寂寞の海~30~
張鹿が推測した通り、松顔と章海は事前に捕縛についての情報を得ており、紙一重のところで鑑京を脱出していた。そして北部にある黒原という邑に潜伏していた。
「章友は私達に帰還せよと言ってきているようです」
未だ二人の潜伏場所を把握していない章友は、松顔と章友に勅許を取り消すから安心して鑑京に戻ってくるようにという布告を出していた。
「なかなか良い手を打ってきたな」
章海の言葉に松顔は頷いた。捕縛についての勅許を取り消されたとなれば、二人の罪状はなくなり、逃走している意味がなくなる。しかも、鑑京へ帰還を勅許として出された以上、これに逆らうと今度は勅許に反した罪に問われる。彼らからすると鑑京に戻らざるを得ない状況となったのである。
「誰の知恵でしょうか?まさか章友ではありますまいし、張鹿にしても自ら勅諚を偽造したことを認めたことになりますから、このような真似はしないでしょう」
「章理であろうな。彼女は聡い」
だが詰めが甘い、と章海は顔をしかめながら言った。
「詰めが、ですか?」
「私ならば、帰還を命じるだけではなく、同時に張鹿を処罰する。そうなれば我らは非を鳴らす相手もいなくなり、諸手を挙げて帰還せざるを得なくなる。そうなれば計画はすべて終了だ」
「その詰めの甘さが活路になると?」
「いかにも」
章海は不敵に笑い、これからのことを松顔に指示した。
松顔は鑑京に使者を派遣した。自分達が黒原にいることを明かしたうえ、張鹿を弾劾する書状を認めた。
『我らは張鹿が偽造した勅諚によって命を狙われたのだ。鑑京に帰還せよ、という勅許には謹んで従うが、その前に張鹿を処分せよ』
というような内容は、激越な文脈が書かれていた。そしてそれだけではなく、新たに松顔を丞相にして政治を一新すべし、ということも付け加えられていた。
「このような書状が届けられたが、姉上はどう思うか?」
章友は章理に意見を求めた。張鹿に関わることなので、意見を求められる相手は章理しかいなかった。ちなみに張鹿は現在、勅諚を勝手に出したことを反省して謹慎している。
「お受けすべきです。それが国情が一番落ち着く道です」
「うむ……。しかし、余は松顔は好かない。叔父上もだ」
「好む好まぬの問題ではありません。少なくとも一時的に張鹿を拘禁し、二人に弁明の機会を与えるべきです」
「しかし、張鹿を罪に問うのは可哀そうではないか?」
「可哀そう?張鹿は勅諚を偽造したのですよ」
「余のことを思って先走っただけではないか。それに松顔と叔父上が謀反を計画していたという疑惑もまだ消えてはいない」
「主上……」
章理は苛立った。章友はどこまでも短慮で優柔不断であった。どうして果断に冷徹な判断を下せないのだ。章理は今にも声に出して叫びたかった。
章友の迂闊さは、松顔からの書状について弾劾されている張本人である張鹿にも意見を求めたことであった。このような愚劣な行動をした為政者は過去いかなる国家でも例がなかったであろう。当然、張鹿としては自己を弁護することができた。
「お待ちくださいませ。これは罠でございます」
「罠とな?」
章友は張鹿の詭弁をまるで疑っていない様子であった。
「左様です。私が宸襟から排されれば、主上は裸同然でございます。そうなればもはや主上を守りできるものはおらず、松顔達の謀反も成功してしまいます」
「それよ、どうして松顔と叔父上が謀反を起こそうとするのだ?それが余には分からん」
「これは私が墓の中まで持っていくことなのですが、先々代である章平様が亡くなられる時も、遺言と言うべき勅諚を偽造いたしました。章穂様を国主に、ということでございましたが、章平様は後嗣について何もお言葉を残さなかったのです」
初耳だ、と章友は呻いた。張鹿は声を細めて続けた。
「どうして偽造したか、その理由がお分かりですか?章海様が国主の座を狙っておられたからです。章平様亡き後、後嗣が定まっていないとなると、章海様が国主になるためにあらゆる謀略を駆使してくることは明らかでした。そのために国は乱れることや、ご家族に危害が加わることを恐れた章穂様は、勅諚偽造という罪を犯されたのです」
張鹿の言っていることはほぼ事実であった。しかし、このことは開示せず、それこそ彼の言葉通り墓まで持っていくべき事柄であった。張鹿はその秘事を、自己を守るために平然と明らかにしたのである。
「叔父上が……」
章友は張鹿の言葉を信じた。というよりも、自分が危険な立場に立たされているという状況が事実であるかどうかなど関わりなく、堪らなく恐ろしかったのである。その恐怖から逃れるには、張鹿という最大の保護者に頼らざるを得なかったのである。
「禁軍を出せ!松顔と叔父上を討て!」
畏まりました、と張鹿はほくそ笑んだ。今度の勅許は紛れもなく本物であった。
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