1章・2節

 滋岳透しげおかとおるは魔術師だ。正確に言うとまだ半人前の魔術師。

 元々魔術などに特別憧れがあったわけではない。おそらく、彼女がそういう家系でなければ世間一般で言われ認識されているような「普通の生活」を謳歌していたであろう。

 しかし、彼女の家系は魔術を生業とする家系であった。それ故に、滋岳透は幼い頃から当たり前のように魔術に触れ、そして魔術師だという自我を形成していった。

 一方で、彼女は女子高生であった。透は一般的に「普通」とされる生活も大事にしており、自身が魔術師である事を隠しながら生きてきた。

 今の時代、魔術師だの陰陽家だのは流行らない。むしろ、そんなものを名乗っていたら街で悪い噂が立つのがオチであろう。もはや神秘の営みは、胡散臭いオカルトなのだ。

 生き辛い時代になったものだ、そんな事を透は思いながらも、しかし、現代の文明にどっぷり浸かっており、今の時代に生まれてよかったとも思っていた。

「ただいま」

 日の落ちようとしている頃合い。透は家に帰り着くなり、肩にかけていた学生鞄を玄関に下ろしながら言った。

 しかし、返答が返ってくる事はなかった。何故なら、透の住んでいるこの古びた洋館には透一人しか住んでいないからだ。別に両親と死別したわけではない。親は、少なくとも父親はいるのだが、父親は別の所に住んでいた。母親はいない。透が幼い頃に失踪してしまったのだ。理由は分からなかったが、透は父に愛想を尽かして出ていってしまったのだと思っていた。何故なら、父は愛情表現等があまり上手くない不器用な男であったからだ。

 透は自室に入り着替えを済ませると、外していた眼鏡を再びかける。そして帰り際にコンビニで買ってきたサンドイッチを頬張りながら、徐に教科書を開き始めた。

 そういえば最近自炊してないな、そんな事を透は思った。以前なら早く帰ってきた時など簡単な料理を作っていたが、高校に入ってからは勉強や薙刀の稽古などを口実に手を付けていなかった。

 掃除や洗濯といった割と単調な作業は祖父から譲り受けた使い魔で何とかなっているが、流石に料理が出来るものまではいなかった。それ故に食事に関しては自分でどうにかしないといけなかったが、学校や稽古があり、それで疲れて帰ってきた透にそんな多大な労力を要するものを作る気力は残っていなかった。

 華の女子高生ともあろうものが、侘しいもんだ。そんな事を思いながら透はサンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んだ。


「さて、と」

 運動着に着替えた透は家の地下にあるアトリエで深呼吸をする。アトリエとはその名の通り仕事場、あるいは作業場であり、芸術家や工芸家がそこで作品制作に精を出すように、魔術師もそこで魔術の研鑽やマジックアイテムの制作に勤しむための場所であった。

 アトリエは二部屋取られている。一つはオフィスワークのためのような場所で壁に棚が配置されている他、中央に大きなテーブルが配置されているが、テーブルは様々な資料や器具で埋め尽くされており、端にかろうじて人が物書き出来るスペースが確保されているという雑然とした状態であった。もう一つは実験のための部屋といった具合で、部屋は周辺に魔術用の道具がいくらか散乱している以外はほとんど何もない空間であった。地面は剥き出しのコンクリートになっており、そこには魔法陣の跡の様なものがいくつもある。

 透は地面に水で魔法陣を描いた跡、片膝をついてぶつぶつと呪文を唱え始めた。それは、滋丘透の魔術の鍛錬であった。鍛錬、と言っても様々で純粋に特定の術の精度を向上させるために行う事もあれば、何かのマジックアイテムを生成するために行う事もあった。

 魔法陣が赤い光を帯び始める。やがてそれは次第に光量を増していく。

 やば、そう透が思った時、締め切られた部屋は赤い光に包まれてしまった。やがて光は収まり、水の魔法陣は何の光も放たない元の状態に戻っていた。

 透はため息をついた。

「失敗、か。堪え性ないのかな」

 魔術の鍛錬をほぼ日課、少なくとも二日に一回はこなしていた透だったが、最近はレパートリーを増やすべく新しい魔術の習得に努めていた。しかし、いくつか手を出してみたものの思うような成果が上がらず、また別の魔術に手を出す、といった事をここ一ヶ月近く繰り返していた。

