蜉蝣の国~44~
「それで嶺門の近郊で商人達の力を借りて情報を収集していたんだ。武人達は付和雷同しているけど、商人や庶民達は主上に同情的だ。でも……」
紅蘭は寝台に寝かされている伯淳を見た。伯淳はまだ昏睡している状態であった。時折呻き声をあげることはあったが、意思疎通はできそうにもなかった。
紅蘭の手引きで明鮮の支店に伯淳達を匿い、伯淳を医師に見せることができた。医師は丹念に伯淳の体を調べてくれたが、腕を組んで首をひねるだけであった。
「全身を打って骨が折れている箇所があります。目を覚まされないのは、頭を打ったからかもしれません」
医師はそう結論付けるしかないようであった。骨折している箇所に当て木を施すと退散していった。
「明日の朝、嶺門に向かう商隊があるから、それに主上を紛れ込ませましょう」
紅蘭は段取りを説明した。
「ならば私が先に嶺門に行こう。私が語れば李将軍も事の重大さに気づくだろう。主上の御身は夏弘殿にお任せしたい」
「分かった。敏達殿、お気をつけて」
敏達は一礼すると早速退出していった。敏達が上手くやってくれれば李志望が迎えを差し向けてくれるだろう。
「全道とやらが追っ手を追い返したらしいが、いずれ衛環から来るであろう軍勢を見れば日和るかもしれない。今後の戦略のためにもこの邑は重要な拠点になる。やはり全道にも協力を頼むべきじゃないのか」
紅蘭は提案した。樹弘は全道を信頼できないと言ったが、今後のことも考えると仲間となる武人は多い方がいい。嶺門だけで篭城して伊賛の軍勢と戦うのはとてつもなく危険に思えた。
「確かにそのとおりだが、今は嶺門に急ぐことを考えよう。伊賛は泉国に使者を出して泉国軍を迎えるつもりでいる。そうなると嶺門が戦場になるのはそう遠くない」
樹弘は断定するように言った。
状況は樹弘が想像していたとおりになりつつあった。伊賛は伯淳が衛環から逃げ出すと追っ手を差し向けるだけではなく、討伐軍も編成した。
『伯淳は国主でありながらも泉公に国を売ろうとした。これを擁する李志望共々討伐する』
伊賛は朝堂に居並ぶ閣僚、将軍に対してそう宣告した。これに反対する者がいなかったというのは、伊賛の権勢への恐れが伯淳という幼い国主への忠誠心を上回ったということに他ならなかった。
だが、居並ぶ閣僚、将軍も、まさかすでに伊賛が泉公に使者を出し、伊賛こそが伯国を売ろうとしていることを知らなかった。伊賛は矛盾した二つのことをなそうとしていた。政治的魔術であり、伊賛はこの魔術を成功させる自信があった。
『閣僚、将軍どもに私に反するような度胸はあるまい。泉公も労せず伯国を手に入れるのなら謀略に乗ろう』
伊賛は全軍をもって嶺門を攻めようとしていた。その先遣が全道の守衛する邑に近づきつつあった。
「どうにも外が騒がしいです」
深夜、紅蘭達は明鮮の店の者に起こされた。紅蘭達は払暁には出発するため仮眠をしており、店の者が代わりに見張りをしてくれていた。
「僕が様子を見てこよう。みんなはすぐに出立できるようにしてくれ」
「いや、私が見に行くよ。夏弘は主上の傍にいた方がいい」
紅蘭は樹弘を制すると外套を羽織って外に出た。
外は確かに騒がしかった。邑の至る所に松明が掲げられ、武装した兵士が行き交っていた。
「全道が伊賛と対決することを選んだか、それとも……」
どちらかはっきりせねばと思い、そこらの兵士を捉まえて聞き出そうとした矢先、逆に肩を叩かれた。
「やっぱり紅蘭か……」
「牛紀……」
振り向くと革の鎧に槍を手にした牛紀が立っていた。いかにも取ってつけた雑兵といった感じであった。
「紅蘭も騒動を感じて伯に来たのか?やっぱり血が騒ぐだろう」
童子のように顔を紅潮させる牛紀。紅蘭は全力で牛紀の言を否定したかったが、何事が起こったか聞き出すにはちょうどよかった。
「何が起こっているんだ?」
「伊賛丞相が国を売ろうとした国主と李志望将軍を討とうとしている。ここの全道様は、最初丞相の要請を断ったが、やはり同調されることとなった」
紅蘭は愕然とした。樹弘の懸念が的中したことになる。
「戦争だ、戦争!これで手柄を立てれば、俺だって将軍になれるかな」
浮かれる牛紀の発言を紅蘭はまるで聞いていなかった。ただ早く戻って樹弘に伝えたかった。 「なぁ、紅蘭。俺と夫婦にならないか?伯で士官にでもなれば、家族を持って生活ができる」
「うるさい!」
牛紀が肩に手を置こうとしてきたので、紅蘭はその手を払った。
「あの時と変わってないな、牛紀。お前は単に騒ぎたいだけなんだ。私もそうだった……。けど、今は違う!」
「紅蘭……」
「馬鹿が起こそうとしている馬鹿な戦争のために無辜の民が巻き込まれようとしている。私はそれを許したくない。片棒を担ごうとするお前もだ」
紅蘭は啖呵を切ると踵を返して走り出した。牛紀なんて構っている場合ではなかった。牛紀は呆気に取られているだろうか。紅蘭はそれを確かめようとも思わなかった。
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