1章・4節

「やば、忘れてた」

 透は思わず呟いた。

 普段、彼女は学校にいくつか教科書類を置いて帰っている。高校ともなると、歴史の資料集やら数学の参考書やらで荷物があっと多くなるからである。当然、それをそのままそっくり持って帰ろうとすると、多大な負担を体に強いる事になる。別に修行僧でもないのにそんな事を好き好んで行うのも馬鹿馬鹿しいので、当然の帰結として彼女は自宅に持って帰る必要のないものは極力学校に置くようにした。具体的には、宿題の出なかったものや、その日の復習に使わないようなものである。

 しかし、この日自宅に帰り着いて部屋で復習しようとした時、宿題の出ている英語と数学、日本史の教科書を丸ごと置き忘れていた事に気付いたのだ。

 よりにもよって数学もか、透はため息をつく。数学教諭の田辺は嗜虐心のある男なのか、単に教育熱心なのか、宿題を忘れた生徒に対して倍の宿題を課す事で有名な教員だった。

 それに、透にとってもっと憂鬱な事があった。それは、宿題を忘れる事で悪目立ちする事だ。あまり目立つ事が好きではない透にとっては、悪い意味で目立つのは一層避けたい事であった。宿題を複数忘れたとなると、何とも具合が悪い、透は片手で頭を抱える。

「行くしかない、か」

 透は気怠げに立ち上がり、先程脱いだ厚手のカーディガンを着、バッグを持って愛車であるミニベロで学校へと向かった。

 普段はバスで最寄りまで向かっているが、夜の八時ともなると学校へ向かうバスの本数はめっきり減ってしまう。だから必然的に自転車で向かわなければならないが、坂道の多い道程に透は改めて辟易した。

 すっかり日の落ちて暗い夜道を、街灯の灯りを頼りに数十分かけてようやく学校へ着いた。透はまだ開いていた校門から学校に入って駐輪場に自転車を止め、校舎へと向かう。

 一応、職員室に事情を説明しておこう。これはこれで気乗りはしないが、無断で学校に侵入というわけにもいくまい、透はそんな事を考えながら校舎へと歩を進めていった。


 ふと、視界の端を何かがちらついた。


 そこはグラウンドであった。こんな時間に誰かがグラウンドにいるのだろうか、でも一体何のために? 透はグラウンドの方を見つめるが、人の気配はない。

「気の所為、か」

 透は呟いて踵を返そうとした。

 いや、何かがおかしい。

 透はもう一度グラウンドの方を見やり、「Ecce《真実を映せ》」と呟いた。

「あ」

 透の口から思わず声が漏れた。

 変な好奇心なんか出すんじゃなかった。気付かないフリをして大人しく教科書の回収に行けばよかったのだ。

 だけど、気付いてしまった。

 そこには、異様な風体をした黒コートの男が立っていた。

 

「ほお、一応私なりに配慮して人除けをしていたのだが、まさか看破されるとはな」

 金髪に彫りの深い顔立ちの中年男は透の方を見てそんな事を言った。その容姿から外国人である事は一目で分かったが、男の表情の無さは一層深く透に奇妙な印象を与えた。

「という事は君は魔術の徒、ないしそれに類する者という事でいいのかな?」

「ここで、何をしているの」

 よせばいいのに、そんな事を思いながら、透は尋ねた。男がここで何をしていようと自分には与り知らぬ事だ。たとえそれが魔術を嗜む者であっても。

 だが、もしこの男の目的が学校の人間を襲うような事であったら? そうしたら、どうしよう。

「質問を質問で返すとは何事だ。だがまあいい。これから死にゆく者の素性など知れなかったからといって、どうという事はない」

 そう言うと、男はコートの内ポケットから紫の気体の様なもので満たされた小瓶を取り出した。ゆっくりとその封をしているコルクを抜くと、そこから気体が吐き出される。

 やがてそれは、気体で出来た三匹の狼になった。

「嘘」

「嘘なものか。どれ、先ずは甘噛みといこう」

 男が持っていた杖を透に向ける。すると、気体状の狼達は我先にと透へと走ってきた。

「ちっ」

 透は肩にかけていたバッグの中に手を突っ込み、中から鳥を象った紙を取り出してすかさずそれを狼達に投げつけた。その紙は瞬く間に鷹へと姿を変え、狼達に襲いかかる。

 それは、偽神の法と呼ばれる陰陽の術であった。何かの形を模した紙を実際に実物の如く変化させるもので、変化させたものは単に偽神にせがみ、あるいは贋作使魔フェイクファミリヤと呼ばれる。透はしばしば護身用として持ち歩く事があった。

