1章・3節

 透の住んでいる朝比奈市は海沿いに立つ街である。人口約三十万程度の、小さくもないが、特別大きくもないこの都市の北部には昔ながらの閑静な住宅街が広がっており、その一角に透の住む洋館が存在する。北東部には現在透が通っている朝比奈高校があり、最寄り駅からは十分程度の所にある。しかし、駅からの道のりは坂道になっており、こと自転車通学の学生は毎日苦労しながらその坂を登っている。

 市の北西部は住宅地の外れに当たる場所であり、火星と揶揄される広大な空き地がある以外は取り立てて特徴もない場所であった。そこから南に下った所にある市の西部はベッドタウンとなっており、市内や他の都市へ通勤・通学する世帯で主に構成されている。市内中心部とは川で隔てられているそこは最近特に開発が進んでおり、杜の台と呼ばれる一角は今現在、新興住宅地の開発真っ最中である。

 本来の透の家は朝比奈市の西部にある新興住宅地の一角にあった。しかし透はしばらくそこには帰っておらず、祖父が住んでいた洋館を住居にしていた。単純にこちらの方が高校に近いという事もあるにはあった。しかし、それだけでもない。

 父と顔を合わせなくて済むからだ。

 透は父親が嫌であった。彼女は特に嫌っているという自覚はないが、父と会って言葉を交わすともやもやしてしょうがないのだ。

 元々から父を避けていたわけではない。小さい頃はおぼろげながらも父の後を追っていた記憶もある。ただ、父を避けるようになった決定的な出来事が彼女にはあった。

 祖父が逝去した時の事だ。滋丘家の跡を継ぐ話になった。順当な線で、跡は父が継ぐ者だと思っていた。

 しかし、父はそれを拒否した。

 その事によって滋丘家の当主は空席となり、分家筋の者が当分仮の当主を務める事になった。当分、とは透が成人してから当主となるかどうかを決めるまでの期間だ。もしも透が当主にならないという意思表示を見せれば、その時は仮当主が正式に当主となる。

 透にとっては当主になるまでの期間が短くなった事になる。それらを含めた一連の事でやもやしていた透はある時、父にこう投げかけた。

「何で、お父さんは跡を継がなかったの?」

 当然の疑問であった。魔術師であろうが陰陽家であろうが、その在り方は職人のそれに近い所があり、その家に生まれた者が跡を継ぐのはごく自然な流れであったからだ。しかし、父はそれを拒否した。

 父は、その問いに無表情でただこう答えた。

「この時代、魔術師ではとても食ってはいけないからさ」

 その時、透は胸を突き刺されたかのような感覚があったのを覚えている。その時は父が父でない者に思えた。正直なところ、彼女はその時そんな事を言い放つ父が少し怖かった。

 透は祖父と親しかった。彼女はよく祖父の家に出入りしていたし、小さい頃から魔術や陰陽術に関する手ほどきもしてもらっていた。何となく、透は子供ながらに神秘の営みは素晴らしいものだと感じていたし、それを扱う家系に生まれた事に誇りを感じてもいた。

 しかし、父はそれを一蹴した。端的に言って、この営みはもう必要とされていないのだと彼女は宣告された。

 確かに、それは正論であるのだという事は透も薄々感じていた。この時代では、魔術というものはおしなべて低俗な響きを持ったオカルトに属するものである。そんなものを標榜した所で胡散臭いインチキ家のレッテルを貼られるところがせいぜいであろうし、実際に、立ち行かず廃業した同業者も数多いという。

 だから、父の言っている事は何も間違ってはいなかった。

 だけど、透はそんな正論を父に言ってほしいわけではなかった。

 その時彼女は自分が父に言った事を思い出せなかった。でも、非道い事を言ったのは確かだろう。何故なら、それから父との関係がおかしくなったのだから。


「何で思い出すかな」

 こんな嫌な事。学校に行く支度の途中、透は呟いた。考えた所で只不愉快な思いしか残らないのに、何故時折思い出してしまうのだろう。

 制服に着替えた透は居間に行き、冷蔵庫から取り出した豆乳にシリアルを入れる。朝、透はいつも食欲がないので比較的流し込めるような食事を摂るようにしていた。一応、健康を考えてはいるつもりだったが、人によってはそれだけでは心許ないとも言う人もいるのだろう。しかし、そもそも気力と時間の問題から簡易なサラダを作る事さえもままならないのだから仕方がないと透は常々思っていた。一般に考えられているような理想的な生活というものは、透にとっては魔術以上にファンタジーであった。

 簡易的な食事を済ませた透は家を出て、学校へと向かった。


 その日も何事も無く過ぎていった。透は何時ものように授業を受け、昼休みがあり、午後の眠気に耐えながら再び座学を味わう。変わった事と言えば、別のクラスの男子生徒が同じクラスの女子生徒に「放課後教室に残ってくれないか? 話がある」と言った事くらいであった。

