漂泊の翼~20~
楽乗は広鳳全域に兵を配置し、治安の維持に務めた。軍律は徹底されていて、楽氏の兵が略奪や暴行に走ることはなかったが、羽氏の兵が撤退するために放火したため一時的に火災が広がった。楽乗は各方面に兵士を派遣して鎮火と焼け出された人々の誘導を行った。その采配の見事さは、後になって広鳳の人々に語り草となった。
火災が鎮火し、戦線が広鳳市街地から宮殿の方面へと収縮すると、ようやく楽乗は人心地つくことができた。払暁から広鳳に突入して、気がつけばまた日が暮れようとしていた。酔いなどすっかりと醒めていて、その日初めての食事となり握り飯を頬張っていた。そこへ阿習がやってきて、楽乗に囁いた。
「乗様、実は貴人を保護いたしました」
「貴人?」
「羽達様の奥方です」
確かに貴人ではあろう。羽氏にまつわる人物であるならば、丁重に扱わねばならないし、楽乗の一存で処遇を決めるわけにはいかなかった。
「胡演、玄紹様のところに使いに行ってくれ。阿習、ひとまず奥方をここにお連れしろ。丁重にな」
楽乗に命じられて二人は天幕を出た。しばらくして先に帰ってきたのは阿習であり、彼の後ろに身なりのいい女性が立っていた。
『美しい人だ……』
楽乗は直感的に思った。楽乗よりはやや年上だろうか。きっと上品な笑顔を羽達に向けていたのだろう。しかし、今の彼女は憂いに満ちて、顔色には暗い影が落ちていた。
「乗様、羽陽様です」
阿習が紹介した。小さく頭を下げた羽陽の両脇には、二人の男児がすがり付いていた。
『子供がいたのか』
楽乗は密かに驚いた。まだ嫁も得ていない楽乗からすると、年がそれほど変わらぬ女性に子がいるというのは不思議でしかなかった。
「羽陽様、私は楽乗と申します。御身とお子様の安全は私が保証致します。お心安らかになさってください」
楽乗がそう言うと、羽陽は幾分表情を和らげた。二人の子も警戒心を解いたのか、わずかにはにかんだ。
「お子様の名前は?」
「敏と綜と申します。挨拶なさい」
羽陽に言われて、二人の男児は丁寧に頭を下げた。
『気丈な子供達だ』
まだ幼い子供だが、きっと自分達の境遇については理解できる年頃ではあろう。それなのに泣くことも喚くこともなく、母の傍を離れまいとして必死になっている。その健気さに楽乗は心打たれた。
『この方たちは守らねばならない』
楽玄紹に羽陽達の保護を言上しようと思っていると、胡演が帰ってきた。それだけではなく、楽玄紹も姿を見せたのである。
「おお、よくぞ捕らえた」
楽玄紹は怜悧な視線を羽陽に送った。楽乗は胸騒ぎがした。
「さて、乗よ。この者達をどうすべきかな?楽氏にとっては後顧の憂いを絶つべく、処刑すべきではないかな?」
楽乗は密かに焦った。楽玄紹の性格からして本心で言っているとは思えなかった。だとすれば、自分が何事か試されているのかもしれないが、何が正解なのか分からなかったので楽乗は本心で応えた。
「玄紹様、お待ちください。羽達は衆望された英傑であり、羽則は敵ながら名臣として名を馳せた人物です。その一族の命を奪うことに利などなく、寧ろ我らの偏狭さを表すことになるのではないでしょうか。もはや羽氏は風前の灯であり、いずれ楽氏が翼国の政治を担うことになりましょう。その時に我らが示すのは憎しみではなく、寛容であるべきだと愚考いたします」
このことで叱責されるのなら甘んじて受けよう。拒否されたならば、我が功績にかえて羽陽達を助けよう。楽乗が腹を括って言うと、楽玄紹は破顔して手を打った。
「よくぞ申した!流石は乗である。よろしい、この方達のことは乗に任せる。不利益にならぬよう保護するように」
「はい。おおせのままに」
楽乗は頭を下げた。楽玄紹が満足そうに頷くと、前線の督促に向かった。
「乗様、ありがとうございます」
羽陽は涙を流して楽乗に礼を述べた。子供達も母に倣って頭を垂れた。
「ひとまずは私の天幕でお過ごしください。以後のことは許斗に帰ってからになりますが、決して不自由はさせませんで」
「感謝いたします。すべて、乗様にお任せいたします」
許斗に近くに封土があるので、そこに住んでもらおうと楽乗は考えていた。羽陽とその子供を保護したことが、後々楽乗の運命に大きく関わってくるのだが、そのようなことなど楽乗も羽陽達も知る由もなかった。
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