 それを、男は興味深そうな目で見ていた。

「成程。オンミョウドウか」

「これでも、喰らえ」

 間を開けずに透はバッグから透明な液体の入った瓶を取り出し蓋を開け、それを男に向かって投げ付けた。瓶は空中で砕け散り、空中にぶち撒けられた液体は小さな鋭利な氷柱となって男に襲いかかった。

 あくまで護身用に忍ばせていた道具達。いずれも人を殺傷するようなものではないが、だからといって軽傷で済む程生易しいものでもない。

 兎にも角にも、逃げなければ、透は踵を返そうとした。

「遅い、もう手遅れだ」

 そう男が告げるのを聞いた。思わず、透は振り返る。

 そこには、いつの間にか先程の三匹とは別にもう一匹の狼がいた。それは、今まさに透に飛び付こうとしている。これ、絶対甘噛みじゃ済まないやつだ。そう透は直感した。だけど多分、自分はこれを避ける事が出来ない。

 終わったな。透は思わず目を瞑った。これなら、宿題忘れて恥辱に顔を赤くしながら一日を過ごした方が一億倍ましだった。

「やれやれ、見ていられない」

 声がした。子供の声。

 気が付けば、透は誰かに腕を掴まれていた。眼に映る風景が高速で移動する。いや、移動しているのは自分だ、と透は一瞬遅れて理解した。

 透は横にいたその子供を見た。

 それは、放課後に見かけた少年だった。


「誰、君」

「話は後、こっち」

 少年は透の手を引いて、校舎の中へと入っていく。

「建物の中では、逃げ場はない筈だが」

 狩猟の獲物であってももっと賢い判断をするだろう。わざわざ自分から袋小路に逃げ込むなど理解に苦しむ行為だ。

「やれやれ」

 奇襲を狙っているのだろうが、相手は年端も行かぬ子供達。これでは張り合いがないな、そんな事を考えながら、金髪の男はその後をゆっくりと追っていった。


「ちょ、ちょっと」

「何か」

 そう言いながらも少年は振り返らず止まらず、透の手を引き続けて階段を登り続ける。

「申し訳ない。言いたい事なら手短に。奴が追ってくる」

「何処に向かってるの。これじゃ屋上に」

「ええ、屋上に向かってます」

「そんな、それじゃ」

「自ら袋小路に逃げ込む行為だ、と」

「そうよ。さっきは助けてくれてありがとう。でも、これじゃ自殺行為」

「いえ、このままでは何処に行っても遅かれ早かれ奴に追い詰められるでしょう。ですが、屋上に行けばそれを打破できる」

 それから少年は止まり、振り返って微笑む。

「私を信じてください。むざむざ貴方を死なせたりはしない」

「……分かっ、た」

 透は思わず頷いてしまった。

 少年はひどく中性的な顔立ちでとても美しかった。女である透であっても、それに一瞬の嫉妬と羨望を感じさせる程だ。だが、その可憐さの中に鋼があった。何度打ちのめされようが決して折れず砕けない強固な意思。透は彼の中にそれがあると感じた。だから、この少年の言う事を信じてみようと思ったのかもしれない。

