寂寞の海~45~

 松顔が章海によって殺害されたという報せは、間を置かず泉国にも届けられた。もたらしたのは左文忠。左堅の孫であり、左昇運の子息である。章海が鑑京を制圧した後は印国国内に潜伏し、父の仇を討つ機会をうかがっていた。


 「文忠からの報告によれば、延臣悉く章海に対して恐怖を抱き、心服している者など誰もおらぬということです。今こそ章理様がお戻りになり、印国の新たな国主となるべきだと言っております」


 左堅の言うことを黙って聞いてた章理は、一見気のない風を装いながらも、心は大いに動かされた。印国に戻り、章友の仇を討つ好機は今しかないように思われた。


 『しかし、勝てるか……』


 章理の冷徹な理性がそう囁いていた。確かに章海は今回の事で人心の離反を招いたであろう。だが、それに対抗するにしても章理達の力は非常にか細い。左文忠などが印国で工作はしているだろうが、どれほどの兵力を集められるか不透明であった。


 『叔父上が章友を討った時のようにはいくまい』


 何もかもが先の見えぬ霧中であった。章理としては迂闊に諾と言うわけにはいかなかった。


 「章理様。泉公にお力を借りましょう。泉公の兵は中原においても精強として知られております」


 「それは駄目です。泉公には亡命を受け入れていただいただけで、ご迷惑をかけています。そのうえ、兵を貸せだなんて厚かましいことです」


 「しかし……」


 「それにこれは印国の問題です。他国の力を借りるわけにはいきません」


 「左様ではありましょうが……」


 左堅は不服そうであったが、こればかりは章理はすでに心を決めていた。何があろうと泉公の力は借りぬと。


 強情な方だ、と左堅は思っているだろうか。左堅はちらりと章理の後方で二人のやり取りを眺めている章季に目をやっていた。


 『左堅。私が駄目なら季を担ぐつもりか……』


 章季なら唯々諾々と従うだろう。左堅はそのように考えていているかもしれないし、おそらくは章季は何事にも否とは言わないだろう。


 『季を危険な目に遭わせるわけにはいかない』


 もし自分に何かあれば、章家の命脈は章季のみになってしまう。もし章理が印国に渡ることがあったとしても章季は置いていくつもりであった。


 「左堅。お前の意見はよく分かった。近いうちに返事をするから、今日は下がってくれ」


 章理はそう言って左堅を引き取らせた。しかし、すでに章理の心は決まっていた。




 その晩、章理は樹弘と対面した。余人を交えず、二人きりで会わせて欲しいと頼むと、意外にもあっさりと許された。しかし、樹弘は忙しかったらしく、対面できたのは深夜近かった。そんな時刻にも関わらず、章理が執務室に通されると、樹弘は書類に目を通していた。


 「ああ、申し訳ないですね、章理さん。どうも今日は忙しくて」


 と言いながら、樹弘は手元にあった握り飯を頬張った。


 「こちらこそお忙しいところを……夕食もまだなのですか?」


 「ううん。夜食かな。今日は地元の名士を招いての会食だったんだけど、そういう席ではどうにも食事が喉に入らなくてね」


 ほとんど食べられなかった、と照れ臭そうに樹弘は笑った。


 「ところで御用は?」


 樹弘が書類を机の隅にやった。


 「印国から情報が来ました。叔父上が丞相の松顔を処刑したようです」


 「うん。そのようだね」


 樹弘も独自の情報網で印国の内訌について承知しているようだった。それならば話は早い。


 「印国国内では私に戻ってきて、叔父上を打倒する旗頭になって欲しいと言ってきています」


 樹弘は真剣な顔で黙って聞いていた。おそらくは章理が何を言い出すか、予想がついているのだろう。


 「私は行くつもりです。泉公には亡命を受けれていただき誠にありがたいのですが、章友の仇を討ち、印国を再び平穏にしなければなりません」


 「章海に勝てるという自信はあるのですか?」


 「自信はありません。しかし、やるのならば今しかないと思っています」


 樹弘に隠し立てしても仕方なかろうと思い、正直に話した。


 「泉国としては力を貸すことはできません。それでも構わないのですか?」


 「勿論、貴国の力を借りるつもりはありません。これは印国の問題です。我らだけで片を付けたいと思っています」


 「貴女がそこまで仰るのなら……」


 「泉公には一方ならぬ温情をかけていただき……」


 章理は言葉と共に涙を流していた。自分でも涙を流しているとは分かっていたが、止めることはできなかった。


 「せ、泉公におかれましては……」


 「章理さん!」


 樹弘が席を立ち、章理の傍に寄ってきた。章理の突然の涙に驚いて思わず駆け寄ってみたものの、どうして良いのか分からないようで、章理を見下ろしたまま立ち尽くしていた。


 「う……ううっ!」


 章理は涙を隠すように樹弘の胴に抱き着いた。一瞬驚いて身を引こうとした樹弘であったが、章理の体を受け止め、そっと背中をさすってやった。


 しばらくして落ち着いた章理は、樹弘から離れた。思わず抱きついてしまったことに羞恥を感じながらも、今はそんなことよりもを言うべきことがあった。


 「泉公。私は母から貴方との結婚を推し進められた時には拒否しました。今ではそれを悔いています。もっと貴方のことを知ってから態度をはっきりとさせるべきでした」


 章理は樹弘の顔を見ずに話を続けた。きっと彼の顔を見てしまっては、章理は何も話せなくなってしまう。


 「それと私は印国で政治をしたいという希望を捨てきれませんでした。そのことが今の結果というのであれば、私はその道を全うしなければならない気がしたのです」


 章理はようやく顔をあげた。樹弘の優し気な眼差しが章理の心を熱くした。


 「樹弘様。貴方を愛しております。今までもこれからも」


 「うん……」


 樹弘は頷くだけだった。決して自分もとは言ってくれなかった。それは二度と泉国に戻ることのない、叶わない恋をしている章理への優しさであったかもしれない。


 「ですが、これでお別れです。ですから、最後の思い出を」


 章理は立ち上がり、再び樹弘に抱き着いて、その唇に自らの唇を押し付けた。樹弘は拒むことなく、章理を受けれてくれた。わずかな時間ではあったが、二人の濃密な時間が過ぎていった。

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