寂寞の海~29~
精神的に追い込まれている時、そこに付け込んでくる人物というのは突如として湧いてくるものであった。張鹿にとって蘇硯という男がまさにそれであった。
蘇硯は下級官吏であった。功名心は高いが、それを実現させるだけの能力には乏しく、下級官吏に甘んじていた。張鹿とは章平の祐筆時代からの付き合いで、故郷も近いということもあって張鹿が丞相となってからも昵懇の間柄であった。その蘇硯が小才子らしい知恵を張鹿に授けた。
「何を躊躇っておられるのですか?張鹿様は丞相であられるではないですか。松顔など適当な罪科をでっちあげ、投獄するなり首を刎ねるなりなさればいいではないですか」
それができるのが丞相だ、と言わんばかりであった。確かに丞相は六官の卿を束ねる存在であり、その権限は卿を上回る。張鹿が章友の名をもってして衛兵を動かせば、松顔を拘束することなど容易い。
「しかし、それで余人は納得するだろうか。政敵を排除するために強権を発動すれば、何人の支持を得られるだろうか」
「張鹿様は甘い!今必要なのは、余人に丞相の力を見せつけることです。力強い丞相の姿勢を見せつければ、余人など平伏すしかないのです」
要するに蘇硯は恐怖政治をしろと言っている。それは追い込まれている張鹿にとっては蠱惑的であり、やはり即断することを躊躇われた。
「松顔はそれでいいとして、章海様はどうする?流石にあのお方にはそのような手段は通用しないぞ」
章海は恐るべき才人であり、公族に連なる者である。そう簡単には手を出せなかった。
「そういう場合の主上ではありませんか。最悪、祐筆は張鹿様のかつての部下。いかようにもできましょう」
「章海様を追放する勅諚を偽造せよというのか……」
「偽造はお手の物でありましょう」
蘇硯は不敵に笑った。張鹿は背中に汗を感じながらも、自分に残された道はそれしかないように思われた。
義王朝五五一年十二月。印国中を震撼させる勅許が下った。
『松顔と章海が謀反を企んでいる。速やかに捕縛すべし』
早朝、印公章友からの勅許を得た丞相張鹿は、近衛兵に命じて二人の捕縛に向かわせた。表向きそうなような形になっているが、実際は張鹿が勅諚を偽造しており、当然ながら章友はこの騒ぎを知らずにいた。
張鹿としては完全に奇襲をしかけたつもりでいた。しかし、報告に戻ってきた近衛兵達によると、松顔も章海もそれぞれの屋敷にはおらず、使用人一人いない完全にもぬけの殻だったという。
『露見していたか……』
今回の計画はほぼ秘密裏に行われていた。それで密事がばれて二人が逃走したとなれば、張鹿の身近なところから漏れたとしか思えなかった。だが、そのことを追求するゆとりは張鹿にはなかった。続々と集まってくる閣僚達に事情を説明しなければならなかった。
騒ぎは次第に大きくなっていった。閣僚達には勅諚を見せてなんとかねじ伏せたが、彼らは一様に動揺しており、その動揺は宮殿内部に伝播していった。
もはや張鹿は引くに引けぬ状態になっていた。引き続き松顔と章海の探索を命じる一方で、一つ手を打っておかなければならないことがあった。章友への説明である。
これだけの騒ぎになれば、いずれ章友の耳に達するだろう。そうなれば勝手に勅許を出したことを詰問させるかもしれない。そうなる前にこちらから先手を打とうというのであった。
『どうせ盆暗だ。ああそうかの一言で終わるだろう』
張鹿はあくまでも軽く考えていた。すぐに終わると思って章友の私室に入ると、そこには章理もいた。
『馬鹿な……』
章友なら簡単に丸め込める自信はあったが、章理はそうはいかない。彼女の英邁さを知らぬ者は印国にはいなかった。
「ど、どうして章理様が……」
「余が呼んだのだ。余は政治的な話は苦手でな。姉上にいろいろと意見を貰おうと思ったのだ」
「しかし、章理様は無位無官で……」
「それが問題か?主上である余が呼んだのだ。何人がそれを妨げるというのだ?」
張鹿は内心舌打ちをした。魯鈍なくせに妙なところで理屈をこねましてくる。それとも章理が入れ知恵をしたのか。
「では聞かせてもらおう。叔父上と松顔が謀反を企んでいるとな?それで余が出した記憶のない勅許で捕縛しようとした。それについては相違ないな?」
「……御意。主上の宸襟を煩わすわけにはいかず、先走って勅許を出してしまいました。それにつきましては反省しておりますが、すべては主上のためでございます。ぜひご容赦くださいませ」
「松顔を叔父上が謀反を企んでいたというのは本当なのですか?」
口を開いたのは章理であった。冷ややかな目でじっと張鹿を見据えていた。
「本当でございます」
「証拠は?」
章理は畳みかけてきた。やり辛い。本当にやり辛い相手だ。
「証人がおりますれば……」
「勅諚を偽造する輩が連れてくる証人など信用できるものですか」
やはり章理は鋭い。張鹿の痛いところを突いてくる。
「そう申されると……」
張鹿が言い淀んでいると、章友がゆっくりと口を開いた。
「姉上、余はどうすればいい?」
「今すぐ勅許を取り消し、叔父上と松顔をお召しください。そのうえで謀反が事実かどうか問い質すのです」
「では丞相、そうせよ」
章友に命じられれば、諾と言わざるを得なかった。勅許を勝手に出したことを責められなかっただけでもましであろうと思うほかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます