漂泊の翼~26~

 公子の婚儀であったが、儀式めいたこともせず、ささやかな宴が行われるだけであった。元来であるならば公族の誰かが顔を見せるべきところ、広鳳と許斗では距離があるためか、楽伝と楽慶が祝いの品を送ってきただけに留まり、楽宣施に至っては祝辞すら寄越さなかった。そのことも、この婚儀に対する印象を暗くさせたが、楽乗はそれをおくびにも出さず、家臣達から祝辞を受けた。


 「この度はまこと祝着の限りです。いや、嬉しや嬉しや」


 最も嬉しそうだったのは龐克であった。赤ら顔の?克は何度も楽乗の前に現れては酒を注いできた。


 「それにしてもよく我が娘を妃として迎えていただきました。こう申し上げるのもなんですが、太子は龍国の大臣から、宣施様は条公の娘を妃とするのに、乗様は我が娘でよかったのですか?」


 「龐克殿、いや、義父上と呼ぶべきか。今更それはないだろう」


 「左様ですな」


 龐克は義父上と呼ばれて嬉しいのか豪快に笑った。


 「私は公子かもしれないが、楽氏の中ではそれほど重きをなしているわけではない。婚儀にそれほどの意義を見出していないんだ。義父上こそいいのか?私と縁戚を結んでも、得することなんてないぞ」


 「それこそ今更ですぞ。しかし、私は乗様、婿殿こそ楽氏、いや翼国において重きを成すと思っておりますぞ」


 嬉しい発言ではあったが、現実性の乏しい話ではあった。今の楽乗の置かれた地位や翼国の状況を考えれば、これから先、楽乗が翼国の中で重要な役割を得られるとは考えられなかった。


 「私はそれほどの人間か?」


 「それほどの人間でありましょう。あれほど長きに渡り苦戦してきた羽氏との戦いを終わらせたのは乗様の功績でありましょう。おっと、郭文殿や私の功績だというのはなしです。郭文殿も胡兄弟も、そして私も乗様であるから働けたのです。乗様にはそのような不思議な徳があります」


 「徳か……。それが私にあるというのなら、大切にせねばな」


 ひどく曖昧な概念ではあるが、今の楽乗には胸に響くありがたい言葉であった。




 夜となった。楽乗は初めて新婦と向き合うことになった。


 暗い廊下を渡り寝所に入ると、すでに龐仙は白い襟合わせの衣服を見にまとい、寝台の上に座っていた。乙女ではあろうが、夫婦として初めて過ごす夜の作法は心得ているようで、顔を紅潮させていた。


 『存外色気がある』


 そこにいるのは蓮葉の少女ではなく、可憐な芙蓉のようであった。楽乗が前に座ると、龐仙はやや俯いて視線をそらせた。


 「昼の蓮っ葉なお嬢さんはどうしたんだ?」


 からかうように楽乗が言うと、龐仙はびっくりしたように顔を上げた。


 「蓮っ葉でした?私?」


 龐仙は自分がそのように見られていたとは思っていなかったようで、両手で顔を覆った。楽乗の中で芙蓉であった龐仙がまた蓮っ葉な少女に戻ったが、昼間の時のような失望感はなかった。寧ろこれが龐仙という女性の魅力なのだと認識を改めることができた。


 「ははは。面白い女だな、そなたは。家を支える妻とはもっと淑女であると思っていたのだが、認識を改めねばならないな。我らは男が多くて、どうも陰気臭い。しかし、そなたが入ってきてくれたおかげで陽の気に照らされそうだ」


 「それは褒められたと考えてもよろしいのでしょうか?」


 「多いの褒めているさ」


 これは楽乗の本心であった。龐仙の持つ天性の陽気さは、今回の嫁娶に気落ちしていた楽乗を飲み込むほど眩い光であった。これから楽乗がどのような人生を歩むにしても、龐仙の温かみのある光は楽乗を照らし続けてくれるだろう。


 『羽陽様が過去にしか生きれない女と言ったのに対して、龐仙は未来を照らしてくれる女かもしれない』


 楽乗は羽陽のことを思い出しても、胸が痛むことはなかった。


 「そなたはよかったのか?今や許斗はかつての許斗ではない。ここでは煌びやかな社交界もなければ、美衣美食もないぞ」


 「構いませんわ。私、もとよりそのようなものに興味ありませんから。広大な地で馬を走らせる場所の方が好きですわ」


 これには楽乗も驚かされた。この時代、楽玄紹によって騎兵がようやく確立されたばかりなので、武人であっても騎乗できる者はまだまだ少ない。それなのに武人でもない女性が騎乗できるというのは、おそらく龐仙だけではないだろうか。


 「流石は龐克殿の娘だ」


 良き妻を得た。楽乗は心底思えるようになった。嫁娶する際に感じた暗さは、龐仙そのものにあったのではなく、羽陽への未練がさせていた。そのことに気付かされた時、龐仙は春の暖かさを感じさせてくれる日の光となったのである。


 「それに私は乗様にお会いしたいと思っておりました。父があまりにも乗様を褒めるものですから、どういうお方か興味があったのです」


 「義父上は私をどうも過大評価するな。私など楽氏において取るに足らぬ存在だ。そなたもこれから苦労させられるだけだぞ」


 「そうかもしれませんわね。でも、苦労のない人生などありませんでしょう。人にとって不幸や幸福の尺度が違いますから。乗様にこれからいかなる艱難辛苦が待っていようと、乗様は最終的には突破されますわ」


 やはり龐仙は単なる蓮っ葉な娘ではなかった。高い知性と強い信念を持ち合わせていた。そして龐仙の言葉は、楽乗の将来への予言となるのであった。しかしそれは、しばらく後の事であり、楽乗と龐仙は、仲睦ましい生活を始めた。

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