 帰りのホームルームも終わり、各々部活や帰宅のために教室を後にしていく中、今泉は後ろの透の方を振り返った。

「ねえ、しりとりしない?」

「何故にいきなり?」

 透は怪訝な顔をする。今泉は、時々突飛な事を言い出す女の子であった。

「何でって、したいなあって思ったから」

「はいはい、分かった分かった」

「よし、じゃあ私先行ね。ゴリラ」

「ラッパ」「パンダ」

 そうして意味のないしりとりの応酬が何分か続き、いつの間にかしりとりから指相撲へと遊びが変わった頃、教室には二人だけが取り残されていた。

「今頃あっちの教室は甘酸っぱい事になってんのかね」

 今泉は唐突に切り出した。

「ああ、昼間言ってた話の事?」

「そそ、三宅君と田宮さん。にしても凄いよねー三宅君、大人しい目な子だったのにあんな勇気あるなんて」

「上手く行くといいね」

「他人事だね」

「そりゃあ、他人だし。でも、上手く行ってほしいと思ってるよ。だって勇気出したんだし、個人的には報われてほしい」

「はあ、私もそんな恋してみてえなー」

「じゃあ、すればいいじゃない。恋活、ってやつ?」

「ねえ、透」

「何」

「もしさ、私が今ここで君の事好きって言ったら、どうする?」

「さあ。気持ちは嬉しいけど、とりあえず断るかね」

「何だ可愛げがない。そこはキュンキュンくらいしなさいな」

「ごめんよ、私は漫画のキャラクターじゃないんでね。もらい」

 透の親指が今泉の親指を抑える。

「あっ、くそー」

「よそ見しない。動揺させるつもりだったんだろうけど、そうは行かない」

「あー、もうやめやめ」

 そう言って、今泉は夕焼けに染まる窓の外を見始めた。

「しかしさ、放課後、何か寂しくなっちゃったよねー」

「寂しくなったって?」

「ほら、あれよあれ。野球部」

 今泉は顔を近付け、囁き声で言った。野球部、という単語を聞いて透はようやく意味を理解する。

 野球部は数日前に停部処置をくらっていた。暴力沙汰、それが停部の理由であった。透は詳細な事情は知らないが、きっかけは些細な事だったらしい。聞いた話によると、数人の部員が連れ立って帰っていた所、駅前にたむろしていた不良グループにいきなり因縁をつけられ、それで喧嘩になってしまったという事だった。

「まあ、あんな事があったから」

「致し方無しなんだけどさ、グラウンドから快音が聞こえなくなったのは寂しいんよね」

「でもその内元に戻るでしょ」

「無期限、ってのが引っかかる」

「前代未聞だから決めかねてるんじゃない。まあ、ふっかけてきたのがあっちらしいし、そんな長くはならないと思うけど」

「だといいけど。おっと、ごめんね。そろそろ行くわ」

「うん、んじゃまた」

「へーい」

 教室を後にしようとした今泉は振り返らず、気怠げに透に手を振って挨拶を返した。

「さて、と。私もいい加減行かないと」

 その日、透は日直であった。日直は毎日男女各一名ずついるのだが、男子の日直である高原は先生から呼ばれて出ていってしまった。実直な高原は申し訳なさそうに透に後を頼んだが、そもそも日直業務など一人でこなせる量のため、透は特に気にもしていなかった。

 誰もいなくなった教室でその日の日誌を書き、教室の戸締まりを済ませて職員室へと向かう。夕陽が廊下の中に差し込み、廊下に窓の形をした影がくっきりと映し出されている。

「青春、ね」

 透はこの光景を見て何となくそんな単語を口にした。よくドラマや漫画、アニメーションで持てはやされるあれ。一体いつから言われ始めたのだろうか。

 よくよく考えたら、そのシナリオを考えているのは大人だ。大人が考えている「青春かくあるべき」なる妄想を、現役学生達は有難がっているのか。お話なんて大人が作るものだから当然といえば当然なのだが、そう考えてると何故だか滑稽に透は思えてしまった。

「いや、やめよう」

 何でこう人を毒突くような事を考えてしまうのだろう、自分に嫌気が指しながら透は窓の外を見た。

 学校の中庭に人影があった。全部で四つ。少し離れていたが、かろうじて顔は判別出来る。内三人の女の子は透も知っている顔ぶれであった。確か、陸上部の高橋、光田、南条。そしてもう一人は、

「少年?」

 栗色の髪をした見覚えのない子供が三人と向かい合うようにして立っていた。ズボンを穿いている事から多分男の子だろうと推測されたが、はっきりした事は分からない。只言える事は、ここの学生ではないだろうという事であった。何故なら高校生にしては背丈が小さく、そして決定的な事にその少年はこの高校の制服を着ていなかったからだ。

 高橋が少年の肩に手を置き、諭すように何かを尋ねている。迷子でも入ってきてしまったのだろうか、透は考えた。だが、学校に迷子が入るというのもおかしな話だ。だとしたら少年は誰かの兄弟で、兄あるいは姉に用があってここまで来たのかもしれない。

 どちらにせよ、自分には関係のない話だ。あの三人がまさかいたいけな子供を酷い目に合わせるとは考えにくい。ならば、いつまで見ていても時間の無駄というもの。

「あ」

 少年と目が合った。透は咄嗟に目を逸らす。いや、ここは夕陽が差し込んで見えない筈。

 兎に角、覗きなんてやめてさっさと職員室に向かおう。透は視線を窓から廊下に戻す。

「はあ、にしても職員室遠いな」

 どうしようもない愚痴をこぼしながら、透はその場を後にした。

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