寂寞の海~36~

 自軍の敗北と左昇運の戦死を知った章友は、取り乱す様子もなく寧ろ落ち着き払っていた。それだけではなくすぐに黒原の残留部隊に撤退を命じた。ここでもまた周囲は驚かされた。彼らからすると、章友の口から自発的に発せられた命令を初めて聞くことになった。


 『まともな命令をするとは思わなかった……』


 ある将兵は後にそう語っている。いかに章友という人物が軽んじられていたか分かる挿話であるが、同時に章友が決して周囲から思われていたほど阿呆ではないことが伺い知れた。


 鑑京へと敗走する間も章友は動揺することなく、馬車の中では終始無言のままであった。ただ、背局的に命令を下すこともなかったので、どのように対処すべきかという定見を持っていなかったともいえた。




 鑑京にはすでに敗報が届けられていた。宮殿では上へ下への騒ぎであったが、ここの気を吐いたのは章理であった。


 「敗れてたとはいえまだ一戦しかしていません。何をうろたえるのですか。主上も健在です。今は主上のご帰還を待ち、鑑京の防備を固めるべきではないですか」


 章理は鑑京に残った将軍、閣僚を前にしてそう叱咤した。もはや自分が出ねば収集が付かぬと思い、章理は腰を上げたのだった。しかし、将軍、閣僚達の反応は鈍い。彼らかすると、いくら章理が英邁とはいえ、一兵も指揮したことのない女性が息巻いたところで形成は変わらぬだろうという思いがあった。しかも相手は章海である。章理の決死の演説を聞きながらも、密かに章海に通じる方法を模索している者も少なくなかった。


 章理は彼らのそのような気分を察しながらも、鬼気迫る勢いで説き続けた。自分が軽んじられているからこそ必死になり、時として鬼の形相にならねばならなかった。


 その結果、三百名ほどの兵士を集め、自警的な組織を作り上げることはできたが、その晩のうちに二人の将軍と三人の閣僚が鑑京から姿を消すこととなった。章理は内心怒りを感じながらも、周囲を憚って必死に押し殺した。


 数日後、章友が残存部隊に守られて帰還した。その数は出撃時の四分の一、五百名にも満たなかった。黒原での戦いでの損害は三百名程度だったので、残りは章海軍に降ったか、どこへともなく逃散していた。


 章季と一緒に宮殿で章友は迎えた章理はやや意外に思った。章友は焦燥している様子はなかったが、疲労のために血色は悪かった。


 「兄上……」


 心配そうに章友を見守る章季。章理は妹ほど心優しく章友を迎えることができなかった。


 「これからどうするのです、主上」


 今の章友に国家の行く末を左右する判断をさせるのは残酷であろう。しかし、今となっては命令を下せるのは章友しかいなかった。


 「丞相は?」


 「数日前より病だと言って出仕しておりません」


 おそらくは仮病であろうと章理は思っていた。どちらにしろ張鹿では事態を収拾できまい。


 「そうか」


 「主上。差し出がましいようですが、ひとつ意見させてください。今すぐに張鹿を逮捕し、その首を晒すことによって罪を明らかにするのです。そうすれば叔父上も松顔も振り上げた拳のやり場に困ります」


 章理の考えでは、章友には二つの選択しかなかった。ひとつは提言したように張鹿を捕まえて処刑すること。そうすれば章海と松顔は鑑京を攻める意義を一時的に失ってしまう。もう一つは徹底抗戦すること。章理からすると前者しか採用すべき選択肢はなかった。


 「姉上、季。もうすぐ鑑京が戦場となる。今すぐ脱出してくれ」


 しかし、章友が下した判断は違っていた。


 「友、何を言う!」


 「ここに来ての戦闘は愚かであろう。だが、私にも国主としての、男児としての矜持がある。臣下に叛かれて、おめおめとそれに謝するような真似はしたくない」


 「友……」


 章理は初めて弟のことを見直した気がした。この気構えを従前から持っていれば、このような悲劇にはならなかっただろう。


 「左堅に頼み、泉国に亡命してくれ」


 「亡命するなら兄上も。泉公なら喜んでお引き受けしてくれるでしょう」


 章季の誘いにも章友は頷かなかった。


 「姉上、季。二人には済まないことをした。こんな目に遭うのはすべて私の不徳故だ。泉下で母上に誤ってくるから、二人は長く泉国で過ごしてくれ」


 「友!何を言う!叔父上とてお前を殺さないだろう。死して楽になろうと思うな。男なら生きて恥を晒し、後で汚名を雪ぐことを考えろ」


 「姉上、私はもう疲れたのだ。印国の国主章家の息子として生まれたことに疲れたのだ」


 章友はもはや議論は無用とばかりに衛兵に命じて左堅を呼ばせた。左堅が来るまでの間、章理は必死に説得したが、完全になしのつぶてであった。


 しばらくして左堅が到着した。章友はまず左堅に謝した。


 「左堅。お前の子息をむざむざ見殺しにしてしまった。すべて私の罪だ。許して欲しい」


 「主上……。昇運は武人として武運拙く敗北したのです。主上が謝することではありません」


 そう言いながらも、左堅は涙していた。決して章友の言葉に感動しているのではなく、戦死した息子のことを悼んでの涙であった。


 「左堅は泉国の知己がいると聞く。ぜひ姉上と妹を連れて泉国に亡命して欲しい。これは私の最期の命令だ」


 承知しました、と左堅は即答した。


 もはや章理は何も言わなかった。ここは章友の望み通りにしてやるしかないのだろうと悔しさをかみ殺して覚悟した。


 「友、死ぬなよ。生きて私達を故国に呼び戻してくれ」


 章理の願いに言葉で答えることなく、章友は微笑を返した。

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