゃ」

 透は呟く。イツキは任せろなどと言ったが、押されている。

 やっぱり、何とかしなければ。透は手を上着の内ポケットに忍ばせて、タイミングを見計らう。

 相変わらず激しい剣戟けんげき、それによって飛び散る火花。これが観賞用の演武だとでも言うなら、武道館ですら容易に満員に出来るだろう。これが夢だと誰かに言われれば、何の疑いもなく信じてしまうであろう。

 大丈夫だ、落ち着け。透は自らに言い聞かせた。

 再び膠着こうちゃく状態になった。

 やらなければ。ただ置物のように立っているだけなら、自分なんかいる必要はない。私は、滋丘の魔術師だ。

 透は持ってきたウエストバッグの中に手を入れながら、右足を一歩踏み出す。

 手に持ったのは蜥蜴とかげを象った贋作使魔フェイクファミリヤ

 かつて金髪の男に放った様に思い切り六条院に向かって投擲とうてきする。

 それは地面へと落ちると本物染みた赤蜥蜴となり、音もさせずに這うように奔り六条院へと向かっていく。

 そして、蜥蜴は六条院の足元へと到達した。六条院は相変わらずイツキとの鍔迫り合いをしている。

 よし、いける! 透が確信した時だった。

 六条院の右足の踵部分が少しだけ上がり、そして地面を踏んだ。すると、地面を火のようなものが伝わり、蜥蜴を火で包み込んだ。

「なっ」

 透は目を見開いた。蜥蜴は黒く焦げた紙となって残骸が辺りに散らばる。

「堪忍な、お嬢ちゃん。狙い目おもたんやろけど、ああ来るなて私もおもてたんや」

 こちらの方を向かずに、六条院は答えた。

「何かあるんやったら、また出してきてもええよ」

 六条院は力を込めて膠着こうちゃく状態を解き、後ろへと後退した。

 その時であった。六条院の周りはいつの間にか水の膜のようなもので覆われていた。

「何や、これ」

 ふと、視界の端に何かが映った。それは、白崎であった。この奇妙な水は、白崎の手元にある細い瓢箪の様な容れ物から流れ出ていた。

「上手くいってよかった。やれ」

 膜の天井に水が集まり、やがてそれは鉄砲水のように六条院に襲いかかった。六条院はそれに薙刀を構えて応戦する。

 水が岩場に勢いよく当たるような音がした。その水の膜は弾け、辺りへと飛び散る。

「うっ」

 透は飛び散ってきた水を避けるために反射的に後ろに後退する。

 みずち、か。透は水が再び白崎の持っている容れ物の中に収まっていく様子を見ながら推測した。水蛇の魔獣は、場所によってはかつて水の神とも言われてきた存在であり、それを式神などとして加えるのは容易い事ではなかった。

「やってくれはったな」

 そこには膝を付き、薙刀で自分の体を支えている六条院がいた。六条院はよろけながらもゆっくりと立ち上がる。

「ああ非道い。着物が濡れてしもうたやん」

 イツキが足を踏み出して斬り掛かろうとするが、六条院はそれを察したのか、すぐに体勢を整えて薙刀を構える。

「舐めんとき、まだまだいけるわ」

「大したもんだ。で、どうする」

「今回は退かせてもらうよ。折角の着物濡れてしもうたし」

「まさか、このまま逃がすとでも」

「あら自身満々やね。やってみなはれ」

「では、お言葉に甘えて」

 一瞬、場が静まり返る。しかし、次の瞬間イツキは既に六条院に斬り掛かっていた。

 まさしく電光石火。助走をつける素振りもなかった。そして、先程の鉄砲水のせいで体力を消耗していたのか、六条院はあっさりとイツキの手にしていた短剣の餌食となった。

 そう、透は思ったが、それは間違いであった。

 斬った筈の六条院は瞬時に無数の紙片となって辺りに飛び散り、後はもう、紙の残骸がひらひらとグラウンドの地面に落ちていくのみで、六条院と呼べるものはそこのどこにも存在しなかった。

