寂寞の海~20~

 朝堂での一件を病床で聞いた章穂は、章友の国主即位が承認されたと聞いてひとまず安堵した。


 「そうですか、海殿が……」


 あの才覚豊かな男が章友を支持してくれるのであれば心強かった。


 「海殿を呼ぶように」


 章穂は侍女に命じていた。


 『海殿か……』


 章海と二人きりになるのは、あの時以来であろうか。章穂は少女時代のことを懐古していた。




 章穂は印国における有力な一族である円家の娘であった。父は娘を章平に嫁がせるつもりでいたが、当の章穂はあまり気乗りしていなかった。ちなみにこの件では、煩雑さを避けるために章穂のままで筆を進める。


 『結婚するのならば聡明な方がいい』


 当時の章穂はそう思っていた。しかし、漏れ聞こえてくる評判から察すれば、章平は合格点とは言えなかった。そもそも、将来の国主である章友の正妃候補となれば沢山いる。章穂は自分が選ばれるとはあまり考えていなかった。


 寧ろ章穂は章平の弟である章海の方に興味を持っていた。一度、宮殿で行われた晩餐会でその姿を垣間見たことがあったが、眉目秀麗であり、あらゆる面で溢れんばかりの才能を有していた。


 『嫁ぐなら章海様がいい』


 本気で思っていた。章海も公族の一員なのだから、嫁ぎ先として申し分ないはずであった。


 「それがそうもいかないのです」


 と教えてくれたのは、円家の家宰であった。世俗について物知りな家宰は、現在の章海の地位について語ってくれた。今の章海は無位無官であり、鑑京の近郊で浮世離れした隠棲をしているという。円家としてはそのような男に大事な娘を嫁がせるわけにはいかないだろう。


 だが、その事実は章穂をさらに恋を燃え上がらせることになった。


 『俗世を離れ、晴耕雨読を実践なさっているとは、古の聖人のようではないですか』


 章穂は年代的に遁世的な生活に憧れがあった。俗世の灰燼を嫌い、ひたすら清貧を求める章海の生き方は、章穂の胸に刺さった。


 章穂は章海に恋文を認めた。その内容は若い少女が恋に身を焦がし、行き場のない感情をすべて紙面に書き起こした情熱的なものであった。


 認めたふみを侍女に託してから数日。身もだえる思いで返事を待っていた。章穂の人生の中でこれほど不安で長い数日はなかったであろう。侍女が返書を持ってきた時は、内容も読まずに狂喜した。


 内容もまた章穂を喜ばすものであった。丁寧に美しく書かれた文字が織り成す文面は知性に溢れていた。章海もまた晩餐会で章穂のことを一見していたらしく、愛らしい女性であると密かに思っていたらしく、できればお会いしたいと綴られていた。


 『会いたい……』


 と思えば、すぐに行動を起こせるのが恋に燃え上がる乙女であった。侍女を手なずけて屋敷を密かに脱した章穂は、鑑京近郊にある章海の庵を訪ねた。


 「ようこそ」


 章海は笑顔で章穂を迎えてくれた。男が一人で住める程度の広さしかなく、華美な装飾などもなく、寂びれたまさに庵であった。しかし、章穂の目を引いたのは、書物の量である。庵の狭さに不釣り合いなほどに書物が積まれていた。


 「これ、全部お読みになられたのですか?」


 「全部はどうかな。でも、定期的に宮殿に行っては書物を仕入れてくるんだ」


 そう言ってはにかむ章海に章穂は完全に惚れてしまっていた。




 その日を境に章穂は度々章海の庵を訪ねた。章海はその度に嫌な顔一つせずに章穂を迎えてくれた。章海も章穂のことを愛おしく思うようになったらしく、十数度目の逢瀬の時、章海は章穂に女を求めてきた。


 章穂は拒まなかった。寧ろこうなることを心の底から願っており、進んで章海に乙女の体をささげた。二人は逢瀬の度に肌を重ねるようになった。


 「私、章海様と結婚したいです」


 何度目かの逢瀬の時、章穂はそう切り出した。章海は章穂の髪を優しく撫でながら、耳元で囁いた。


 「私もそのつもりでいる。しかし、貴女は円家を捨てなければならなくなりましょう」


 「構いません。私にとって家のことよりも、章海様と添い遂げることの方が大切です」


 章海はやや困ったような顔をした。その顔がまた愛おしく、章穂は自分から彼の唇を吸った。


 「それに章海様は今でこそ無位無官ですが、いずれは章平様をお助けして国政を支える身。その夫人となることに喜びを感じます」


 章穂は章海から顔を離すと、その頬を触った。艶のある柔らかい頬であった。


 「はは。それは私への過大評価だ。しかし、そう思ってくれるのは嬉しい」


 章海の手が章穂の秘所に延びていった。章海はまるで章穂を黙らせるように、彼女の体を丁寧に愛撫し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る