蒼天の雲~27~
二年の歳月が流れた。
この二年間、斎国は比較的平穏であった。尊毅にとって国内の不穏分子である少洪覇と尊夏燐は、相変わらず尊毅に対して反旗を翻していたが、勢力を拡大させることもなく、小競り合いが散発する程度であった。
尊毅としてはしばらくは内乱で疲弊した国内経済を立て直し、軍の傷も癒すことができると思っていた。しかし、尊毅を新たなる衝動に突き動かす事態が発生したのである。翼公―楽乗が亡くなったのである。
翼公―楽乗は、界畿で会盟が行われてからしばらくして病の床についていた。すでに七十歳を超えた老齢である翼公は、なかなか病床を払うことができず、ここ一年余りはずっと寝たきりになっていた。それでも意識は常にはっきりとしており、翼国の政に対して病床より指示を出していた。
亡くなる半年前ぐらいになると、その指示すらも滞ることがしばしばあり、翼公は太子である楽清を呼び、職務を代行させることにした。
「流石に余もそろそろ終わりであろう」
亡くなる数日前、翼公は予感めいたことを楽清相手に語った。
「父上、そのような弱気なことを申されますな」
楽清はそう言いながらも、この英邁な父の寿命はそう長くないと感じていた。
「国内のことは胡旦の言うことを聞き、羽兄弟を信頼することだ。そして中原で起こった問題については泉公と意見を同じくすることだ」
「静公ではなく泉公なのですか?」
「静公はいい男だ。しかし、野心を包み隠さなくなっている。それに引き換え泉公は根っからの仁者だ。万が一の時は泉公を頼ることだ」
それが事実上の遺言となった。波乱に満ちた翼公の生涯は、一抹の不安を残しながらも、穏やかなうちに閉じられた。
翼公死去の報せはすぐに各国に届けられた。泉国には翼公の重臣であった羽綜が使者として訃報をもたらした。
「翼公が亡くられたか……」
樹弘は使者を前にして思わず涙してしまった。樹弘からすると静公と並んで恩人中の恩人である。その一翼を失ったことは悲しみ以外の何ものでもなかった。
「お体を悪くされているとは聞いていたが、まさかこうも早く逝かれるなんて……。翼公には過大な恩を受け、過小のお返ししかできなかった。泉国の代表として翼公の逝去にお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。我が主も英邁な泉公にそのように言われ、泉下で喜んでおられるでしょう」
羽綜も目を赤くしていた。
「大葬は是非とも参列させていただきたい」
「勿論でございます。日時は追ってご連絡させていただきます」
「あと何かありましたら遠慮なく仰ってください。翼公への御恩は、今となっては次期翼公に対してでしかお返しできませんから」
「ありがとうございます、翼公……楽乗様も泉公のことは頼りになると申しておりました」
羽綜は改めて亡き翼公の徳の深さを思い出しのだろう。すっと一筋の涙を流した。
羽綜が去ると、樹弘はすぐに甲朱関を呼んだ。翼公が亡くなったことは堪らぬ悲しみであったが、同時に中原の歴史を大きく変える事態になりかねなかった。悲しみを今は横に置き捨てて、善後策を検討せねばならなかった。
「翼公が亡くなったことで静公の枷が外れるやもしれません。近く、静公が斎公を担いで斎国へと攻め入ることも考慮しておかなければなりません」
「朱関も言うとおりだろう。翼公の喪が明けきらぬうちに騒がしくなるのは残念だが、静公ならやるだろう。その場合、界公を味方にするかな?」
「するでありましょう。義王と界公が居ての正義です。翼公がいなくなり、中原において覇者として天下を主催できるのが静公しかいないと分かると、彼の権威に乗っかって来るでしょう」
樹弘としてはその中に自分が入るかどうかであった。樹弘としては入りたくなかったが、義王からの勅命があり、静公からの要請があれば断り切れないかもしれない。
「その点については問題ないでしょう。静公は主上を頼らないでしょう」
「ほう。どうしてそう言える?」
「静公が主上を味方に引き入れたいとすれば、それは翼公が健在で張り合うための勢力を築きたいからです。その翼公がいないとなれば、静公としては単独で中原の正義を成したいから、主上には静観していて欲しいと願うでしょう」
「なるほど。では状況を注視しつつ、構えてとしては静観でいいだろう」
「はい。しかし、我らは翼国を警戒しておいた方がいいでしょう」
「翼国か?」
「はい。これはひょっとしてという感じですが、内乱が起きるかもしれません。斎国の尊毅も、翼公が亡くなったことで何か行動を起こすとすれば、静国への軍事的な対策です。そうなれば、翼国の方は謀略によって動きを止めさせるかもしれません」
「偉大な翼公が亡くなり、翼国は多少なりとも混乱するだろう。そこを突くか……」
甲朱関の予測はまさにその通りになるのであった。
「無宇に連絡を取って翼国に潜伏するように命じよう。杞憂かもしれないが、翼国に何か起こっては泉下の翼公に申し訳が立たない」
この樹弘の決断こそが翼国の大混乱を最小限に防ぐことになるのであった。
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