「おお、怖いわあ。あの時入れ替わっててほんまに良かった」

 透、イツキ、白崎の三人はグラウンドの上を見上げる。そこには、先程地上にいた筈の六条院が三人を見下ろしていた。

「取り敢えず、今回は一旦引かせてもらうわ。楽しかったよ、ほなまた今度な」

 そう言って、六条院は飛び去ってしまった。


「大丈夫ですか」

 透が駆け寄ると、白崎は笑った。

「ありがとう。軽い蹴りを一発喰らっただけだから大した事はないよ。骨も折れてない」

「そうですか、よかった」

「それにしても彼、は一体何者なんだ?」

 白崎は体に付いた砂を払っているイツキを見ながら言った。

「彼は、イツキは私の使い魔です」

「ほお、あんな者と渡り合える程のか」

「ええ、まあ」

 頷きつつも、透もイツキがあれだけ動く所は初めて見た。それと同時に、イツキという存在が人間とは別物だという事も改めて認識させられた。

「白崎さん。とりあえず、家まで行きましょう」

「ああ、そうだったね。そのために私は来たのだった」


「私は滋丘家との付き合いこそなかったものの、昔から春之助とは個人的な付き合いがあり、しがらみがないせいかよくお互いの内を話し合う仲だった」

 手に取った珈琲コーヒーカップの中身を見つめながら、白崎は言った。カップの中は黒い液体で充たされている。珈琲はイツキが注いだものだった。

 透は改めてまじまじと白崎の顔を見たが、温和そうな老人であると思った。顔に刻まれたしわはその苦労を表してはいたが、それでも尚、この老人はその穏やかな雰囲気をその顔全体に湛えていた。

「ある時、春之助は妙な事を言いました。丁度今年の十二月が終わる頃、朝比奈の地に災厄が起きるかもしれないと」

「災厄、ですか?」

 透は白崎に尋ねる。

「ええ。災厄なんて言うものだから、てっきり火山でも噴火したり、地震でも起きたりするのかと思ってそう聞いてみました。しかし、春之助は違うと言う。災厄というのは、一般的に考えられているようなものではないとね」

「やっぱり魔術に関連したものでしょうか」

「近いと言えば近いかな。春之助はこう言ったんだ。災厄はタルタロスより来る」

 タルタロス、その単語が白崎から飛び出してきた。

「タルタロスの由来は知っているかな?」

「はい、それなら。タルタロスとはギリシャ神話に登場する神であり、また、神々に反逆した者達を閉じ込める牢獄そのもの、ですね」

「そう。何もギリシャ神話のタルタロスそのものがこの朝比奈にあるわけではないでしょう。ここに現れるのはあくまでもその名を冠した門、つまり、タルタロスの門と言える」

「現れる、ですか? 門が?」

「春之助はそう言っていました。門というのは概念的なものだ。物理的な物として何処かに置かれているわけではない」

「ですが、何処かの地点に現れるわけですね」

 イツキが言った。

「そうですね。おそらく、近い内に朝比奈の地に現れるわけですが、場所は不定です」

「おや、ハルノスケは教えてはくれなかったのですか?」

「ええ。春之助はどうやら門が現れる場所を知らなかった、というより分からなかったみたいです。恐らくその時にならないと出現場所が分からない、そういうものなのでしょう」

「成程」

「ただ、これは私の推測ですが門はある一定以上の霊地にランダムで現れるのではないかと思います。何せ概念的な門ですから、何処か決まった場所というより、一定の条件を満たした場所であれば何処でも現れ得ると考えるのはおかしな事ではありません。この辺りですと、それに相応しいのは、真っ先に思い付くのもので朝比奈城や北上きたかみ山、五方いつも神社等ですが、少し格落ちすると朝比奈高校や市役所近辺などいくらか候補はあります」

