2章・2節

「ただいま」

「お帰りなさい」

 自宅に帰り着いた透が顔を見上げる。そこには幾らかの本を抱えたイツキが立っていた。

「あ、うん」

「どうされました。キョトンとして」

「いいえ、別に何でもないわ」

 どうという事はない。この子は所詮使い魔の類なのだ。帰宅の挨拶をしたら返事が返ってくるようになっただけの事。そう透は自分に言い聞かせた。

「ところで、本を持って何をしているの」

「ああ、せっかくの余暇ですので色々と本を読み漁っておきましょうかと」

「そう、好きにすればいいわ」

 そう言って部屋に向かおうと階段に足をかけた時、ふと透は振り返った。イツキはまだそこにいて、透の方を見ていた。

「何か」

「私の部屋、入ってないよね?」

「はい、無論です」

「そう、ならいい」

 イツキは昨日から透の家に住むようになった。学校の件から数日。最初の何日かは準備があるとの事で一旦は現在の居候先に戻ったが、昨日透の家に来て居候するようになった。

 元々家族で住む事を想定した館だったから使っていない部屋がいくつもあった。使っていない、とは言っても居住スペースとして使っていないだけであって、いくつかは物置としては機能していた。その中から透はイツキに自分の部屋から遠い部屋を充てがう事になった。実際のところはイツキからその部屋を申し出されたのだが、少しでもプライベートを侵食されるのを嫌がった透は、その提案を二つ返事で良しとした。

「何か自分が嫌になる」

 部屋に戻った透は自己嫌悪に陥った。人の事をさり気なく避けたり、拒絶するような事。外ではそれなりに普通に振る舞っているつもりだけど、時々自分でも自覚するくらい自分の打算的で卑しい思考回路が鼻に付く。

 漫画とかアニメの登場人物みたいに、もっとこんな余計な事を考えない真っ直ぐな人間になれればいいのに。

「お腹空いた」

 空腹を訴える腹を片手で押さえながら、透は無意識に机の上にもう片方の手を伸ばす。

「あ」

 そうして気付いた。そういえば今日は何も買っていなかったのだという事に。

「うげ、仕方ない」

 透は近くのコンビニで何かを買おうと、気怠い体を起こして部屋の扉を開けた。しかし、イツキの分はどうすればいいだろう。透はふと、自分より小さな居候の事が頭に浮かんだ。

「あれ、この匂い」

 食欲をそそる匂いがする。何かを煮込んでいる匂い。

「ひょっとして」

 透は足早に階段を降りていく。心なしか、段々とその匂いが強くなってくるのを感じた。透は、居間の扉を開けた。

「やっぱり」

「ああ、これはこれは」

 居間に併設されたキッチンの方を見やると、エプロン姿のイツキが立っていた。彼の前には鍋が置いてあり、そこから湯気が立ち上っている。

「何してるの?」

「無論、料理です。居候する以上、何か透の役に立たなければ申し訳ないですし、何より私の肩身が狭い」

「別にいいのに」

 そんな事を期待して来てもらったわけではない。

「まあいいではありませんか。武骨な料理しか出来ませんが、可能な限りお嬢様のお口に合うように腕によりをかけます」

「そう、ありが、とう。っていやいや。ちょっと待って」

「材料費等でしたらご心配なく。貴方様から何かをせびったりする事はありませんから」

「え」

「私も色々とやっていましてね。少ないですが暮らしていくためのお金はあるんですよ」

「はあ」

「そういうわけですので、どうぞ、しばしのお待ちを」


 居間でイツキの作ったカレーを頬張りながら、透はちらちらとイツキを観察する。

 先ず、顔立ちに目がいった。まるでそう意図されて生まれてきたかのように端正な顔立ちであり、人形だってここまでのものがあるかと問われると疑わしくなる程であった。

 体にしても同様だ。肉付きに余分な物がなく、かといって痩せているわけではないその健康的な肉体は、見た目こそ異なるがダビデ像やミロのビーナスを連想させた。

 それにしても、と透は内股座りのイツキの周りに目を向けた。気が付けばイツキの座っているソファの周りには哲学書や文学書、低俗本から恋愛指南書まで様々な本が置かれていた。いくつかは透の見知っている本もある。ノートルダムの鐘つき男の本はその一つだ。

