泰平の階~46~

 師である適庵の死を知った翌日、劉六達は公子斎興を門前で迎えた。


 「我が斎興である。出迎えご苦労である」


 馬上の斎興は尊大に振舞っていた。型通りに拝跪する劉六からすると、わざと尊大に振舞ってみせているように思われた。


 『この人はまだ自己の立場に自信がないのだ』


 貴人である以上、儀礼的な場では尊顔を直に見ることはできない。が、斎興の顔は強張っているだろう。


 「私は現在、千山を預かっております僑紹と申します。それと後ろに控えるのは千山の長老方で……」


 僑紹がこれも型通りに挨拶をした。この場で劉六が紹介されることはなかった。儀礼的なやり取りが終わり、斎興が政庁に入ると、ここでようやく劉六は斎興と対話する場が設けられた。


 「先ほどは失礼した。どうもああいう堅苦しいやり取りは嫌いでな。ま、時として必要なのは理解しているが、どうも慣れない」


 貴人という仮面を取り除いた斎興は非常に気さくであった。よく引き締まった体は武芸に長じている証であろうし、面構えからは気品と知性を感じさせた。劉六が想像していた貴人とは随分とかけ離れて居た。


 「で、お前が劉六だな。仔細は董阮から聞いたが、もう一度直々に聞かせてくれ」


 斎興が促したので、劉六は董阮に語ったのと同じ戦略を斎興に説明した。劉六が話している間、斎興は一言も発せず、熱心に傾聴していた。劉六が話し終わると、斎興はひと息吐いた。


 「世には賢人が埋もれているのだな。劉六ほどの戦略を立てられるものなど、栄倉にもおらぬだろう」


 斎興はそのようにして褒めた。劉六からすると嬉しくもなんともなかったが、ひとまず礼を言っておくことにした。


 「お褒めにあずかり光栄です」


 「軍事の方策は今後、劉六が行うがいい。俺も皆もそれに従うだろう」


 斎興の言い方は明らかに命令であった。いつから主従関係になったのだと多少の不快さを感じた。


 「ならば、まず公子が千山に入ったことを公にするのは今少しお待ちください。今はまだ条国軍を迎え撃つだけの準備が整っておりません」


 「そうもいかん。すでに少洪覇は立ち、父上も近々哭島を脱出される。これらと呼応して我らも立たねば、時機を逸してしまう」


 斎興は即座に反論した。傍に侍る董阮などもしきりに頷いていた。


 『いきなりこれでは……』


 やりにくい、と劉六は前途に暗い影を見た。劉六の方策に従うと言った舌の根が乾かぬうちに斎興は劉六の意見に反してきた。これではこの先、また劉六の立てた戦略戦術に意見してくるだろう。


 確かに政略としては斎興の意見も分かる。しかし、今の状況では少洪覇と連携して条国軍を翻弄するのは難しいだろう。


 その一方で、政略よりも戦略を優先するのが愚の骨頂であることも劉六は理解していた。政治より軍事を優先にして良き結果を得たことがないのは、中原の歴史を見れば一目瞭然であった。


 『政治に従うのが戦略だ。仕方あるまい』


 それにしても人の世とは難しいものだと劉六は思った。同じ目的に向かって切磋琢磨した同志に囲まれた適庵の医学校時代がふと懐かしくなった。




 その日の晩は斎興達を歓迎する宴が行われ、劉六が診療所に帰ってきたのは深夜であった。流石に僑秋はすでに帰っているようで、診療室には寄らず、二階の私室に直行した。


 「眠い……」


 あまり飲めない酒を無理やり飲まされたので、眠気ばかりが襲ってきた。もう何もせずに寝てしまうと思っていると、卓上の封書が目に入った。昨日、適佑から渡された適庵の遺言である。昨晩、涙で目を腫らしながら何度も何度も読んだのに、また目を通したくなった。


 遺言の中身は他愛のないものであった。劉六の体調を気遣い、一方で自分は病に侵されもう先は長くないだろうと記されていた。


 『不覚にも医者ながら病にかかった。おそらくは肺に悪性の菌が入ったのだろう。若くないので呼吸器系の病はどうにもならない。そう長くないだろう』


 その書き様はまさに医者であった。自分が病になっていることを客観視し、決して悲観的になていないところがいかにも適庵らしいと思った。


 『最期に一度、六さんに会いたかったが、それも叶わないだろう。くれぐれも六さんは長生きして、世の中の役に立って欲しい』


 適佑によれば、適庵は病にかかったことを地方にいる弟子達に知らせるなと言っていたらしい。それぞれの地で仕事をしている弟子達に心配と迷惑をかけないためであろう。その配慮も実に適庵らしかった。


 「先生……」


 適庵の死は、劉六にとって一つの時代の終わりを意味していた。医者として生きようと思っていた劉六が、その素志が変わろうとしている瞬間と師の訃報が重なったことはやはり運命なのだろうか。もう自分はあの頃には戻れないのだと劉六は少し悲しくなった。

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