漂泊の翼~33~
ここで一人の男が登場する。この男の名は、何史書にも出てこないが、楽乗が長い漂泊の日々を助けた功臣の一人であることには間違いなかった。彼自身、自らの功績を誇り吹聴することをしなかったし、楽乗も彼について多言をすることがなかった。しかし、楽乗の漂泊人生を語るうえで欠かせない存在であった。名は剛雛と言った。
剛雛は許斗から程近い里周という邑に住んでいた。二十歳を超えた青年で、この小さな邑で母と姉の三人で暮らしていた。
父はすでにない。羽氏との戦争において徴兵に遭い、剛雛が幼い頃に戦死していた。徴兵により戦死した者の遺族には一定の田畑が下げ渡され、十年間は租税が免除されるという恩典があるのだが、それでも家長を失った家族の暮らしぶりは楽ではなかった。
『私が母と姉を楽にさせねば』
という志が幼い頃から剛雛にはあった。姉は一度他家に嫁いだが、夫がやはり戦死したため、実家に出戻ってきていた。青年となった剛雛の責任感は増すばかりであった。だからと言って、下賜された田畑を耕かしているだけでは埒が明かないので、剛雛はいつの頃からか仕官を志すようになっていた。
『お前にまで死なれては我が家は立ち行かぬ。やめておくれ』
母はそのように反対した。羽氏との戦争は終わったとはいえ、仕官すれば盗賊退治などで戦いの場に赴くこともある。だが、そのような危険を恐れていては、いつまで経っても貧しさから脱することはできないだろう。
『要するに私が誰にも負けない強さを手に入れればいいのだ』
もとより剛雛は腕に覚えがあった。特に槍の扱いについては、里周はおろか許斗にも自分に並ぶ者はおるまいという自負があった。だが、師がいるわけではない。ただ幼い頃より、暇を見つけては近くの山に入って、ひたすら槍を振るって巨岩を突き、大地を叩いてきた。里周の人々は、そのような剛雛の振舞いを奇行と見ていて、
『剛雛の槍など、単なる棒回しだ』
と馬鹿にしていた。それでも剛雛は奇行をやめなかった。
『馬鹿にするなら馬鹿にすればいい。私の師匠は大地だ』
自分一人しかいない大地で槍を振り回していると、人からは得ることのできない力を与えられているような気がしていた。自分の努力を天と地が知ってくれている。いつか果報があろうということを信じて、剛雛は槍を振るい続けた。
剛雛に転機が訪れた。許斗で楽乗が護衛兵を募集しているという情報が里周にももたらされた。
「どうして今頃になって……」
すでに羽氏との戦いは終わっている。翼国は安定しているはずなのに、どうして護衛兵を必要とするのであろうか。剛雛は多少不審に思ったが、仕官する絶好の機会なので、応募することにした。
そのことを母に続けると、多少困った顔をしながらも、
「お前は止めてもどうせ行くんだろう。まぁ、棒を振るっているお前なんぞが選ばれるとは思えないがね」
と厭味を言いながらも認めてくれた。これに対して姉は、
「行くかわりには決して戻らぬ決意で行きなさい」
母とは対照的に手厳しい言葉で送り出してくれた。
剛雛は許斗へ向かった。半日歩いて許斗に辿り着き、応募者が集められている広場に向かうと、すでに三十名ほどの男児がいた。あと何人増えるのだろうかと不安に思っていたが、それが全員であったらしい。剛雛が受付をしてしばらくすると募集は締め切られ、ひとりの男が現れた。
「私は胡演という。諸君を面接する」
この男こそが楽乗の寵臣のひとりである胡演であるとは剛雛は知らなかった。自分と年の頃は変わらぬはずなのに、偉い人なんだなという程度にしか思っていなかった。
面接が始まると、応募者達はそれぞれ出身地と名を名乗り、得意とする武術と流派を告げた。中には剛雛でも知っている剣術家を師匠とする男や、他国にも名が聞こえた体術道場で修業したという男もいた。胡演は一人一人の言葉にしっかりと耳を傾けていたが、彼から問いかけることはしなかった。そして剛雛の番となった。
「剛雛と申します。里周の出身。槍を得意としますが、師はおりません。山野と大地を相手に修行をしておりました」
剛雛は正直に言った。周囲からは失笑が漏れ聞こえたが、剛雛は意に介しなかった。嘘を言って採用されたところで意味はあるまいと腹を括っていた。
「ということは、そなたの師は天と地ということになるのか?」
それまで誰に対しても質問をしてこなかった胡演が尋ねてきた。その表情には剛雛を馬鹿にした色が見えなかったので、またも正直に答えた。
「この大地に生まれた者は皆、天と地が師匠でありましょう。私だけが特別でありません」
思っていることをそのまま答えると、胡演はわずかに微笑み、剛雛の前を通り過ぎた。
その場にいた誰もが、この男は落されたと思っただろう。剛雛自身も受かるまいと思っていたが、胡演はその日のうちに剛雛を採用することに決めた。剛雛の周辺にいる者達は一様に驚き、理由を求めた。
「あの男の体格を見たか?師にも付かず修行をしてあれだけの体を作り上げたのだ。只者ではあるまい。本当に天と地を師匠としているのかもしれんな」
胡演は大真面目に言って、表情に乏しい男にしては珍しいぐらいに口角をあげた。
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