 少年は屋上の扉を開いて外に出る。透は少年に続いて屋上に出た。

 予想した通りの特に何という事はない殺風景な空間。安全防止用のフェンスがある以外は特に目につくものはない。ただ、一つの例外を除いては。

 屋上の奥に半径二メートル程度の魔法陣が浮き上がっており、青白い光を放っていた。

 透は屋上の扉を閉めて、そこに歩いていく少年を追う。

「これは」

「見ての通りの陣です。ただし、陰陽家の。お嬢さん、これをご存じない?」

 言われて、透はそれをよく観察する。そして、ある単語が頭をよぎった。

 カタガミの儀。

 以前、透は祖父に聞いた事がある。これは、絶対服従を誓う代償に半永久的に鬼神の類に匹敵する力、魔力を提供するというもの。もちろん、普通の術者にそれだけに匹敵するものは存在しない。調達源はつまるところ、絶対服従という縁だ。絶対服従は文字通りで、意に反する行為であっても必ず従わなければならない。仮に戦えと命令されたら、戦わなければならないし、死ねと言われれば死ななければならない。そして、この命令に限りは存在せず、何度でも強要が出来る。

 元々滋岳家が陰陽家であった際に、凶悪な魑魅魍魎の類から街や人、自らを守るために編み出した独自の技法だったらしいが、そうした脅威の薄れた現代となっては特に活用されなくなったという。

「何で君がそんな事を知っているの。君は誰?」

「やはり、覚えてないか」

 少年は、小さく呟いた。

「覚えてないって、何の事?」

「いえ、私は滋岳家と縁がありましてね。以前、ハルノスケとカタガミの儀を交わした事があったのです。で、時間がない。トオル、私と契約を交わしていただきたい」

「え」

 唐突に告げられた言葉。契約? 何故この少年が。

「やり方を知らないなら私の方で全ての手順を踏みましょう。何、貴方はただ承諾していただければそれでよい」

「いえ、知ってる。でもちょっと待って。頭が追い付かない」

 その時、下の方から物音がした。静かにだが、確実に金髪の男が屋上に向かっているのを透は感じた。

「時間がない。やらねば共倒れです」

「ああもう、分かったわよ」

 透は自分の親指を噛み、出てきた指の血を陣の上に落とした。すると、青白く光っていたその文様は赤黒く変色し、一層その光を増した。


 ――其は芥 其は赤子せきし されど其は霊長の楔を志す者也


 透は、儀式の発動に必要な詠唱を唱えながら、ふと考える。

 ひょっとして、この少年はわざとここに陣を形成したのではないのだろうか。追い詰められたという状況を利用して自分の選択肢を削り、確実に契約をするために。

 だとしたら、何という奴なのだろうと透は思った。まるで詐欺師だ。

 締めていた屋上の扉が開いた。金髪の男がぬっと扉から出てくる。

「屋上に来るなど気が触れでもしたか、と思ったが。成程切り札があったというわけか」

 男はそう言って、魔力で編んだ剣を二つ生成して、それを二人に向かって射出した。


 ――応えよ 我が血を啜れ さすれば降魔の剣を与えたもう


 屋上が眩い光に覆われ、男は思わず顔を覆った。

「これは」

 男が目を開けると、視界の端に先程二人に放った筈の剣が転がっていた。その剣はやがて雲散霧消してしまった。

 男は眉を顰める。その忌々しく見つめる視線の先にいたのは、少年であった。手には、日本刀のように歪曲した短刀が握られている。

「さて、いよいよ大詰めだ。人の命を奪うつもりだったんだ。当然、自分の命を捨てる覚悟は出来ているだろう?」

「使い魔か、貴様」

「まあそうだね。でも式神とはちょっと違うかな」

 男は少年の背後にある魔法陣を見た。これは、違う。魔術の系統にある陣ではない。だとすれば。

「やはりオンミョウドウ、か」

「明察だ。君の知らない神秘。東洋の魔術も馬鹿にならないだろう?」

 少年はさっきと明らかに違っている。男は理解していた。どういう仕組かは理解出来ないが、後ろにある陣がきっかけで少年は途方もない魔力を得た。およそ、並の魔術師では足元に及ばない程の。

