黄昏の泉~49~
桃厘を制圧した樹弘は、自らが泉国の真主であることを宣言した。その効果は覿面であり、尚且つその延臣として控える人物の名前を見れば、心ある泉国の民が桃厘に集まってくるのは必然であった。兵士として志願する者も後を絶たず、その数は三千名近くに及んでいた。桃厘の人口が急激に増えたわけであり、住まいや食料の欠乏が心配されたが、その問題に対して素早く対処したのは景朱麗であった。
景朱麗は桃厘に入るなり行政組織を整え、食料の確保と住居の建築を始めた。それだけではなく自警団を作り、街の治安維持に努めた。これにより人口が急激に増えた桃厘では大きな混乱はなく、泉国で戦う際の拠点作りに成功した。景朱麗の手腕は見事と言わざるを得なかった。
『朱麗さんには後方でしっかりと僕達を支援して欲しい』
樹弘は今後のことを考えて、景朱麗にそう言ったことがあった。景朱麗は、はいと応じたものの、どこから不満そうなのを樹弘は見逃さず、気がかりになっていた。
古沃における蜂起成功の知らせは無宇によって桃厘にもたらされた。それに遅れること数日、田参田員親子が桃厘を訪れ、樹弘に拝謁した。
「真主であったことを知らずとはいえ、主上に剣を向けましたことについては弁解の余地なく、万死に値します。いかような罰をも受ける所存でございます」
田参は諸肌を脱いで樹弘に対して膝を突いた。
「田参。衣を着て頭を上げてください。あなたに罪があったとしても、今回の古沃の件で帳消しとしましょう。今後は田員、田碧と力を合わせて泉国のために尽くして欲しい」
ありがたき幸せ、と田参は衣を直した。僅かに落涙しているの見て、もう変心はしないだろうと樹弘は思った。
「田員もご苦労でした。長きの渡る潜伏と今回の成功。すべてはあなたの努力によるものだ。礼を言います」
「主上……。勿体無いお言葉です。これからも粉骨砕身、主上と泉国のために身を捧げます」
田員は憚らず滝のように涙を流した。その姿に田碧も瞳を拭っていた。
「さて、主上。これからのことです。田員の情報によれば、相季瑞は兵を集めて古沃を奪還しようとしているようです。まずはこれを討ちましょう」
甲朱関が進言してきた。樹弘は異論がなかったので、力強く頷いた。これは当初からの計画通りである。
「田参は古沃に戻り守備についていただく。相季瑞を討伐する軍容は文可達と田員を将軍として、主上にもご出馬いただく」
「私が将軍ですか?」
甲朱関が発表すると、田員が驚きの声を上げた。
「古沃における兵の指揮は見事だったと聞きます。二百の兵を預けますので、存分に働いてください」
樹弘がそう声をかけると、田員は乾いたばかりの瞳を再び濡らした。
「これに伴い、甲朱関は軍師として、景蒼葉は書記官、景黄鈴は衛兵長として帯同してもらいます」
樹弘が言うと、三人が順々に承諾の証として叩頭した。
「景朱麗は桃厘に残り、ここの守備と拠点作りをお願いします」
「はい……」
景朱麗も応じたが、その表情はどこか暗かった。この人事は事前に決めていたことであるが、その時も景朱麗は納得した様子がなかった。
「主上。朱麗様はお連れください。何かと占領地で政治的な案件も発生するでしょう。それらにつきましては朱麗様に諮問なさってください」
と進言したのは甲元亀であった。
「桃厘の守備はどうするのです」
「それにつきましては某にお任せください。不肖甲元亀、こう見ても昔は槍働きをしたものです」
樹弘はちらっと甲朱関を見た。甲朱関はやや呆れた表情でわずかに頷いた。
「では、景朱麗も一緒にきてもらいます。桃厘の守備は元亀様、お願いいたします」
景朱麗は急に元気になって、はいと応じた。
義王朝五四二年、三月十九日。樹弘軍は相季瑞を討伐すべく桃厘を出撃した。
「今のところ相季瑞が貴輝に入った様子はありません。あくまでも古沃を奪還するつもりのようです」
道中、甲朱関が地図を広げて現状を説明した。相季瑞は古沃奪還のために西に向かって進軍しており、対して樹弘達は北上して相季瑞の軍勢を後背もしくは横腹を突ける状況にある。
「まずは田員殿には五十騎の騎兵をもって先行し、敵軍の先頭に出てください。季瑞は敵が出現したと思って、進軍速度を落とすでしょう。その隙に本体が敵軍の後輩に噛み付きます。本体の兵数は三百。斥候の報告では敵軍も同数と推測されますが、奇襲を仕掛けることになるのでこちらの方が優位です」
甲朱関は作戦を説明した。兵力でいえば相季瑞よりも数を集められるが、快速をもって敵に迫らなければならないので兵数を絞ることにした。これも甲朱関が立案した作戦であり、樹弘は何一つ口を差し挟むことはなかった。軍事作戦についてはすべてを甲朱関に任せ、全幅の信頼を置いていた。だが、命じるのは樹弘の仕事である。
「すべては軍師の作戦通りに。田員は騎馬をもって先行し、敵の進軍を鈍らせてください。残りは文可達の指揮に従うように」
以上です、と樹弘が締めくくると、おうと将兵達は声を上げた。
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