寂寞の海~44~
南部へと軍を進めた章海は、斥候を広く出して敵情を収拾させた。それによると印国南部最大の邑、南鑑周辺で賊は蜂起したようであるが、ある斥候が妙な情報をもたらしてきた。
「すでに南鑑周辺には軍の姿はないようです」
斥候の報告は実に不明瞭であった。章海は眉をひそめた。
「ないようです、とはどういうことだ」
「住民に話を聞くとかなりの軍勢が南鑑周辺で見かけたとのことですが、ここ数日はまるで見かけていないようです」
「では、我々は霧のような敵に翻弄されてここまで来たというわけか」
そこまで言って章海ははっとした。これは自軍をおびき出す罠であり、敵の本当の狙いは手薄になっている鑑京が狙いではないだろうか。
これは裴包が仕掛けた罠であった。しかし、その罠は鑑京を狙うというような単純なものではなく、もっと遠大なものなのであるが、章海は気が付いていなかった。
「軍を引き返すぞ!鑑京が危ない!」
章海は急いで鑑京へと軍を返した。ひとまずは先遣隊を出して、鑑京に警告させることにした。
章海の本体も軍を急いで北上させた。鑑京まであと二舎という所まで到達すると、先遣隊が引き返してきた。
「どうかしたか?」
不審に思った章海は先遣隊の部隊長に話を聞いた。すると思わぬことを言い出した。
「鑑京の門扉は固く閉じられ、敵を追って引き返してきたと申しても開けてもらえません。それどころか矢を向けられて追い返されました」
しかも鑑京の中に軍勢を入れ、今にもこちらに攻撃をしかけようとしていた言う。
「どういうことだ!」
「このようなことを言いたくはありませんが、本当に叛したのは丞相ではないでしょうか?」
部隊長が怒りを交えて言うと、章海も冷静さを失った。
『松顔め。私に対して含むところがあったな』
だから叛したのか、と章海は結論を下した。
「鑑京へ急ぐぞ」
すぐさま馬上の人となった章海は、供回りの者が準備する前にすでに駆け出していた。
二舎の距離を一舎で駆け抜けて、日が沈む前に鑑京に到着した章海は、自ら先頭に立って城壁に向かって叫んだ。
「開門しろ!私の顔を忘れたわけではあるまい!」
城壁を守る兵士達も、流石に章海が姿を見せると、松顔に伺うまでもなく門扉を開けるしかなかった。
これに驚いたのは松顔であった。つい数日前、先遣隊と名乗って近づいてきた部隊があったが、あれは本当に章海が率いる部隊であったのだ。
「まずい……」
ただでされ章海とは不和である。章海も自分に対して良い感情を持っていないだろう。そうなれば、城門を閉ざして先遣隊を追い返したことついて不審に思うであろう。ちゃんと説明をせねばと思っていると、地を叩くような足音が聞こえてきた。間を置くことなく、章海が入ってきた。
「主上、これにつきましては……」
「うるさい!よくも私に弓引くような真似を!」
「ち、違います。実は前にも主上の先遣隊を名乗る賊が鑑京を攻めてきましたので……」
「ほほう。南部に出没したという賊がこちらに湧いてきたと?南部では賊など見る影もなかったぞ!」
「そ、それは……」
「私を国都から遠ざけて、叛する準備でもしていたか!」
「ち、違いまする」
「奸族め!過分な地位を得てまだ不満か!」
章海は剣を抜いて真横に払った。なおを抗弁しようとする松顔の首を刎ねた。松顔の頭はどさりと音を立てて地面に落ちた。少し遅れて頭部を失った胴がどさりと倒れた。
「見たか。国主に叛するとどうなるか!丞相といえども、死は免れぬぞ」
章海は髪を振り乱しながら、居合わせた延臣を睥睨した。延臣達は明らかに恐れの色を見せた。彼らからすると、それまで畏敬の念の対象であった章海が畏怖の対象に変わった瞬間であった。
当然ながらここまでが裴包の仕組んだ遠大な罠であった。裴包はほぼ兵を損ずることなく、松顔の謀殺に成功した。
後になってこの事実を知った翼公―楽乗は、嫡子である楽清に向かって以下のような言葉を語っている。
「章海と泉公の違いが分かるか?」
分かりかねます、と楽清が言うと、翼公はこう解説した。
「武力で国主の座を取ったのは同じだ。だがその後、章海は共に立った松顔を討ち、樹弘は苦楽を共にした家臣達を信じ、一切の猜疑の目を向けなかった」
「父上も泉公と同じではないですか?」
「そうだ。余もそうだ。余も泉公も、延臣達を信じたからこそ、彼らもそれに応じてくれた。だが、章海はどうだ?彼の家臣からすると、章海は単なる恐怖の対象だ。次はいつ自分が殺されるかと恐怖しながら、章海の耳目を意識して生きていかなければならない。章海もずっと家臣達を猜疑の目で見続けなければならない。そのような主従が良き国を作れると思うか?」
「思いません」
「そうであろう。近く章海の政治は破綻するだろう。才能があるだけに残念なことよ」
天は章海を見放したか、と愛弟子のことを思い、翼公は嘆息した。
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