「お嬢様。どうなさいましたか?」

 視線に気付いたらしいイツキは髪をかきあげながら透の方を向いて言った。

「べ、別に」

 さっきまで観察していた事を悟られない様に、透は咄嗟に目を逸らした。

「ところで、高校で何か変わった事はございましたか?」

「ううん別に。強いて言うなら土門君ってクラスメイトの子に声かけられただけ」

「つちかど君?」

「そう。クラスメイトで、野球部の子」

「ふむ、成程」

 そう言ってイツキは顎に手を当て、考え込むようなポーズをとる。

「どうしたの? 言っとくけど、彼は別に魔術師でも呪術師でも陰陽家でも何でもないわよ。そんな話聞いた事ないし」

「いいえ、そうではなくて。野球部は確か暴力沙汰で停部になったと聞いています」

「よく知ってるわね。確かにそうだけど、それがどうしたの」

「いえ、とんだ災難だ、と思っただけですが」

「そうね。確かにとんだ災難よ。だけど土門君は大丈夫そうだった」

「そうですか。それは何より」

「でもイツキ、貴方何処からそんな情報仕入れてきたのよ」

「無論、この前校舎をうろついていた時です」

「ああそういう事ね」

「それはそれとして、他に何か変わった事は?」

「いいえ、もうないわ。でも何でそんなに詮索するの?」

「いいえ。曲者が何処に潜んでいるか分かったものではないですから。念の為です。ついでに言うと、お嬢さん。少しでも身の危険を感じたら迷わず私を転移テレポートで召喚ください。一秒もかからずそちらに馳せ参じます故」

「ええ、分かってるわ」

 転移、というのはカタガミの儀にて契約を結んだ二者間において作用する特別な移動方法であった。主従の関係となるこの二者の内、主の側の意思によって離れている従を自分の元へと瞬時に呼び寄せる事が可能であり、それに必要なのは主の側の魔力だけである。一見すると使い勝手の良いものだが、使用者は多大な魔力を消費する上、主の側が自分と従の居場所を把握していなければならないという制約もある。

「ま、この前の魔術師は人目のある所で襲って来ないでしょうし、今の所使う場面はなさそうだけどね」

「万が一という事もございます。どうか、油断無きよう」

「ええ、分かってる。それはそれとして、前から思ってたのだけど」

 透は切り出した。

「何でしょうか、お嬢様」

 居間のソファで本を読む作業に戻ろうとしていたイツキは再び顔を上げる。

「その、お嬢様ってのをやめてもらいたい」

「ああ、申し訳ない。不愉快でしたか」

「いや、別に不愉快ってわけじゃないのだけど。何かさ、恥ずかしい」

「ふうむ。では、何とお呼びすればよろしいでしょうか。主、マスター、マエストロ?」

「普通に透でいいってば」

「承知しました。仮にも主を呼び捨てとは何とも後ろめたい気持ちもありますが、貴方がそうおっしゃるならば。今後はそう呼ばせていただきます、トオル」

「はいはい、お願いね。それにしても君は食べないの? イツキ」

「お気遣い痛み入ります。ですが私は食べなくても問題ありません。そういう体をしていますから」

「ふうん、まるで霞でも食べて生きてる仙人みたいね」

「そうでもありません。食べるのは好きですから。今は少し気乗りしないだけです」

「そうなのね」

「それより、トオル。トオルはこの邸宅内の事を熟知しているでしょうか?」

「そりゃ知ってるわよ。一応自分の棲み家だもの。家の事は一通り把握しているつもりよ」

「では、何処かに開けては行けない本や箱があるとか、隠し部屋があるとか、そういったものも把握済みですか?」

「どういう事?」

「タルタロスについてです。ハルノスケが何も残していないとは思えません。可能性があるとすれば、先ず考えられるのはこの家の何処か。如何でしょうか」

「如何って言われても。そんな事まで調べた事はないわよ。子供の頃に酷い目に遭ってから、無闇におじいちゃんの本に手を出したりしなくなったし、今だって自分には手の負えないものもあるわ。そういう意味で言えば、この家ってばやばいのよ」

「そうですか。それでは、隠し部屋等の線は」

「知らないわよ。普通、家に隠し部屋があるなんて思わないわ。何処のミステリー小説よ」

「仮にもここは魔術師の牙城です。有事の際の備えはしている筈だからあってもおかしくはありません。特に隠し部屋は常套じょうとう手段です故」

「ええ、ええ、無知で悪かったわね。さあどうかしら。おじいちゃん、あんまりそういう事するような人じゃなかったから」

「それには同感です。ですが、知らないなら探してみる価値はあるかと」

「タルタロス、だったっけ」

「はい」

「どうしてそんなに気になるわけ?」

「以前お話した通り、興味があるからです。何せ、彼が、ハルノスケが最後まで気にしていたものなのですから」

「お祖父ちゃんが……」

「はい。ですが、これはあくまで私個人の興味ですのでトオルの手を――」

「探しましょうか」

「はい?」

「だから、探すの。大体、ここは私の家よ。私の許可なく勝手に探し回る気?」

「いえ、そんなつもりはありませんが」

「ありませんが、何?」

「何故、突如としてタルタロスにご興味を?」

「タルタロスを開けてはいけない。お祖父ちゃんはそんな事を言ってたの。そしてイツキ、君はお祖父ちゃんが最後までそれを気にしてたって言ってた。何か引っかかるのよ。このままタルタロスが何なのか放置してちゃいけない気がするの。だから、私も探す」

