蒼天の雲~26~

 斎国国内は混沌としていた。


 尊家の内部紛争。兄妹が相撃つ。誰しもが尊家の血で血で洗う戦いが始まると思っていた。しかし、尊毅軍は夷西藩を目の前にして軍を慶師に返すことになってしまった。


 『静国に不穏な動きがあり』


 静国に送り込んでいる間者からの報告によると、静公が大軍の編成に取り掛かったらしい。その軍の行き先がどこかまでは判然としてなかったが、斎治の身柄を預かっている以上、斎国に向けられる可能性は低くなかった。


 『静国軍が攻めてくるとなると、全力であたらねば負ける』


 妹などに構っている場合ではなかった。赤崔心を主将にした部隊を残すと、尊毅は大急ぎに慶師に戻った。


 しかし、静国への警戒は杞憂に終わった。間者が知らせてきた軍の編成とは、静公が年に一度行う総軍の大演習であり、その動きを報告しただけであった。演習であるという続報を慶師で訊いた尊毅は安堵したものの、静国がいずれ攻めてくるであろうことは疑いようがなかった。


 「静国を相手にするのはいいとして、そこに翼国までもが同調し、大挙して押し寄せてきたら、俺が自分で自分の首を斬らねばならん。今のうちに手を打っておくべきじゃないか?」


 尊毅は項兄弟と語らった。ただでさえ、夷西藩に少洪覇と尊夏燐を放置してきたのである。最悪の場合、三つの勢力を相手にしなければならなくなるのである。勿論、打つべき手とは軍事行動ではなく、謀略に他ならなかった。


 「それにつきましては、翼国に放っております間者から面白い報告が参っております」


 項泰が声を潜めた。


 「翼国だと?」


 「はい。どうやら翼公が会盟から戻って以来、病となって伏せっているようです」


 ほう、と尊毅は思わず声を上げた。


 「あの爺さんも随分と年だからな。会盟が不本意な結果になって意気消沈となったか」


 尊毅はまだ見ぬ翼公に対して悪態をついた。


 「どのような病気かまでは分かりませんが、偉大なる翼公が亡くなれば、翼国は乱れましょう」


 項泰は事も無げに言うが、今の翼公の周囲には名臣が並び、太子はすでに決している。国が乱れる要素などなさそうに思われた。


 「ところがそういうわけでもありません。確かに翼公の周囲には胡旦をはじめとした名臣が揃っておりますが、いずれも老齢です。太子も楽清と決していますが、楽清は凡庸であると聞いております」


 項泰の諜報網は感心するほどであった。こういう局面では本当に心強い男であった。


 「しかし、それだけでは国内をかく乱することはできまい」


 「そこでございますよ、殿。実は翼国に野心的な男がいるのです」


 項泰が続けた。翼国には楽隋という男がおり、項泰はかねてよりその男を注視していたと言う。


 楽隋は、今の翼公―楽乗の祖父である楽玄紹の末弟である楽成の孫に当たる。楽乗が翼国に帰還した時に多少の働きをした程度であり、楽乗が翼公となってからは冷遇されていた。楽隋は常々それを不満に思っており、


 『あの時、俺が翼公になっておくべきだった』


 と周囲に漏らしていた。だからと言って偉大な翼公に楯突くほどの度胸もなく、不平不満を抱きながら翼公に服従していた。


 「面白そうな男だな」


 尊毅は俄然興味を持った。


 「すでに接触しており、万が一の時には斎国として大いに援助すると申しております」


 やはり項泰は謀略家であった。こういう時は本当に頼もしく思えた。


 「翼国のことはそれでいいとして静国はどうするのだ?」


 項泰のことであるから何か手を打っていると思ったのだが、項泰は顔を渋くさせた。


 「静国は難しゅうございます。間者を入り込ますのも大変な有様でして、付け込むような不穏な要因もございません」


 しかも静国には年若い名臣が多く、将兵は静公を慕っている。君臣の間につけ入る隙がないように思われた。


 「なんでもいい。破壊工作でもして静国内での動揺を誘え」


 承知しました、と項泰は早速とばかりに退出していった。


 「殿。こうなれば殿がこの国の君主とならんことを早々に実現させた方がよろしいかと思います。斎策はあの調子では素直に殿の傀儡とはなりますまい」


 項史直は直言した。尊毅も斎策については気にしていた。飄々としながらも決して尊毅の意のままにはならんという芯の強さを垣間見ることができた。


 「ふむ……しかし、それは時機が早い。斎治を追って、すぐに斎策をも斎公の地位から引きずり下ろしたとなれば、流石に謗る諸侯も出てくるだろう」


 今や尊毅は単なる斎国の大将軍ではない。事実上、斎国の実権を握っている存在なのである。その言動は斎国の閣僚から市井の庶民、いや中原の端から端まであらゆる人が注目している。評判を落とすような真似は避けたかった。


 「ですが、いつかは通らねばならない道です。置文のことはお忘れですか?」


 「忘れてはいない」


 忘れていないからこそ尊毅は慎重になっていた。

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