泰平の階~59~

 少洪覇討伐を命じられた新莽は栄倉にいた。このところ、自分の領地に戻ることなく、ずっと栄倉の私邸に入り浸っていた。理由は蝶夜であった。条高より譲り受けたこの愛妾を心底から愛した新莽は、片時も彼女の傍から離れることはできなくなっていた。


 「主上から賊を討伐せよとの命令が来た。そなたを置いて行きたくはないが、こればかりは仕方あるまい」


 使者が到着して少洪覇討伐を命じられた夜、新莽は閨で蝶夜の胸をまさぐりながら、耳元で囁いた。


 「はい……」


 蝶夜は新莽の愛撫に喜悦の色を浮かべながら頷いた。


 「しばらく寂しい思いをさせるが、待っていて欲しい」


 「はい」


 新莽の体の下で蝶夜は見悶えながらも、彼女の答えに冷ややかさを新莽は感じた。


 『あの目と同じだ……』


 新莽が蝶夜を抱く時、彼女は嬌声と媚態をもって新莽の愛に応えてくれるが、目はどこか遠くを見ているような気がしていた。蝶夜からすれば、条高に命じられる形で新莽の愛妾となったわけであり、今の境遇は本意ではないのかもしれない。それでも新莽は蝶夜を愛し、蝶夜はそれに愛をもって応えてくれていると思っていた。しかし、蝶夜は時折、遠い目をして冷えた声を出すことがあった。


 「蝶夜。我が領地へ行かぬか?」


 蝶夜を栄倉に残すことがどうにも不安であった。新莽の愛妾となった蝶夜が不貞を働くとは思えなかったが、新莽が不安で不安で仕方がなかった。その不安を解消するには、彼女を自分の領地に閉じ込めておくしかなかった。


 「それは嫌でございます」


 蝶夜は身を引いて拒絶した。


 「蝶夜……」


 「申し訳ございません、大きな声を出してしまって。しかし、それだけは嫌でございます。田舎には行きとうございません」


 蝶夜は彼女らしくない金切り声をあげた。これまで数度、新莽は蝶夜を我が領地に連れて帰ろうとしたが、その度に蝶夜は頑なに拒んでいた。当初は、栄倉育ちの蝶夜が田舎に行きたくないだけだと信じていたのだが、ここまで何度も頑な断られると別の理由を邪推してしまった。


 『ひょっとして蝶夜は主上のことをまだ愛しており、忘れられないのではないか』


 肌を重ねながらも、どこか冷えたものを感じるのはそのためではないか。新莽は不安と嫉妬が堆積していくのを感じていた。


 「蝶夜。我が領地は確かに栄倉に比べると田舎かもしれない。しかし、自然は美しく、清流から捕れる魚も美味い。なによりも温泉がある。そなたの美しさを保つためにも、一度でもいいから行ってみないか?」


 「嫌でございます」


 即答であった。不安と嫉妬が怒りに転化しそうであったが、ぐっと堪えた。ここで感情に任せて蝶夜を叱責すれば、二度と彼女の愛せないだろう。


 「分かった……無理を言って済まぬ」


 新莽はさっと蝶夜の体から手を引いた。男としての気力がなえてしまった。


 「こちらこそ申し訳ありません。殿のお申し出は本当は嬉しいのですが、私には栄倉の水しか肌に合わぬのです」


 今度は蝶夜がそっと身を寄せてきた。蝶夜の方から口を吸い、その舌先が首を通って下へと赴くと、新莽の気力が復活していった。


 『愛しい女だ』


 新莽は蝶夜の両脇に手を入れると、ぐっと引き上げた。そのまま濡れた口内に自分の舌を捻じ込んだ。


 「あ、殿様。その……」


 「構わんさ」


 そのまま新莽は蝶夜を激しく愛した。蝶夜も喜びの声をあげ、二人は明け方になるまで二人きりの官能の世界を堪能した。二人にとって最後の逢瀬となることも知らずに。




 新莽は総兵数五千名の兵力を率いて西へと向かった。何行白には冷淡であった諸侯達も、条高の勅諚を手にした新莽には逆らわず、寧ろ進んで新莽の軍に投じた。


 その情報を項史直から聞いた尊毅は、未だ寝台で仮病の状況にあった。


 「さてさて、新莽殿は勝てるであろうか」


 尊毅としては勝つであろうとは思っていた。しかし、大苦戦はするだろうと予測していた。実際に少洪覇と戦った身としては、彼の軍の強さは承知していたし、千山には尊夏燐を手玉に取って者もいる。愚直な武人である新莽が易々と勝てる相手ではないはずである。


 「新莽殿は負けるでありましょう」


 項史直は、尊毅よりも大胆な予測を立てていた。


 「どうしてそう思うのだ?」


 「時勢です。すでに時の勢いは条高より去りました。きっと斎公に良き風が吹くでしょう」


 二度の蜂起計画に失敗した斎治であったが哭島を脱出しており、斎治の子息である斎興は千山にてその存在が確認されている。一度目の蜂起計画が失敗した頃とは確かに時勢は変わっている。


 「では、そろそろ私の病も終わりだな」


 「左様です。義理父上に申し上げて赤崔心討伐をお受けなさいませ。今は栄倉から遠く離れる時期です」


 「ほう」


 謀略にかけては項史直に及ぶ者は家中にはいなかった。そのため理由を聞かなくても、項史直の言には素直に従うことにした。


 「では、そのように取り計らえ。私は五日後に快癒することにする」


 尊毅は寝台に潜り込んだ。これでしばらくは忙しくなるだろう。それまでの五日間は惰眠を貪ることに決めた。

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