黄昏の泉〜51〜
相季瑞軍を破った樹弘は一度桃厘へと帰還した。相季瑞軍を地上から消滅させたことで、樹弘軍としては真正面から相蓮子と戦うことができた。しかし、どう戦うべきか、方針は決していなかった。
「貴輝周辺で相蓮子が動員できる兵力は五千程度と思われます。これに対して我らも同数の兵力を動員できることが可能になりました。野での決戦となれば我らにも十分勝機がありますが、貴輝に篭城されては厄介です」
甲朱関が現状を説明した。篭城する敵を相手するには三倍の兵力が必要となってくる。樹弘軍の現状ではそれまでの動員はどう考えても不可能であった。
「蓮子は直情的な人物ですが、戦については手堅い。篭城しつつ、泉春からの援軍を待つでしょう。そうなれば敵の数は我らを上回り不利となります。要するに我等が勝つには早々に相蓮子を貴輝から引きずり出し、野戦において勝利を収めるしかありません」
甲朱関の分析に聞いている者達のため息が漏れた。相季瑞には快勝したが、実際には樹弘軍は危うい薄氷の上に立っていた。
樹弘の懸念は別のところにあった。しかし、そのことを朝議の場で言うのは憚られた。
「兎も角、今は情報を集めるとしましょう。その間に兵力も増やせるでしょうし、泉春から援軍があっても時間はかかりましょう」
よろしいですかな、と甲元亀が尋ねてきたので樹弘は頷いた。
朝議が散会となり、参加者達が次々と出て行く中、樹弘は甲朱関に声をかけた。
「朱関。後で僕の部屋に来てください」
自分だけ呼ばれた甲朱関は意外そうな顔をしたが、すぐに承知しましたと応じた。
樹弘が私室に入ってしばらくしてから甲朱関が訪ねてきた。
「朱麗姉さんや蒼葉はいないんですね」
甲朱関は部屋を見渡した。部屋には樹弘と甲朱関しかいない。
「朱関しか呼んでいない。正直、朱麗さんには相談しにくいことなんだ」
「ほう。お聞きしましょう」
甲朱関が樹弘の正面に座った。
「正直に言うと、できれば相蓮子とは戦いたくない」
樹弘は甲朱関の顔色を窺ったが、甲朱関は驚く様子もなかったが、声を発することもなかった。
「相蓮子には借りがある。朱麗さんのことを見逃してくれたし、景秀様の居場所も教えてくれた。僕にとっては恩義こそあれ、恨みがない」
だから戦えないという理屈は、泉国の真主として失格であろう。そう思ったからこそ、甲朱関に個人的に相談したのであった。
「主上。お言葉を返すようですが、主上が国主となるためにはいずれ相蓮子と戦わないといけません」
「分かっている。だから、彼女を死なせたくないというべきかな……」
「ふむ……」
甲朱関は曖昧に頷きながら、その裏では思考を巡らせていた。
『主上のお気持ちは別として、相蓮子を味方にできればこれは大きい』
冷静に考えれば、泉春からの援軍云々は別として、貴輝を落とすには一年はかかるだろう。そこからさらに計算すれば、泉春に至るには後五年の歳月は必要となるだろうか。
『しかし、相蓮子のかかえる兵力が丸々主上の下に収まれば、一年で泉春に至るかもしれない』
単に相蓮子の軍勢だけではない。相蓮子が許されたとなれば、他の相房の将兵達も戦わずして降るかもしれない。
『ひとつ大きな賭けだがやってみる価値はあるか』
旋回し続けた甲朱関の頭脳がそのように結論をだした。
「主上。先の朝議では泉春からの援軍があるかもしれないと申しあげましたが、おそらくは援軍は来ないでしょう」
「その心は?」
「現在、実権を握っているのは相史博です。相史博は相蓮子のことを目の敵にしていますから、援軍を拒絶するか、出したとしてもその数は知れているでしょう」
それに各地での小規模な民衆の反乱も鎮圧できていない。相蓮子のために割く兵力はないと見るべきであろう。先の朝議では楽観論が先行してはまずいと思ったので、甲朱関はあえて悲観的な意見を述べたのであった。
「そうなれば我らは単独で相蓮子の軍に挑むことができます。そして、それこそが相蓮子との戦いを避ける最大の好機でもあります」
樹弘が顔を顰めた。分からぬ、という表情である。
「単純なことです。相蓮子に投降を勧告するのです」
「確かに単純なことだけど、僕はあの相蓮子が簡単に投降するとは思えない」
「勿論です。だからこそ、主上に説いていただく必要があります。それが失敗すれば、相蓮子とは戦わざるを得なくなります。そのお覚悟があるのならば、この朱関、知恵を絞って主上をお助けいたします」
詳細を教えて欲しい、と樹弘は言った。その決断の速さと、あくまでも戦いを避ける樹弘の姿勢に、甲朱関は好ましさを感じていた。
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