寂寞の海~42~

 章海が印公となって三か月ほど過ぎた。即位してから章海は国民に対して徹底した善政を敷いた。租税、賦役の軽減については先述したとおりであり、それだけではなく大規模な恩赦や薬院、療養所の開設といった福祉政策も行い、とくかく民心を得ることに腐心した。


 『章海の過度な善政は自身のなさの表れだ』


 後になってそう評したのは翼公―楽乗であった。章海が終生の師として仰いだ翼公は、国主となった愛弟子には非常に辛口であった。


 『減税は一時的ならばよい。その間、国民を富まして新たな生産への投資にしたり、経済を回す活力とするなら意味があろう。しかし、単なる人気取りで終わるのであれば意味のないことだ』


 翼公は愛弟子のために諫言を述べたかっただろう。だが、それをするには二人の距離は離れすぎていたし、年を取り過ぎていた。




 翼公の評価は章海の知らぬことであり、章海は率先して様々な政策を打ち出していった。これに不満を抱える者がいた。丞相である松顔である。


 松顔としては章海の英明さに惹かれ、彼を国主にすることを使命としてきた。それが実現し、自らも丞相という地位を得たことにより、多少の欲目がでてきた。それは即ち、権力者として得た権力を行使したいというものであった。ましてや一国の丞相ともなれば、国を左右することもできる。


 『印国の名家に生まれた男児として、これほどの本懐はあるだろうか』


 松顔の精神は高揚していった。しかし、現実は松顔の思うようにはならなかった。ほぼすべてにおいて章海が独断で政治を進めていった。出鼻をくじかれたような気がした松顔は次第に章海に不満をあらわにするようになっていった。


 『章海様は我らを信じておられないのか、あるいは能力を低くみておられる』


 松顔は六官の卿や閣僚達に、明確な言葉にして不満をぶちまけるようになっていった。それでも章海に対して反抗するような言を吐いたり、排斥しようとするなど具体的な行動は見せなかった。松顔にとっては単に愚痴を言って不満を晴らす程度のことであったが、余人はそうは取らなかった。


 『丞相は今上にも不満のご様子』


 他の閣僚達は、章海と松顔の間に不和が訪れることを最も恐れ、関わるのを避ける者も少なくなかった。


 そのような松顔の言動は章海の知るところとなった。当初、それを知った章海は、不思議で仕方がなかった。


 『丞相は何が不満なのだ?』


 松顔が不満を抱く理由が、章海にはまるで理解できなかったのだ。章海からすると、松顔は自分に与することで丞相という地位を得ることができた。丞相といえば人臣の最高位である。他人が羨むような出世を果たしたのに、それでも飽き足らぬことがあるのか、と不思議に思うのであった。


 だが、章海は面と向かって松顔を非難することもなかったし、自分への不満について問い質すこともしなかった。松顔の方も恨み節を周囲に漏らすのが精々であった。




 ここで一人の男が登場する。裴包という武人である。彼はかつて左昇運の部下であり、章友のために鑑京が陥落するぎりぎりの段階まで抗戦していた。章海は鑑京を制圧した後、章友に与した武人達を許したが、要職につけることはなかった。裴包は印国南部に左遷され、燻った日々を送っていた。そこへ鑑京から章海と松顔の不和が聞こえてきた。


 『これは好機ではないか』


 裴包からすれば、このまま章海の時代が続けば武人としての出征は見込めないであろうし、かつての上司である左昇運の仇も討ちたかった。そこで裴包は志を同じくする仲間達と語らい、一計を案じた。




 松顔との不和が囁かれる以外、大過なく国主として政務を行っていた章海であったが、彼が最も恐れていた報せが届けられた。死んだと思われていた章友が生存しており、印国南部で軍を集めて蜂起したというのである。


 「馬鹿な!章友が生きていたというのか!」


 章海は章友を殺してしまったのは失態であると思っていた。理由がどうあれ、国主を謀反によって死なせてしまったのは紛れもない事実であった。しかし、死んだとなれば死んだままであって欲しかった。象徴として章海に反する者達を糾合できるのは章友しかいないからである。


 「先代国主の名を騙る不届き者がいる。私自身が行って討伐しよう」


 南部で蜂起したという章友が本物かどうかは別として、この手の名を騙る反抗者は早々に潰しておかなければならなかった。


 これについて閣僚達も異論はなかった。彼からしても、章海とは一蓮托生なのである。章海に敵成す存在は、なんであれ消えていただくことに異存はなかった。閣僚の賛同を得た章海は、松顔に国都の守りを任せ、自ら兵を率いて鑑京を出た。

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