 透が言うと、イツキは笑みを浮かべた。

「そうですか」 

「でも本は、やばいやつには手を出さないからね」

「禁書の類でしたらご安心を。いざとなれば私が暴きます」

「そう、それは心強いわ。分かった。後で探してみましょう」


 食事を済ませた透はイツキと館内を調べ始めた。先ず手始めに、祖父がかつて使っていた書斎を調べ始める事にした。何故なら、大事な物ならば最も自分に近い場所に安置してあるだろうと推測したからだ。

「いやしかし、大した蔵書量で」

 部屋の隅の本棚を調べていたイツキは思わず呟く。

「まあね。我が家の事ながら、よくもまあこんなに集めたと思うわ。これ売ったら、一体いくらになるのかしらね」

「そうですね。歴史を重ねた家の蔵書ともなれば、貴重なものも数知れずでしょうから、ざっと何百代何千代まで遊んで暮らせるくらいのお金はかたくないかと」

「それ聞いたら、いっそ売ってしまいたくなったわ。高等遊民万歳」

「でも後世に悪名が残りますよ」

「へえ、例えばどんな?」

「家の財産を食い尽くしたトンデモ女、みたいな」

「何それ、ゴシップ記事みたい」

 そう言って透は笑った。

「ま、冗談はさておき。ちょっと聞きそびれた事があったわ」

「何でしょうか」

 分厚い皮の装幀の本をパラパラとめくりながら、透は答えた。

「学校にいた男の事。あの男は一体何をしていたのか知ってる?」

「ふむ、そうですね。それは確かに伝えておくべきでした。確定した事は言えないのですが、調査をしていたのかと」

「調査?」

「ええ、これも推測ですが、タルタロスについて」

「そう。それはまた遥々遠方からご苦労な事ね。そんなに重大な事なのかしら」

「それはもう、遥々遠方から来るくらいだから重大な事なのでしょう」

「でも、何で学校なのかしら」

「タルタロスについての手がかりの痕跡があるのではないかと踏んだのではないでしょうか? あの高校は中々良い霊地ですからね、あの黒ずくめの男が目をつけたのも頷けるというもの。多分、彼処あそこに学校を建てた人間もそれを知っていて建てたのでしょう」

「でもそんな話聞いた事ないわよ。あの高校、七不思議もあるんだかないんだか分からないくらいだし」

「よく霊地として整備されていたのでしょう。悪霊の類が入らないようにされていたから、そういう浮いた話も出てこなかった。しかし、だ。だからこそそこに何かあるのではないかと疑うのも不思議な話ではないでしょう」

「成程ね。でもそれで学校に不法侵入して挙げ句人を襲うなんて、いい迷惑だわ」

「そうですね。あの男については、警戒するに越した事はないでしょう。トオル、恐らく彼奴きゃつはまた貴方を狙ってくるでしょう。その事を、ゆめゆめお忘れなきよう」

「分かってる」

 もしイツキの言っている推測が真実だとしたら、いずれ滋丘家の事に辿り着き、自分の存在に気付くだろう。いや、既に気付いているのかもしれない。透は、改めて自分がのっぴきならない事態に巻き込まれつつあるのだと自覚した。


 家の内部を日付が過ぎるまで調べ回ったが、それと思しい本はおろか、隠された部屋らしきものも見付からなかった。

「今日はここまでですね」

「はあ、ただただ疲れたわ」

 居間でソファに深々と体を預ける透。イツキは特に疲れた様子を見せるでもなく、そんな疲れ切った透を見ている。

「ざっと調べただけでは見付からないとは思ってましたが」

「案の定何も見付からなかった。これ、続けるの?」

「まあトオルは学業もありますから、後は私にお任せなさい。細かな所はまだ全然調べきれていないから、改めてその辺りを潰していこうかと思います」

「ありがと。でも、私の部屋は覗かないでね。彼処には本当に何もないから」

「無論です」

「それじゃ」

 透は立ち上がる。

「シャワー浴びてくる」

 居間を出ようとした透は振り返る。

「一応言っておくけど、覗かないように」

「ええ勿論です。しかし、そう言われると却って好奇心が湧いてくるものですね。見るなのタブー、みたいな」

 へへへ、と無邪気に笑うイツキ。透は呆然とした顔をした後、イツキの所まで足早に行き、ソファの傍に立っていたイツキの胸辺りをぐいと押して、ソファに突き飛ばした。

 そのまま何も言わず、透はやはり足早に居間を出ていった。

 イツキは出ていく透を見守りながら、「やれやれ」とだけ呟いた。

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