蜉蝣の国~24~
結局、樹弘達は夜のうちに嶺門にたどり着くことができず野外で一夜を明かすことになった。翌朝、太陽がまだ昇りきらぬうちに起き、ようやく嶺門を見ることができた。
嶺門という邑は東西を険峻な山塊に囲まれ、南北には平原をもつという地形的環境にあった。そのため東西に大軍を駐留させることができず、南方に巨大な城門が築かれていた。
『天然の要害だな』
相房の乱を通じて、樹弘も多少は戦術眼が磨かれていた。険峻な岩山を東西がある以上、南北からしか敵は攻めることができない。上手い場所に城砦を築いたものだと樹弘は感心していた。同時に嶺門の弱点も見抜いていた。
『南北の街道を押さえられたら嶺門はあっという間に干上がってしまう』
樹弘としては今でも伯国を攻めるつもりはない。しかし、樹弘が望まなくても軍事衝突が起こってしまうというのは、相房の乱の時に痛いほど経験していた。
今回の場合、樹弘が首を縦に振らない限り泉国の軍が伯国を侵すことはない。だが、伯国が破れかぶれに泉国を攻めてきたのなら、樹弘としても一軍を差し向けなければならない。そうなった時、泉国としては少なくとも嶺門を取る必要が出てくる。樹弘はすでにそこまでのことを考えていた。
そのようなこと今の樹弘が考えるようなことではなく、ましてや戦争の回避という視点からはま真逆の発想であった。樹弘としては己の業の深さを思わざるを得なかった。
「どうしたんだ、夏弘。難しい顔をして」
紅蘭が顔を覗き込んできた。
「いや、人間というのは品性が卑しくなるととことん卑しくなるもんだなと思ったんだ」
紅蘭は不思議そうな顔をしたが、それ以上は問うてこなかった。一行は嶺門の城門を潜った。
樹弘達は嶺門の官舎まで案内された。樹弘としては嶺門に入ったところで彼らと別れて自由な行動をしたかったのだが、李炎がそれを許さなかった。
「夏弘殿は、主上を救っていただいた恩人。礼を持ってもてなさなければ、私が兄に怒られます」
「兄?」
「嶺門を守っている李志望です」
その名前は田碧の話にも出てきていた。丞相である伊賛と共に伯淳を擁立した将軍である。
『またしても大物だな』
伯国の国情を探るには、伯淳よりも李志望の方が的確かもしれない。
その李志望は待ちきれなかったのか、官舎の門前で主上一行を迎えた。文可達を思い起こされるような大男であった。
「おお!主上!ご無事でしたか!」
李志望は巨体を揺らし、馬車から降りてくる伯淳の傍に駆け寄り跪いた。伯淳はやや怯えの色を見せつつも、小さく頷いた。
「兄上、申し訳ありません。私が未熟であるが故、到着の刻限が送れ、主上を危険な目に遭わせてしまいました」
李炎は伯淳一行が賊に襲われたことを語った。李志望は眉ひとつ動かさず聞いていた。
「幸い、そこのいる者が助けてくれました。特に青年は相当な剣の使い手のようです」
李志望の視線が樹弘達に移った。品定めするようにして樹弘をじっと見た李志望であったが、すぐに視線をはずした。
「そうか。礼をさせてもらう故、しばらくゆっくりしていくがよかろう。炎、お二人を案内して差し上げろ」
李志望はそれだけ言って、自らは伯淳を伴って官舎の中に消えていった。侍従達がそれに続き、その中に居た柳祝が振り向いて頭を下げた。
「それでは案内いたします。田舎ですので、大したところではありませんが……」
李炎が案内してくれたのは兵舎の一角であった。客間のようではあったが、街の宿屋の方がましかもしれぬほど飾り気がなく粗末であった。。
「口では大層な礼を言っていたけど、あまり歓迎はされていないのかもな。ちょっとした監禁だ」
紅蘭が窓の外を指差した。建物の玄関先には兵士が見張りに立っていた。
「旅人という話もどこまで信じてもらえているか……。すぐに取り押えられなかったから、ある程度は信頼されているんだろうけど」
「まぁ、前線基地を拝めたんだからよしと言ったところかな。まだちょっとしか見れていないけど、かなりの兵士を集めているな」
紅蘭が言うまでもなく、樹弘も兵士の数の多さは気になっていた。この兵舎にたどり着くまでの往来にも武装した兵士が数多くいた。
「戦争をする気満々といった感じしかしないが、牛紀もここにいるのかな?」
牛紀がいるとすれば、雲札もいるかもしれない。その点についても樹弘は気になっていた。
『無宇と連絡を取れればいいが……』
残念ながら無宇からの連絡はない。彼のことだから、牛紀と雲札を追う一方で樹弘の行方も掴んでいるだろう。樹弘としてはしばらく嶺門に留まるほかなかった。
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