蜉蝣の国~19~

 田碧の宿舎を出た樹弘は、そのまま伯国へ向かおうと思った。紅蘭とは別行動していて、今後も一緒に行動しようとも何とも言っていないので、そのまま桃厘を出ても文句はないだろう。伯国に行けば危険度が増す。女性である紅蘭を連れて歩くよりも一人旅の方が気が楽であった。


 『紅蘭には悪いが、足手まといにもなるしな』


 などと思っていると、道の真ん中で佇んでいる紅蘭を発見した。紅蘭は樹弘の存在には気がついていないらしく、道端の空き地をぼんやりと眺めていた。このまま声を掛けずに立ち去ろるつもりでいたが、どこか寂しげな紅蘭を見ていると、足が自然と紅蘭の方に向いた。


 「どうしたんだ?」


 樹弘の声に反応した紅蘭は、恥ずかしそうに俯くと、樹弘に背を向けた。


 「ここに私の生家があったんだ。桃厘でも有数の富商だったんだけど、真主がここを占領した時に逃げ出したらしい。相家に出入りしていたからな」


 「それは……」


 悪いことをした、とは言えなかった。言えば自分が真主樹弘であるとばれるかもしれないし、そもそも紅蘭の両親が桃厘から逃げたのも樹弘のせいではないだろう。


 「別に気にしていないよ。私はここから飛び出したわけだからな。でも、こうして何もない所を見ていると、寂しくなるな」


 「両親のことは気にならないのか?」


 「薄情のようだが、気にならない。相家に取り入って金銭的に肥えていい思いをしてきた人達が、今になって貧しい思いをしていても、それは因果というものだろう」


 確かに紅蘭の言い様は薄情であった。だが、不思議と紅蘭の薄情さを非難する気にはなれなかった。それは彼女が世情というものを捉え、貧者と向き合おうとしているように思えたからであった。


 「私はね、官吏になりたいんだ」


 紅蘭が唐突に言った。


 「私は金銭的に恵まれた家で生まれた。だから学校へ行けたわけだけど、そのことで私は富める者と貧しい者がいることに気がついた。そして、私は富める者であることが恥ずかしくなり、家を飛び出したんだ。誤解はしないでくれよ。別に私は貧富の差をまったくなくしたいわけじゃない。経済活動が健全であるならば、所有する富に差はでてきるだろう。でも、貧しくとも人が生きていける世の中にはしたいんだ」


 官吏になることで実現させたい、ということだろうか。


 「偽公子の蜂起に参加したのもそのためなのか?」


 「まぁそうだ。実際はお察しのとおりだし、私も浅はかだったんだな」


 紅蘭は苦笑した。


 「昨晩は真主の政治について批判したけど、実は真主の政治は的を射ていると思っているんだ。批判したのは、自分がその輪に入れていないことへの嫉妬だ」


 馬鹿みたいだろ、と紅蘭は自嘲した。照れくさそうに樹弘に背を向けると歩き出した。


 「私は景朱麗様みたいになりたい。いや、不可能なのは分かっているから、せめて朱麗様の下で働いてみたい」


 まさかここで景朱麗の名前が出てくるとは思っていなかったので樹弘は少し驚いた。


 「それも不可能だろうけどな。樹弘が真主の樹弘ならあるいは可能かな?」


 紅蘭が振り返った。本気で言っているのではなく、勿論冗談で言っているようであった。


 「紹介してあげたのは山々だけど、僕は旅を続けないといけないからな」


 紅蘭も冗談と受け取ったのだろう。ふふっと笑った。


 「どこへ行くんだ?」


 「伯国へ」


 樹弘が言うと、紅蘭は睨むように見てきた。きっと牛紀と雲札のことを思い出したのだろう。


 「君も戦争をしにいくのか?」


 「違う。僕は戦争を止めたい。泉国と伯国に戦争が起こるとすれば、それはきっと誤解によるものだ。誰も戦争なんて望んでいないはずだ」


 少なくとも真主である樹弘は伯国との戦争は望んでいない。そうなれば伯国としても侵略の恐怖に慄いて先制攻撃する必要もなくなるのだ。


 「樹君。君は何者なのだ?真主と同姓同名の君が単なる旅人とは思えない。ひょっとして間者か何かなのか?」


 流石に真主であるとは断定してこなかった。だが、やはり単なる旅人とも思ってもらえなくなっていた。


 「詳しくは言えないけど、間者ではないかな。でも、僕は泉国のために働いている。僕には守らないければならない人が沢山いるからね」


 沢山の人とは当然泉国の人達のことである。いや、今となって泉国の人達だけではない。伯国の人達も樹弘は守らねばならぬと思うようになっていた。


 「ならば私も行く。今更拒否するなよ」


 「嫌だと言ってもついてくるんだろう?」


 「分かっているじゃないか」


 紅蘭はからからと笑った。ついさっきまで紅蘭を置いていこうと考えていた樹弘であったが、多少気が変わっていた。紅蘭の政治に対する情熱が単なる熱病のようなものではないと分かって、少しでも彼女の情熱に応えてやりたいと思うようになったのだ。


 「だけど危険な所へ行くことになる。その覚悟はしておいて欲しい」


 「ああ。これでも槍働きをしたことあるんだぜ」


 「本当か?」


 「運んだだけだよ」


 さぁ行こう、と紅蘭が樹弘の肩をたたいた。

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