黄昏の泉~52~

 樹弘軍は守備兵を残した全軍をもって桃厘を出発した。その数は五千名。


 『兵数の増加に伴い、指揮官が不足しています。ですから、朱麗姉さんにも一軍を率いて欲しいのです』


 甲朱関はそう言って景朱麗を樹弘から一時的に引き離した。景朱麗は嫌そうな顔をしたが、指揮官が不足しているの事実なので、彼女も渋々認めた。


 「朱麗さん、最後まで文句を言ってましたよ」


 「今回の件は、朱麗姉さんがいるとなにかとやりにくいですからね。まぁ、後で結果を知れば、蚊帳の外にされたと激怒されそうですが、その時は主上が責任もって宥めてください」


 「責任重大だな」


 あるいは相蓮子に投降すうように説得するよりも難しいように思えた。


 樹弘軍は貴輝を目指して進軍した。会敵の懸念はあったが、敵の姿は見ることなく、貴輝まで二舎という地点まで到達した。


 「ここで大休止を行い、桃厘からの補給を待つ」


 甲朱関からそのような命令が発せられた。ここで一日あまり進軍を停止し、桃厘からの補給部隊を待って貴輝を攻略する体勢を整えることになる。その一方で甲朱関の提案によって降伏を勧告する使者を出すことにした。正使は景蒼葉であり、その従者の中に樹弘が紛れ込んでいた。正使による降伏勧告は多分に礼儀的なものであり、本当の狙いは樹弘が直接相蓮子に接触することであった。


 「降伏勧告の使者を出すだけでも姉さんは難色示したのに、主上がその随員に加わっていると知ったら卒倒するでしょうね」


 景蒼葉は馬車に揺られながら苦笑した。彼女には甲朱関に相談した後、すべて打ちあけて協力を求めた。景蒼葉は、樹広の考えを全面的に支持し、今回の作戦を思いついたのであった。


 『主上が蓮子を説くには密かに直接会う必要があります。随員に化けて蓮子に主上が直接会いに来たと悟らせるのです』


 景蒼葉がそのように説明したので、樹弘は、


 『僕が正使となって行けばいいんじゃないんですか?』


 と言うと、景蒼葉は首を振った。


 『あの蓮子が正面きって降伏を申し入れても承諾しないでしょう。部下達への対面もありますから、会うことも難しいかもしれません。最悪の場合は、無宇と共に貴輝に忍び込んでいただく必要があります』


 自分が言い出したことなので樹弘としては受け入れるしかなかった。


 「迷惑かけるね、蒼葉。でも、やるからには成功させよう」


 「当然です、主上。相房に組しているとはいえ、兵士達は同じ泉国の民です。流される血は最低限に留めましょう。勿論、相蓮子も含めてです」


 景蒼葉は樹広の気持ちを理解してくれた。そういう点では景朱麗よりも頼りにすることができた。




 貴輝にいる相蓮子は悩んでいた。真主を名乗る少年が奉戴した反乱軍が迫ってきている。これに対して篭城するか、それとも野戦で打って出るか。どちらを取るべきか判断できずにいた。


 『史博は援軍を寄越すまい……』


 相蓮子も甲朱関と同じ予測をしていた。もとより援軍に頼ろうとも思っていなかった。そうなれば篭城するよりも外で決戦するしかない。しかし、相蓮子には別の懸念があった。


 『真主を名乗っている少年は樹弘という。あの樹弘なら侮れない』


 相蓮子の中では、泉春であった樹弘少年と真主を名乗る樹弘が一致していない。しかし、同一人物であると考えれば容易い相手ではない。こちらが居場所を教えたとはいえ、あっさりと景秀を救出したのである。知恵も勇気も兼ね備えていると言っていい。そういう少年が大将とする軍勢が脆弱であるとは思えなかった。


 悩む相蓮子のもとに樹弘軍から降伏を勧告する使者が現れたという知らせが届けられた。


 『降伏だと!』


 武人としての矜持から一瞬かっとなった相蓮子であったが、すぐに冷静になって考えた。降伏など論外であったが、少なくとも時間稼ぎにはなる。それにどういう面子がやって来たのか興味もあった。


 「会おう」


 相蓮子はこれについては即断した。


 使者との会見は貴輝から少し離れた集落で行なわれることになった。指定された民家に入ると、青い髪の少女が座っていた。特徴的な髪の色は、相蓮子の知る限り一人しかいなかった。


 「景蒼葉だな。これは大物じゃないか」


 「それはどうも。うちの姉さんだったら喧嘩になるでしょう」


 景蒼葉は臆することなく平然としていた。


 「それもそうだ。しかし、どちらにしろ降伏などしないぞ」


 「儀礼的なものです。我が主上からの書状を受け取ってくださいな」


 景蒼葉が手を叩くと、ひとりの少年が入ってきた。その顔を見て相蓮子は息を呑んだ。書状を差し出してきた少年こそが、相蓮子の知る樹弘少年であった。

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