 ああ、こういう時おじいちゃんならどうしたんだろうな、透は祖父との思い出を手繰り寄せる。


 祖父の滋丘春之助は生粋の魔術師だった。

 魔術師、という人種にはしばしば人格に難のある人間がいる。そもそも魔術師というのはそういった人間達の受け皿の側面があるためでもあるのだが、彼らの中には自分は特別な人間なのだという選民意識等を持っていたりする者もいる。

 しかし、春之助は生粋の魔術師ではあったが、誰よりも真っ当な人間であった。地域の祭りの手伝いにも積極的に協力したり、また、時にはこじれてしまった小学生同士のいざこざの解決に一役買った事だってあった。無論、透はそんな祖父を慕っていた。

 ある日、幼い透は春之助の目を盗んで所持している禁書の類を開けてしまった事があった。透は祖父に自分はこんな本も読めるんだと自慢したかったのだ。しかし禁書には魔物が眠っていて、透はその魔物に襲われそうになった。しかし、間一髪そこに現れた春之助によって助けられ、魔物共々禁書は灰となった。透は、如何に温厚な春之助とて今回ばかりは激昂するだろうと腹を括った。

 しかし、春之助は透を抱き締めてただ「良かった、無事で本当に良かった」とだけ言った。彼にとっては、大事な禁書を失った悔しさなどより、孫娘が無事で良かった事の安堵の方が大きかったのだ。

 通常の魔術師としての反応であれば、こんな馬鹿げた事をした子を非道く叱る筈である。場合によっては、破門に近い処置を施す者だっているだろう。しかし、春之助はそれをしなかった。その点において、春之助は魔術師という存在から著しく離れた存在であった。

 多分、滋丘春之助は人間というものが好きだったのだろう、透は今にしてそう思う。

 そんな春之助も透が小学生の頃に逝去した。原因は病死だったと透は記憶している。

 祖父は、最後にこんな言葉を残した。


 ――タルタロスを開けてはならない


 やはり意味は分からない。抜けている所もあったが、重要な事に関しては万事抜かりない祖父にしては珍しくその詳細を語らなかった。

「ま、考えたって仕方がない」

 透は軽く首を振ると、アトリエを後にした。


 透は将来について悩んでいた。大学には進学するつもりだが、その先の事である。このまま魔術師の跡を継ぐのだろうか。それとも、別の道を歩むのか。透は決めかねていた。

 春之助はその筋ではとても優秀な人物だったようで、市出身の代議士なり有力者なりからその手の依頼を受ける事もあって実入りはよかったらしく、お金に困っている様子を透は見た事はなかった。

 滋岳家は今でこそ魔術師の家系だが、元々は陰陽に連なる家系であった。戦国の世に端を発する滋丘家は明治になり魔術に触れて魔術師へと転向したが、それまでに築き上げた繋がりが消えたわけではなく、付き合いのあった貴族の末裔などとの繋がりは続いていた。

 実際に、これまではそれで上手く行っていたのだろう。家の入り組んだ事情にあまり詳しくない透でも、それは理解出来た。透の今いる洋館は、何代か前の先祖が建てたものであった。幾度かリフォームを施されているが、当時の魔術的遺産が結構な数が残っており、透もその恩恵に与っている事を自覚していた。

 しかし、付き合いのある家にも、最近は魔術や陰陽などの神秘の営みに懐疑的な者も出始めていた。

 魔術師というのは先細りする職業だ。確かに、この国にはそんな営みを助け合ったり、支援する組織も存在する。表に出てこないため秘密結社に近い性質のものだが、しかし支援を受ける以上、利害関係が発生し、結果的に何かしらの制約を受ける事になる。

「無理に跡を継ぐ必要はないよ。今はそんな時代じゃないのだからね」

 生前、祖父はそんな事を言っていた。幼い頃は祖父の跡を継ぐ者だと信じて疑わなかった透は、わざわざそんな言葉を言った祖父の意図を理解出来なかったが、成長するにつれようやくその言葉の意味を理解出来るようになった。

 色々なしがらみのある魔術師の跡を継ぐよりも、そんなものは一切合切捨てて、「普通」とやらの人生を送るのも悪くはない。そんな気持ちも透にはあった。

 現状は半々といったところか、透は目を閉じる。自由とはつまり、自分で道を選択しなければならないという事だ。誰もその行き先を保証する事は出来ない。

「人間は自由の刑に処せられている、だっけ」

 どっかの偉い哲学者が言ったとかいう言葉。真意は知らないけど、何ていうか、前人未到の樹海を行くより誰かが整備してくれた道を歩けたらどんなに楽だろうと、透は思った。


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