「朝比奈高校」

 透は呟いた。そういえば、イツキは朝比奈高校を調査していた。ひょっとしてイツキはタルタロスの調査のために高校を訪れていたのだろうか? タルタロスが具体的にどういった代物か分からなくても、重要な霊地であれば何か手がかりが掴めるかもしれないから。 そして、あの金髪の男も。

「透さん」

「はい」

 透ははっとして自然と下げてしまっていた顔を上げた。そこには、特に不審がる様子もなく温和そうに笑う白崎の顔があった。

「やはり何処となく春之助に似ていますね」

「いえ、とんでもない。私なんかまだまだ未熟です」

 褒められているわけではないのだが、何処となく気恥ずかしく感じられて透は頬が火照ってしまう。

「さて、私が春之助から聞いたのはこれくらいです。それで、電話で渡したい物があると私が言った事を覚えておいでですか?」

「はい」

「実際の所、それがここに来たほとんどの理由です。話だけなら、別にメールや電話を使えばよかった。傍受される心配もありましたが、まあタルタロスを嗅ぎ付ける様な者なら掴んでいてもおかしくはない内容でしょうし。ですが、これだけは自分の手で持っていかなければならないと思っていました。誰かに預けるのは不安でしたから」

 そう言って、白崎は懐にしまっていた小さな黒い箱を取り出した。それは、光沢もなく、何の装飾も施されてない、質素な箱であった。

「これは生前春之助から託された物です。透さん、時が来たらこれを貴方に渡すようにと」

「それは、一体?」

「ダイダロスと言います。春之助はタルタロスを閉める鍵であると言っていました。いざという時のために、私に預けると。そして、時が来たら貴方に渡すようにと」

「鍵」

「ええ。一つ大事な事を伝え忘れていました。タルタロスは今現在不安定な状態です。誰かがちょっとした刺激でも与えてやれば、開きかけていた門が完全に開くかもしれない。そうなれば、中に溢れている災厄がこの街中に出てくるでしょう」

「災厄が溢れ出すと、どうなっちゃうんですか?」

「申し訳ない。具体的な中身は私も存じかねます。多分、春之助も詳しくは分かっていなかったでしょう。その上での邪推と思って聞いてほしいのですが、恐らく、この街は破壊し尽くされ何千何万と犠牲者が出るでしょう」

「え」

 この街が破壊し尽くされる? 透はその言葉に胸を突き刺された気分になった。それはつまり、大好きだった場所も、この家も、友人も……

「無論、被害はそれに限らないかもしれない。鍵、つまりダイダロスはそれを防ぐため、不安定になった門を完全に閉じるためのものだという事です。幸い、タルタロスの前には防衛システムたる門番がいるため、並の魔術師では立ち入る事も出来ず追い返されてしまうと言われていますが、その防衛機構も果たしてどれくらいのものか。透さん」

「はい」

「すみません。先程はこれを渡すためと言いましたが、これを受け取るかどうかはやはり透さんが決めてください。只もし受け取れば、貴方はタルタロスに関わらざる負えなくなる。タルタロスを利用しようと狙う者がいます。そういった者達から狙われる事もあるでしょう。はっきり言ってしまいますと、命に危険が及ぶ可能性だってある。だから、断る事も可能です。滋丘の人間とはいえ、まだ若い貴方にそんな強要は出来ない。だからその場合、私は別の信頼の置ける人間にこれを託し、その人にちゃんと、タルタロスが開かない様に封をしてもらいます。透さん。貴方の答えは」

「受け取ります。白崎さん、それを私に」

「本当に、それでいいんですか?」

「はい。これはお爺ちゃんが私に託した事。滋丘の人間がやるべき事です。それを誰かに押し付けて私だけのうのうとするつもりはありません。私が、やります」

 時計がチクチクと音を立てている。イツキは透の横で白崎の答えを待つかのようにじっと横で立っている。白崎は透を少しの間見続けた後、やんわりといつもの笑みを浮かべた。

「分かりました。ではこの鍵を貴方に託します。どうか、貴方の今後に幸の多からん事を」

 白崎は、透にその小さな黒い箱、ダイダロスを託した。

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