泰平の階~100~

 泉春に滞在する北定のもとに費俊から悲鳴のような書状が届けられた。それを一読した北定は、泉国滞在で感じていた興奮が一気に冷めていくような気がした。


 『恐れていたことが起こり始めている……』


 領地の分配をめぐってはいずれ不満はできるだろうと思っていた。しかし、それは北定が諸国歴訪から帰って来るまではくずぶる程度で、大問題にならないだろうと予測していた。その予測が甘かったのだろうか。


 『斎興様と費俊では武人達を押さえきれないか……。尊毅だけでも手名付けられればと思っていたが、無理であったのか。それとも坊忠が余計なことを言ったか……』


 北定としては今すぐにでも飛んで帰りたかった。しかし、泉春に来てまだ一か月も経っておらず、もう少しこの繫栄する国都を見聞したかったし、何よりも今後の外交的なことを考えれば、静国と翼国は訪問しておきたかった。悩んだ挙句、北定は泉公に目通りを願い、意見をもらうことにした。北定は包み隠さず泉公に事情を話した。


 「そのようなことならば、いますぐ斎国に戻られた方がよろしいのではないですか?両公には私から事情を説明した書状を出しますので、安心してお戻りください」


 泉公は隣に座る秀麗な女性に一度視線を送ってから言った。彼女が泉公の妃である樹朱麗であることは知っていた。甲朱関の前は彼女が丞相を務めており、黎明期の政権を支えた才女であることは中原で知らぬ者はいなかった。


 「泉公、短い間ではございましたが、この御恩は忘れません。国に戻りましたら泉公の温情はきっと我が主にお伝えいたします」


 北定は本当に名残惜しかったが、泉春を去ることとなった。




 北定という斎国の顧問官が慌ただしく出て行ったのをやや冷ややかな目で見送った樹弘は、隣の席に座る樹朱麗に話しかけた。


 「どう思う?朱麗」


 「斎国は安定しなさそうです。隣国であるならば、警戒する必要はありますが、幸いにして我が国は隣接していません。様子を探らせる程度でいいと思います」


 樹朱麗は、妃となっても樹弘への助言を欠かさなかった。小さな頷いた樹弘は甲朱関にも意見を聞いた。


 「公妃様と同じ意見です。しかし、斎国は大国です。このまま動乱が続けば、その影響は中原全体に及ぶでしょう。静公、翼公とよくお諮りになった方がよろしいかと思います」


 「朱関の言うとおりだな。無宇には引き続き、斎国を探らせるように命じよう。両公への書状は後で草案を書くから添削して欲しい」


 「承知しました。それと斎国といえば、厳侑から面白い話が話が来ております」


 「へえ。面白い話ね」


 甲朱関から聞かされた面白い話は確かに樹弘の興味の琴線に触れた。




 界国を経由して泉国にやってきた劉六と僑秋は、無事泉春に辿り着いていた。


 最初は界国にある厳侑の支店を訪ねたのだが、厳侑本人は留守であった。留守を任されていた番頭は心得ていたようで、


 「主人は泉春におります。明後日には泉春に向けての商隊が出発しますのでご同行ください」


 と言って商隊の馬車に乗せてくれた。泉春までの旅は非常に快適で、僑秋などは、


 「亡命しているということを忘れそうになりますね。本当に物見遊山です」


 と嬉しそうに語った。劉六も同じ感想を抱いた。


 泉春に到着すると、厳侑は快く二人を迎えてくれた。斎香からの書状を一読すると破顔して歓迎する旨を伝えた。


 「斎興様や斎香様には色々とお世話になりました。斎香様の頼みであれば断れませんし、我らが主上も日頃から頼ってくる者を見捨てるなと申しております。どうぞ我が家と思ってお過ごしください」


 「ありがとうございます」


 「何かご要望がありましたら仰ってください」


 「それでは、どこか空き家を探してもらえませんか?このまま無為にお邪魔するのは心苦しいので、せめて診療所でも開いて医者として役に立ちたい」


 劉六は泉春の街並みを一見しておおよその人口を推察した。おそらくは今の慶師や在りし日の栄倉よりも人口は多いだろう。ひょっとすれば今の中原で最も人口が多いかもしれない。それならばきっと医者が足りぬのではないか、と劉六は推察していた。


 「それはありがたい話です。今、泉春では急激に人口が増え、医者が足りぬ状況にあったのです」


 やはり、と思う一方で劉六はやや驚かされた。泉公の御用商人とはいえ、厳侑が泉国の行政的な実情に精通しているというのは少々意外であった。


 「よろしゅうございます。ちょうど私が管理しております空き物件がありますのでそこをお使いください。ただ、行政的な申請が必要ですので、少々お待ちください」


 「よろしくお願いします」


 「それと必要な機材や薬品があるのならご用意いたします。後で番頭にお申し付けください」


 「何から何までありがとうございます」


 これで当面の間、泉春での生活には困らないだろう。開業の申請が下りて、必要な機材などが揃うまで一か月はかかるだろうか。その間は厳侑に世話になりながら、泉春を見て回ろうと思っていた。


 しかし、劉六の予想は裏切られた。劉六の開業についてはわずか三日で許可が下り、厳侑も一週間程度で必要最低限の機材や薬品を揃えてくれた。


 『すべてが素早い……』


 劉六は、あまり政治や行政については関心がなく、それらに対する見識も鈍い。それでも泉国での行政上の迅速さは目が見張る者があり、厳侑が商材を調達したのも、それだけの物品が泉春周辺で揃えられるという証左でもあった。仮に今の斎国で同じようなことを頼めば、早くとも二か月はかかったであろう。


 『泉国では主君から民に至るまできびきびとしていて、まとまりがあった。真に最善の国家とはあの時の泉国のことを言うのであろう』


 後に劉六は、泉国での生活を振り返ってそう回顧していた。


 ともかくも早々に開業することができた劉六の診療所は泉春でも話題となり、朝から晩まで患者が後を絶たなかった。


 そんな日々を数日過ごしたある日、一人の青年が訪ねてきた。そのことが劉六の、そして中原の歴史を大きく変えることになるのであった。

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