寂寞の海~21~
章海との関係は半年ほど続いた。章穂にとってはこれまでの人生にない幸福に満ちた日々であったが、破綻はすぐにやってきた。父が章穂のことを章平の妃候補として推薦したというのである。
「妃候補?」
章穂はまっさきに嫌ですと言いたかったが、その聞きなれぬ言葉に思わず問い返してしまった。
「そうだ。太子は妃となる人物を自ら選びたいというのだ」
父が言うには、すでに今上印公は病床にあり、息子のための妃を選定することが不可能な状態にある。それならば自分で選ぶと章平は言い出し、候補の募るように命じたのであった。
『面白いことをする』
章海への愛は変わらないが、多少面白そうだと思ってしまった。た章穂は、冷やかし半分で選考会となる晩餐会に参加することにした。
運命のいたずら、ということではなかろうが、この晩餐会には章海は参加していなかった。もし参加していれば、章穂はそのまま章海に嫁ぎ、印国の歴史は大きく変わっていたかもしれなかった。
「もう少し着飾った方がいいのではないか?」
同行する父は、ろくに着飾らず、まるで化粧をしていない娘を心配していた。
「あら、お父様。私は見た目ではなく、内面を見ていただきたいのです」
章穂は尤もらしいことを言ったが、当然嘘である。どうせ章平は見た目で選ぶであろうと思い、あえて着飾らず化粧もしなかったのである。娘がそういう性格であると知っている父は、それ以上何も言わなかった。
他の妃候補達はこれでもかと言うほど着飾り、化粧をしていた。胸元が大きく空いた衣装を着ている者や、眩いばかりの金の首飾りをしている女性もいた。そういう連中が五十名ほどはいるだろうか。章穂は反吐が出そうであった。
『こういう連中を妃にするようでは印国は終わる』
やはり章海がいい、と思った章穂は、他の女性たちと違って進んで章平に近寄ることはしなかった。
章穂は部屋の隅で軽く葡萄酒を飲んで、適当な所で帰ろうと考えていた。父には怒られるであろうが、怒られて済むのならそれで構わなかった。
さてそろそろ、と杯を机に置くと、すっと近づいてくる人影があった。章平その人であった。
「これは太子……」
「貴女はこんな隅で何されているんですか?」
帰り辛くなった章穂は、愛想笑いを浮かべながら、新たな杯を手にしてしまった。
「はは……どうも私にはこういう場所は似合わないようで……」
「そうでしょうね。他の女性達は飾り立てて上辺だけの美しさを競っているが、貴女はそうじゃない。寧ろそういうのを嫌っておられる」
おや、と章穂は思った。どうやら章平は決して着飾る煌びやかさに目を奪われてはいないらしい。
「私も男だ。美しい女性には興味あるし、肉感のある四肢に目を奪われる。でも、妃とするならば、私は聡明な人を選びたい」
章平は実に正直な男であった。章海ほどの聡明ではないのだろうが、決して凡愚ではない。人並み以上の知性はあり、付和雷同しない芯を持っているように思われた。
この場での章平との対面はそれきりで終わったが、これ以後、章平は度々章穂を宮殿に召した。章穂は章海に対してやや後ろ髪を引かれる思いがありながらも、章平に対する興味もわき、これに応じていた。
章平との会話では、主に章穂が喋った。章平は人の話を聞くのに長けており、章穂は意識せずともすらすらと自分の言葉を話していた。
『この人は名君にはなれないかもしれないが。名臣を生むのではないだろうか』
章穂にはそう思えた。そう思えると、この人が望むのであれば妃になってもいいのではないだろうか。章穂の脳裏には章海の姿がちらつきながらも、今は目の前の男性が愛おしく映っていた。
「どうであろうか、円穂殿。私の妃となってもらえないだろうか」
数度目の逢瀬の時、ついに章平は切り出した。
「私は才もなき、人徳もない。それでも太子となれたのは、ある人のおかげだと思っている。その人も人に恵まれていた。人に恵まれることこそ、君主たるものに必要な条件だと私は考えている。それは家臣だけではない。家族となる妃もそうだ。私は、貴女に私にはない聡明さを見た。その聡明さで私を助けてほしい」
これほどの自分の才能を冷徹に分析し、他者に助けを求めた人がいただろうか。章平はその点ですでに稀代の君主になるであろうと思われた。
『これが章海様と違う』
章海は間違いなく自信家であった。鑑京の近郊で隠者のように生活しているのも、明らかにその自信の裏返しであった。章海が持つ知性はあまりにも光が強すぎる。それに対して章平は放つ光は弱弱しいが温かみがあるように感じられた。
『ああ……』
章海が放つ後光があまりにも強すぎて、すでに影しか見えなくなっていた。
『ごめんなさい……、章海様』
この日、章穂は章平の求婚に対して承諾した。
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