漂泊の翼~27~

 運命が動き出そうとしている。楽乗が龐克の娘である仙を娶って四年の月日が流れた。この年を境にして楽乗、そして翼国そのものが過酷な運命へと転落していくのだが、その火種は楽乗の身から遥か離れた広鳳の地で燻っていた。


 この年、国主である楽伝は高熱を発する大病を患った。その時は半月ほどで回復して病床を払ったのだが、それから度々高熱に悩まされることがあった。延臣の誰もが楽伝の容態に気遣うようになっていた。


 『父上がそうしたように慶に家督を譲り、隠居して政をするか……』


 度重なる病で気弱になっていた楽伝はそのようなことを考えていた。国主の仕事は単に政治を見るだけではなく、細々とした祭礼や行事も行わなければならない。寧ろそちらの方が重労働であり、負担になっていた。


 「そう考えているのだが、どう思うか?」


 楽伝の迂闊さは、延臣達や楽慶よりも先に寵姫である条西に漏らしたことであった。この頃になると、楽伝の寵愛は楽宣施の母である耀舌夫人から条西に移っていた。しかも条西はもはや単なる寵姫ではない。二年前に男児を産んでおり、公子の母としての立場も得ていた。


 「よろしいかと思います。古来より、賢なる国主は生前にその地位を譲ることで名声を得たと言われておりますから」


 楽伝が条西を愛したのは、彼女の美貌だけではない。楽伝は他の夫人、寵姫にはない知性を条西から感じていた。


 「そうであろう」


 楽伝は満足そうに頷いた。褥で睦合いながら条西に褒められることが何よりも嬉しかった。


 「太子の慶様は温厚篤実。延臣達も慶様なら後継者として申し分ないと申しておるようです」


 「そうであろうな」


 楽伝も楽慶は国主として申し分ない素質を持っていると思っている。臣下をはじめ国民からも慕われているし、政をさせても戦をさせても大過なくこなすであろう。


 「ですが、それを今しばらく先にされてもよろしいのではないでしょうか?」


 「ほう?」


 「主はまだまだご健在であります。今、慶様に家督を譲れば、主の体調に疑念を持つ者もおりましょう。幸いにして我が国は、民臣ともに心を一つにしておりますが、他国はどうでありましょうか?」


 「どこかの国が攻めてくると?」


 「可能性の問題です。条公は私が羽禁の傍にいるのを知りながらこれを見捨てて羽氏は滅びました。そのような条公ですから、主が病のため家督を譲ったとなれば、攻め込んできてもおかしくはありません」


 楽伝は考え込んだ。現在、条国とは極めて友好な関係にある。楽宣施に条公の娘を迎えたのであるから、いきなり条公が牙を剥いて攻め込んでくるとは考え難かった。


 『しかし、条西の例もある』


 条西の言うとおり、羽禁は条西を得ながらも条公から見捨てられた。それは注意すべき前例とすべきであろう。


 「それに歴代条公は詐術が多い国主です。高藩の例もございます」


 楽伝は条西の一言に目をむいた。高藩とは条国国内にあった藩である。藩の詳細な説明は避けるが、条国で認められた一種の独立国と言っていい。今から百年ほど前、高藩の藩主は時の条公の娘を娶り、それが原因で藩を乗っ取られ、高藩は滅亡した。条西は明らかにそのことを示唆した。


 「条公が娘を動かして翼を乗っ取ると言うのか?」


 「あくまでも可能性の問題です。宣施様に限ってそのようなことはないと思いますが、用心されるに越したことはありません」


 すでに楽伝は楽宣施にかつての愛情を感じていなかった。もとより楽宣施についてはかねてより国主に相応しくないと思っており、今ではそれどころか自分と楽慶を誅殺し、国主を狙わんとしている危険人物にしか見えなくなっていた。


 『戦となれば慶では宣施には敵うまい』


 もっと自分が健在であることを示し、楽慶に家督を譲るための地盤固めをしなければなるまい。楽伝は家督相続の件は今少し見合わせることにした。




 「危ないところであった」


 楽伝が去ると、条西は思わず独りごちた。あのまま話が進めば早々に楽慶が国主となり、条西が産んだ子ー楽安が国主なる可能性が永遠に失われてしまう。


 条西は我が子を産んだ瞬間から、この子を翼国の国主にしてみせると誓っていた。そのための障害は楽慶よりも楽宣施であった。楽宣施とその母である耀舌夫人は条西が現れるまでは楽伝の愛情を一心に受けていた。だから、楽伝が心変わりして楽慶を廃太子として楽宣施を新たに太子とする可能性があると条西は考えていた。


 『それに楽宣施には条公が背後にいる』


 先ほど楽伝に条公のことを語ったが、完全な妄想で片付けられることではなかった。そのことは条公の一族として傍にいた条西からすると十分にありえると思われた。


 『まずは楽宣施、楽慶は後でよい』


 条西の中では太子である楽慶を一番軽く見ていた。才能豊かであるが、覇気がない。こういう人物は外堀を地道に埋めていけば自滅していく。


 『問題は楽乗か』


 条西にとって最も分からぬのは楽乗であった。条西が楽伝の妾になってから楽乗と顔を合わせたことがない。耳にしている風聞だけで考えれば、羽氏との戦争でそれなりに功績をあげているようだが、そのすべては家臣の手柄であるらしい。許斗を任されていることから無能ではないのだろう。なんとも掴みづらい男であった。


 「まぁいい。舅が一介の家臣であるならば有力な後ろ盾とはいえまい」


 条西は楽乗を侮っていた。ひとまずは楽宣施を潰すことを考え始めていた。

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