「ふ、ふふ」

「何がおかしい」

「さっきまで逃げ回っていたというのに。力を得た途端、こうも気が大きくなるとはな。実に滑稽だ」

「そう毒突かないでくれよ。久しぶりに力が戻ったんだから、ちょっとくらいはしゃいでしまってもいいだろう」

「君」

「お下がりを。貴方は素性の知れない私を信頼してくれた。今度は、私がその信頼に応えます」

 透の呼びかけに、少年は振り返らずに言った。

「さて、そろそろ準備はいいかな」

「ちっ」

 男は少年には目もくれず横に向かって駆け出す。その先には危険防止用の金網があった。

「飛び越えるつもりか、だが」

 少年は身を前のめりにし、右足を踏み出した。

 刹那であった。瞬きの間に少年は男との間にあった十数メートルの距離を詰め、今まさに跳躍を試みようとした男を持っていた刀で下から切り上げた。

「え」

 透は我が目を疑った。まるで、動画のワンシーンをスキップされて原因と結果だけを見せられたみたいだ。

 そう思わせる程に、少年の敏捷性は現実的なものではなかった。

 そうして、男は斬られた。そのため当然の帰結として、次に起こるのは鮮血が飛び散る光景、の筈だった。

 しかし当然起こるべき光景は起きず、男は砂が弾けるように雲散霧消してしまった。

「ふん、用心深い男だ」

 少年はそう言うと、踵を返して透の方へと歩いてくる。ナイフはいつの間にかその手から消えていた。

「無事ですか、お嬢さん」

 少年は手を差し出す。

「え、ありがと」

 いつの間にか自分が尻餅をついていた事に透は気付いた。少年の手を握り、立ち上がる。

「見ての通り申し訳ない。さっきの男は取り逃しました。どうやら、屋上に来ていたあれは人形だったようです。正確に言えばゴーレム」

「嘘、信じられない」

 あんな精緻なものを作れるのか。まったく作り方が想像出来ない。

「そうですね。私も信じられない。ですが、現実はそうだと言っている。おそらく、あの男は高位の魔術師なのでしょう」

「でも、聞いた事がない」

 透は半人前だが魔術師だ。本場の事情も多少は知っている。故に、そんなゴーレムを作れる者がいるなら、確実に一度は目にしている筈。なのに、そんなニュースは透は聞いた事もなかった。

「ふむ、では秘密結社の類に籍を置くものでしょう。現在の主流は茶会、いえ、北の魔導塔院と南のアテナイ学堂とかいう組織に二分されるかと思いますが、それらの活動に疑問を持った者達が独立して組織したものがいくらかあった筈。奴はそんな分派の内の一つかと」

「詳しいのね」

「お褒めに与り光栄にございます。主殿」

「なんか仰々しい」

「失礼。癖なものでして」

「そうだ。君、名前」

「名前?」

「そうよ。知ってるかもしれないけど、私は滋丘透。君の名前を教えて頂戴」

「私か。そうですね、好きに呼んでくれて構わないと思っているのですが、そういうわけにはいかないのでしょう」

「当たり前よ。それとも、ななしごんべえって呼ばれたい? 君がそれでいいなら別に構わないけど」

「うーん、それはちょっとばっかりかだいぶ考えものですね。でしたら私の事は、そう、イツキ、とお呼びくださいませな」

「イツキ、それが君の名前ね」

「ええ、まあ」

「何か引っかかるけど、分かったわ。それでイツキ」

「はい、何でしょうか」

「君はこれからどうするつもり? お家は?」

「無論、ありませぬ。家なき子です」

「はあ? じゃあ今までどうしてたの」

「ああいえ、すみません。今のはあまり言葉が適切ではありませんでした。別にずっと野宿して暮らしていたわけではないのです。私も文化的な生き物ですので、そんな事はとてもとても」

「前置きはいいから」

「失礼。つい癖で。それはともかく、実のところ市内に居を構えているとある魔女の世話になっていました」

「魔女? ああ、春坂にあるとこの」

「ご存知で」

「ええ。この辺りじゃ有名よ。そんな所に上がり込んでたのね。さっきの事といい、大したものね」

「お褒めに与り光栄にございます。主殿」

「それさっき聞いた。おべっかはもういい」

「失礼。癖は中々抜けないものでして。いえ、そんな事より、お願いがございます」

「何」

「いえね。率直に言ってしまいますと、どうか、貴方様の館にこの愚臣を連れて行ってはいただけないでしょうか?」

「はい?」

「こうして実質的に主従の関係を結ばせていただいた以上、これはもう主殿を近くお守りいたしますのが臣下の役目にございます。故に、どうか貴方様の牙城にお邪魔させてはいただけぬでしょうか。土下座が所望でしたらいくらでもご覧に入れて差し上げましょう。殊に謝罪と懇願方法についてはとりたてて磨きをかけております故」

