寂寞の海~37~
丞相藤元の刺殺事件から始まる印国の一連の騒動について、樹弘は時間を置かずほぼ正確に知ることができた。実は章友が印公になってから印国の国情にきな臭さを感じた樹弘は、間者である無宇を印国に派遣していた。
『些細なことでも逐次報告して欲しい。紅蘭の商船が四日に一度出ているから、それを利用してくれ』
樹弘は紅蘭に協力を仰ぎ、彼女が使用している商船に無宇からの書状を運ばせることができた。さらに泉国国内では甲朱関の発案で作らせた早馬の制度によって迅速に書状が泉春に届けられることができた。
「どうにも印国はまずい方向に進みそうだ」
「そのようです。無宇には万が一の時には印公ご家族を我が国に亡命させるように指示しておきましょう」
甲朱関がそのように提案したので、樹弘は首肯した。この時は樹弘も甲朱関も、まさか章海が謀反を起こそうとは想像もしていなかった。だが、次に無宇から届けられた書状には、章海の謀反と黒原での官軍敗北の情報が記されていた。
「印公達が亡命してくるかもしれない。すぐに各港にその旨を伝達し、来着した場合は丁重にお迎えせよ」
樹弘は同時に印国から漂着する難民についても、温情をもって処遇するように指示した。
さらなる詳報が届くまでの間、樹弘は印公達の安否を気にしながらも、一方で冷徹な思考を巡らせていた。
『これからどう対応すべきか……』
印国の内乱について介入すべきかどうかということである。これについては樹弘は否定的であった。
これまでの樹弘の戦いは、悪しき仮主であった相房を討つためのものであり、かつては泉国の一部であった伯国を取り戻すためであった。これらには世間に公表すべき正義があった。
今回も正義はあろう。謀反を起こした章海にどれほどの正義があるだろうか。寧ろこれを討伐し、印公を鑑京に帰すことこそ正義になるのではないか。
『しかし、他国のことだ』
泉国にとって利することは何一つなかった。翼公や静公のように中原の覇者とならん野望を持つ者ならいざ知らず、そのような気概などなく、ただ泉国の安寧と発展を望む樹弘には明らかに無用な戦争になってしまう。
『印公達には泉国で平穏に暮らしていただこう……』
尤もこの心配は杞憂に終わるかもしれない。一度敗北しただけで、印公の軍が最終的に勝利しているかもしれない。樹弘としては新しい情報が来るまで待つしかなかった。
次にもたらされた情報は、左堅に伴われて章理と章季が洛鵬に到着し、亡命してきたというものであった。
「印公はいないのか?」
樹弘の質問には甲朱関は、おらぬようですと答えた。
「ともかく章理さん達を泉春へ。急がす必要はない。体調に気を付けながら、無理させぬように」
樹弘はそう命じながらも気が気でなく、早く章理達の無事な顔を見たかった。
約一週間後、章理達が泉春に到着した。一行には紅蘭も同行していた。章理達を印国から泉国に運んでくれたのは紅蘭の商船であり、これも事前に樹弘が紅蘭に依頼していた。
「章理さん、章季さん、それに左堅殿。よくご無事で……」
久しぶりに対面した章理はやや憔悴しているようであった。章季はそれ以上に疲れを顕にしており、さっきからずっと俯いていた。
「泉公、この度は亡命を受けれていただき、ありがとうございます」
それでも章理は毅然としていた。そういう章理を好ましく思い、美しくも思った。
「うん……。今はゆっくりとお休みください」
本当はもっと章理と会話し、印国でのことを知りたかったのだが、今は休養こそ必要であろうと判断した。章理は小さな声で謝意を伝えただけであった。
章理達を客室に下がらせた後、樹弘は紅蘭と左堅から様々な話を聞いた。特に左堅は章友の近くにいただけに章友についての詳細を知ることができた。
「そうか……。印公は一人残ったか」
樹弘からすると章友との接点は少ない。かつて章穂の誕生を祝う席で一度見かけただけであり、会話を交わすこともなかった。
「あのような主上でしたが、何やら最後に国主としての矜持を見たような気がしました」
左堅は最後としたのは、もはや章友の生存は絶望的に感じたのだろう。
「左堅殿。まだ印公は亡くなられたわけでは……」
「左様でした。しかし……」
「左堅殿もお休みください。今は体調を回復させることが最優先です」
かたじけない、と絞るように言葉を漏らす左堅の頬を一筋の涙が伝った。
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