黄昏の泉~48~

 古沃における相季瑞は醜態の極みであった。自らの行いが古沃の住民を苦しめ、反感をもたれているとは露知らず、この日の夜も私邸として使っている間庁舎で延臣達を交え酒を酌み交わしていた。相季瑞は、外で騒ぎが起こってもまるで気づかず、兵士が報告に来ても酒を飲むことをやめず家臣の石不に、


 「様子を見て来い」


 と言うだけで、酒を満たした杯を手放すことはなかった。しかし、石不が顔を真っ青にして慌てふためいて戻ってくると、相季瑞は流石に慌てた。


 「季瑞様!謀反でございます!古沃の奴ら、恐れも知らずここを攻めております!」


 「な、何!」


 相季瑞は杯を落とした。家臣達も酔いが冷めた如く狼狽した。


 「ど、どうすればいい!兵士は!兵士どもはどうした!」


 「今は逃げることをお考えください」


 喧騒が近づいているのは明らかであった。石不は腰を抜かしている相季瑞の体を起こし、わずかな家臣達を連れて裏口から脱出した。本来ならば官庁から脱出しても、味方する兵を集めて反撃を試みるものだが、相季瑞は何も考えず古沃からも逃げ去った。このことが彼の生命を助けたことになった。しかし、馬も馬車にも乗らず、徒歩で逃げ出したというから、国主の子息としての外聞などまるでなかった。


 古沃郊外で同じく逃げ去った兵士達が集まってきたが、その数は百名ほどであった。泉春から連れてきた兵数の半分ほどであった。


 「これはどういうことか!」


 相季瑞は顔を真っ赤にして地団太を踏んだが、まさに後の祭りであった。古沃で徴集した兵士達はおろか、忠誠心あると思っていた泉春からの兵士達に裏切られたか、あるいは戦死、負傷したということであろう。


 「季瑞様。ここはまだ危険です。貴輝におられる蓮子様を頼りましょう」


 石不に言われ、相季瑞は覿面に嫌な顔をした。あの妹に頭を下げると思うと、堪らなく不愉快であった。


 「古沃の輩は季瑞様を捜しておられるでしょう。首が胴から離れてからは遅うございます」


 「やむを得ぬか……」


 石不に脅され、相季瑞は貴輝へ向かう決心をした。




 貴輝にいる相蓮子の下に、相季瑞の使者として石不がやってきた。この時相蓮子は、桃厘で反乱が起きたことを知っており、その対処に追われていた。


 『桃厘だけではなく古沃もやられたのか……』


 相蓮子は背筋に冷たいものが走ったのを感じた。二つの集落での反乱は単発が偶然重なったわけではなく、連携して行われたと見るべきであろう。そうなると随分大きな組織が動いていると考えられた。


 『それにして季瑞め。不甲斐ない……』


 古沃に相季瑞が入ったと聞いても、相蓮子は格別感想を抱かなかった。相季瑞にいかほどのことができようかと思っていたし、邪魔さえされなければ構わないぐらいの気持ちでいた。だが、いとも簡単に古沃を失陥したとなると、桃厘と合わせて奪還せねばならず、相蓮子の手間は二倍に増えたことになる。


 「それにしても情けないな。一矢の反撃もなく古沃を明け渡すとは。先の禁軍近衛兵長が聞いて呆れる」


 相蓮子は本音を吐き捨てた。石不は主人をあからさまに侮辱されたことに対して顔を真っ赤にさせた。


 「蓮子様。それはあまりの仰りよう……」


 「そう思うのなら自力で古沃を奪還するか?武人であるならそれぐらいはしてみせろ。私は桃厘の件で忙しい」


 「そ、それは……」


 石不はなんとも情けない声を出した。主人も主人なら家臣も家臣。相蓮子は怒りを通り越し、憐れに思えてきた。


 「二百の兵を貸してやる。それで古沃を奪還するんだな。自ら丞相に請うて古沃に来たんだから、そのぐらいの責任は果せ」


 それが相蓮子が見せた最大限の好意であった。石不は顔を渋くして退くしかなかった。

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