「……確か、魔女の家に居候してるんじゃなかったっけ」

「ええ、ですがもう懲り懲りにございます。彼奴きゃつめ、私がホームレスなのをいい事に、まるで下男以下の如き扱いぶり。いやこれでは奴隷にございます。外評判が良い事を鵜呑みにしてしまった私にも大いに責任はございますが、しかしそれにしてもでございます」

「はあ」

「というわけですのでどうぞ、御慈悲の程を」

「目的は何」

「目的にございますか」

「そうよ。不可抗力とはいえ君と契約してしまった。まあ私はすぐに切ってもいいのだけれど、君はそんなつもりじゃないのでしょう」

「そう、ですね。まさかすぐに契約を切られるなどとは露程にも思っておりませなんだ」

 カタガミの儀は主の優位性が確保された契約だ。従にあたるものは完全服従で主の命に逆らう事は出来ない。主にあたる者が「自害しろ」と命令すれば従の意思にかかわらず自害してしまう。それは契約の意思に関してまでも及ぶ。そのため、仮に透が契約を解消しようとすればすぐにでも出来、その場合、従への魔力の提供は止まる。

「トオル。君は、祖父から何か聞いていないかな」

「ちょっと、私の質問に答えて」

「タルタロスがどうとか」

「な」

 それは確か、祖父が今際の際に放った言葉だ。

「何でそんな事知っているのよ」

「さっきも言いましたが、私は滋丘家とちょっとした関わりがあるんだ。無論、ハルノスケからも色々な事を聞いたよ」

「そう」

「して、目的でしたか。私もなあなあな人間でして、残念ながら、お嬢様が期待するところの明確な目的などというものは実のところございません」

「そう、じゃあ契約を切りましょう」

「いえいえ、ちょっとお待ちくださいな。明確な、といっただけで、目的がないわけではありません。これもまあ水中に出来るあぶくの如き些末なものですが」

「勿体ぶらずに早く言って」

「ハルノスケが言っていたタルタロスとやらが何なのかを知りたい。で、それにはお嬢様と一緒にいた方が都合が良さそうだと、そう判断しました」

「なるほどね」

「まあ、お嬢様が知っているのでしたら話は別ですが」

「知らない」

「愛しい孫娘にも教えてないとは、やはりよほどの秘密があるに違いない」

「で、それを知りたいがために私の家に上がり込むと」

「そうなりますね」

 透は目を逸らし思案する。少なくとも容姿は少年らしいとはいえ、見知らぬ男を家に住まわせるというのは如何なものなのか。では女の子だからいいのかと言うと、透にとってはそれも少し気になる事案であった。

 要するに、家に他人がいるという事が彼女にとっては憂鬱な事のように感じるのだった。彼女は以前、他人と暮らす事のシミュレーションを行った事がある。その時出した結論が、一人で暮らす事の方が良いというものだった。理由としては、他人に「いついつに何をしている」という事をぼんやりとでも把握されるのが妙に不愉快に思えたからだ。透は、それは人としてどうなのか、と自身の人間性を疑いながらも、やはり自分の本意はそうなのだと認めざる負えなかった。

 十数秒の時が経った。その間、周囲にあった音といえば屋上を風が吹き抜く音くらいで、後はもう何処から発生しているんだか分からない、色々なものが混じり合ったかのような環境音のみであった。

 経緯はどうあれ、少年は自分の命の恩人。なら、その借りは返さなければならない。

 ずっと暮らすわけではない。一時的なもの。

「……我慢、というわけね」

「お嬢さん?」

「分かったわ。家に来なさい」

 そう言うと、イツキは安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。

「温情誠に痛み入ります。それでは主殿、これからよろしくお願いいたします」

 絵になるな、そう透は思った。それくらい、この少年の笑みは美しく、そしてどこまでも中性的であった。

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