蜉蝣の国~43~
樹弘と別れて嶺門に到着した紅蘭は、なんとか李志望を動かそうとしたが、李志望が行ったのは嶺門の防備を固めて偵察隊を出す程度であった。そのことに失望した紅蘭は、ただ座視しているだけではなかった。
『嶺門に拘らず、もっと南へと軍を押し出して防衛拠点を作るべきだ。いや、積極的に軍を発して伊賛を打倒すべきだ』
紅蘭は、顔見知りとなった嶺門の将兵にそう説いたが、誰一人として同調する者はいなかった。李志望と同様に伊賛の謀反に懐疑的で消極的であった。
『武人というのはいざという時には頼りにならない』
これほど歯痒いことはなかった。武人というものは、政治に対して鈍感なのかもしれなかった。あるいは武人というのはそれほちょうどいいのかもしれないが、時としてこの政治への鈍感さこそが命取りになるかもしれなかったのだ。
『樹弘、早く来てくれ!』
こうなれば樹弘が伯淳を救出していち早く嶺門に辿り着くのを待つしかなかった。だが、紅蘭の気質として黙って待っているわけにはいかなかったので、何かできないかと思案顔で嶺門を徘徊していると、
「ひょっとして紅蘭様ではありませんか?」
と声をかけられた。身なりのいい老人であり、その風貌に知己の面影があった。
「明鮮か……」
かつて紅蘭の父が経営していた商店の番頭であった。その優しく人懐こい人柄は鮮明に覚えていた。
「やはり紅蘭様でしたか。お懐かしゅうございます。まさかこんな所でお目にかかれるとは……」
「明鮮こそどうしてここに?」
「実は嶺門でも商売をしておりまして。まぁ積もる話もございましょう。ささ、拙宅にお越しください」
紅蘭は促されるまま明鮮の家に足を向けた。
明鮮の商店は嶺門にはずれにあった。それほど大きくない店構えだが、店の中は活気に満ちていて、紅蘭が店主の客だと知ると気のよい挨拶をかけてきた。
店の奥に通されて一息つくと、話は自然と両親のことに及んだ。
「父と母は生きているのか?」
「左様でございます。泉国の真主が桃厘に入城すると、相家に出入りしていたことを問責されると思い、桃厘を脱出したのです。尤も、真主はそのような真似をなさりませんでしたが」
「要するに早とちりで店を畳んだのか」
紅蘭は苦笑するしかなかった。
「お父上は私に泉国での商売を譲り、ご自身は印国に渡り、そこでかつての伝手を頼ってご商売をしております」
紅蘭の父は、伯国、静国、印国と幅広く商売していた。そのことが役に立ったわけである。
「たくましいな、父は」
この瞬間、紅蘭の中にあった父への蟠りが氷解した。何事かすっきりとした感じがした。
「それよりも紅蘭様はどうして嶺門に?」
「そのことなんだが……」
紅蘭はこれまでのことを包み隠さず話した。明鮮は表情一つ変えず最後まで黙って聞いてくれた。
「左様でございましたか。随分と様々な事を経験されたようですな」
「私のことはいい。それよりも主上のことだ。いや、それだけではない。嶺門も戦に巻き込まれる」
紅蘭は危機を必死に訴えたが、途中ではっと気づいた。明鮮は泉国を拠点としている商人である。伯国は商売先かもしれないが、現政治体制が崩れたとしても一時的混乱で影響を受ける程度であろう。どこまで明鮮が真剣にこのことについて考えてくれるか。
それに商人は利を求める。明鮮にとって伯淳を助けることに利があるとは思えなかった。紅蘭は不安になってきた。
「よろしゅうございます。可能な限りなんとか致しましょう」
明鮮の答えは紅蘭には意外であった。
「いいのか?」
「紅蘭様。商人とは利を求めるものです。紅蘭様はそのような姿勢がお嫌いだったのでしょう?」
図星であった。利を求めるという行為が利己的で卑しいものだと思っていた。
「人が生きる以上、利を求めねばなりません。そうでなければ生きては参れません。しかし、利とは何でしょうか?単に金銭を得るだけでしょうか?」
私は違うと思います、と明鮮は穏やかさの中に厳しい眼差しを見せた。
「私は伯国を、主上をお助けすることで利を得ようと思っています。それは後々、伯国での商売が有利になるためという打算もありますし、伯国が乱れれば商売がやり難くなるというのもあります。しかし、私にとってはそれだけでありません。商人としてこれまで稼いだ利を何かしらの形で還元することも肝要であると考えております。それがいずれまた新たな利を生むというのが商いなのです」
目から鱗とはこのことであった。紅蘭は裕福な家に生まれ、そのことに反感を持つようにして家を飛び出した。商人という存在に卑しさすら感じていたのだが、明鮮が示した商人としての在り様は、紅蘭が目指していたものとそれほど変わらぬのではなかろうかと思えるようになった。
『商人であっても、人民のために成し得ることがある』
紅蘭は新たな可能性に興奮すら感じた。しかし、今はそのことは脇に置いておくしかない。
「とりあえず主上を保護いたしましょう。心あるほかの商人にも声をかけましょう」
言うや否や明鮮はさっそく立ち上がった。
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