黄昏の泉~59~
相宗如と翼公の会談は、すでに翼公によって占領されている邑で行われた。さながら敗戦交渉のようであったが、相宗如は臆することなくわずかな随員を連れてやってきた。そのことを会談前に聞いた翼公は、
「肝は座っているようだな。会うのが多少楽しみである」
と胡旦という重臣に感想を漏らした。翼公と胡旦は幼年からの付き合いであり、翼公が一時翼国から追われて放浪の旅をしていた時もずっと付き従ってきた側近中の側近であった。
「左様でありましょうが、賢明とも言えません」
胡旦という男は自己に対して厳粛であるがために他者に対しても厳しかった。翼公も度々胡旦から手厳しい言葉を受けてきていた。
「そうだな。時間稼ぎのつもりかもしれんが、この短い時間の間でどのような手が打てるというのだ」
「主上であるならどうされますか?」
「決まっておろう。逃げるよ」
翼公はかかっと笑った。
会談は野外で行われた。翼公は一国の国主であるため相宗如は当然下座に着いた。しかし、相手が国主であるからと卑屈なところは見せず、対等であらんとする意気込みのようなものは感じられた。
「こうして翼公自ら会談を申し出てきたのですから、私に何か言いたいことがおわりなのでしょう。率直にお聞かせいただきたい」
相宗如は挨拶もなくいきなり切り出した。あくまでも翼公は敵であり、弱気を見せてはならないという相宗如の強い意思の表れの様でもあった。しかし、このことは翼公を嚇怒させ失望させた。
『無礼であろう』
翼公は声高に叫びたかった。相手は中原の英雄義舜を助けた初代翼公が打ち立てた国の真主である。謀反によって真主を倒した仮主の子息ごときが対等に離せる相手ではないのである。たとえ相手が敵であっても、そういう礼を取るのがあるべき姿ではないのだろうか。長年に渡り諸国をさすらってきた翼公だからこそ感じえる憤りであった。
『所詮はその程度の男であったか……』
翼公は密かに失望しながらも怒りを抑えた。しばらくは相宗如のとの問答に付き合ってやろうと意地悪な気持ちになった。
「ならば率直に言おう。余が与力するが故、軍を南へ向けてはどうか?相公も樹弘とかいう真主の登場で手を焼いておる。泉春を得るのは難しくはなかろう」
翼公が何を言わんとしているのか、相宗如はすぐに悟ったようであった。顔を真っ赤にしたということは、翼公の申し出に直情的な怒りを感じているようであった。
「怒ることはなかろう。余達に攻め込まれても、父も兄も援軍も寄越さぬ。そのような家族に情など感じることなどないではないか。むしろ、ここで余の意向に従うことこそ、お前が生き残る唯一の道であろう」
そうではないか、と翼公が念を押しても相宗如は怒りの色を消さなかった。このことも翼公を失望させた。
『私のために公を犠牲にするつもりか……』
翼公はあえて意地の悪い言い方をしたが、要するに相宗如が抱えている将兵の命を少しでも生かすのなら、翼公の意向に従う他にないのだった。たとえそれが親兄弟に背くという汚名を背負ったとしても、ひとりでも多くの兵卒を死地に赴かすことを避けられるのなら甘んじて受け入れるのが人の上に立つものであろう。そういう信念を持っている翼公からすれば、相宗如の直情と決断はあまりにも幼く思えた。
「主上や丞相に信任され泉国を守っている。その期待を裏切るわけにはいかないし、他国を侵略する無道を見過ごすこともできない」
相宗如は努めて冷静に言った。他国を侵略する無道とは紛れもなく翼公のことである。翼公はこの言葉に対して怒らず嘲笑した。
「面白いことを言う。真主である泉弁を謀殺し、自ら国主に収まった男の倅が言うことか」
相宗如は黙り込んだ。自らの発言の矛盾をどうしようもない、という沈黙であった。
「宗如よ。正義感ぶるのいい。余も自分が正義の仁者であるとは思っていない。そこまで傲慢ではないよ。しかし、信念と言動が伴わなければ、自らの命だけではなく、多くの者にとって悲劇しか生まぬ。人の上に立つというのはそういうことだ」
回答は一ヶ月待ってやる、と言って翼公は席を立った。
会談を終えた翼公は一部守備隊を残し撤退することを命じた。一ヵ月後、また大軍を持って泉国を侵すつもりであった。
「いかがでしたか、相宗如は?」
その帰路、翼公の馬車に同乗している胡旦が尋ねた。
「一軍の将にはなれても一国の主にはなれん男だ」
「一ヶ月の回答猶予はそのためですか……」
流石に五十年以上、付き合いのある胡旦である。翼公の考えなどお見通しであった。
翼公からすれば、もし相宗如が一国の主に相応しい男であったのなら、翼公はあらゆる手を使って相宗如を抱き込み、すぐにでも軍を南下させ泉春に襲い掛かったであろう。しかし、そうではないと判断したため、さらに仕掛けることにした。
「間者を使って泉春に今回の会談のことを知らせてやれ」
早速に、と胡旦は言ったが、もうすでに手配しているだろう。
『さてさて、暗愚の相はどう動くか……』
泉春の相房と相史博がどういう手を打つか。それが翼公には楽しみであった。彼らは相宗如と翼公の会談に疑念を疑い軍を差し向けるかどうか。不確定な予断であったが、翼公はそのようになると考えていた。
『宗如と史博が争えば漁夫の利も得られよう』
翼公はほくそ笑んだ。まだこの時は、泉国の真主となった樹弘の存在をそれほど重く見ていなかった。
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