黄昏の泉〜24〜

 樹弘と景朱麗が南へと向かい始めた頃、泉春を出発した景政が貴輝の近郊に到着していた。一度は反乱軍に敗北した相軍であったが、兵は補充されており、貴輝を包囲せんとしていた。


 「この軍勢はどこから湧いてきたのか……」


 少なくとも泉春からはまだ援軍は出ていない。言うなれば、景政が援軍のようなものであった。それなのに、この軍はどこから来たのだろうか。


 その答えはすぐに知れた。紫の地色に金彩で『相』と書かれた軍旗が翻っていた。相蓮子の軍旗である。


 「蓮子様は伯を警戒しているはずでは……」


 景政と同行している長男の景晋が不安そうに周囲を見渡した。


 「泉春からは命令は来ていないはず。勝手に動いたのか……」


 相蓮子ならばやりかねない、と景政が思っていると迎えらしき兵が前を塞いだ。有無を言わさず、景政は相蓮子の本陣に案内された。


 「これはこれは中務卿。遠路遥々ご苦労」


 相蓮子は、玉座かと見間違うような大きな椅子に踏ん反り返っていた。野戦の陣には明らかに不釣合いで、わざわざ持って来させたのかと思うと、景政は驚くよりも呆れるばかりであった。


 「蓮子様……。軍を勝手に動かされると、相公よりお咎めがありますぞ」


 「ご忠告どうも。しかし、陣中にあっては将軍の命令が即ち相公の命令だ」


 若い、しかも女だてらに将軍をやっていれば、その権威と権能を最大限に使ってみたいと思うのだろう。景政はそこに相蓮子の未熟さと危うさを感じた。


 「それはそうと、中務卿の任務は聞き及んでいる。しかし、無駄であったな。私の軍をもって反乱軍は風前の灯というわけだ」


 兵力もさることながら、相蓮子の兵士は精強で知られている。盗賊上がりの反乱軍などでは相手にならぬだろう。


 「しかし、蓮子様。私の策が上手くいけば、兵力を損なわず、反乱軍を消滅させることができます」


 「ふむ……」


 相蓮子は腕を組んで考えた。残忍で好戦的といわれる相蓮子であったが愚鈍ではない。損得勘定ぐらいはできる人物であった。


 「それに私は相公の命令で来ております。その成功にご助力いただければ、蓮子様の株もおあがりになりましょう」


 言葉をもって人を弄するのは景政の得意とするところであった。景家の身でありながら、相公の世の中で生きていられるのもひとえにこの言説によるものであった。


 「なるほどな……で、成功するのか?」 


 「どこまで成功するかどうか分かりませんが、敵を動揺させることは可能でありましょう。そうなれば、後は蓮子様のご随意のままに」


 「ふん。どちらに転んでも美味しいというわけか。よかろう。中務卿に協力しよう。何か必要なことはあるか?」


 「いかなることがあっても、私の合図があるまでは一切兵を動かさないで戴きたいのです。それだけで十分です」


 「分かった。後は中務卿のよろしいように」


 相蓮子はすぐに手配してくれた。物分りと手際の良さは流石というべきであった。


 『これで性格さえまともであれば……』


 継嗣に近づくのに、と景政は密かに思った。




 相蓮子から三百の兵を借りた景政は、その日のうちに貴輝にいる偽公子淡―趙行に密書を送った。


 『公子をお慕い申し、遥々泉春から参りました。現在、相蓮子の陣にて反旗を翻す準備をしております。ぜひ一度お目にかかり、公子から綸旨をいただきたいと思います』


 この密使を受け取った趙行は歓喜した。


 「中務卿景政といえば大物だぞ。景家で相公の重鎮でもある。それが我らに味方すれば百人力ではないか!」


 趙行は甘嬰に密使を見せた。しかし、甘嬰は浮かない顔をしていた。


 「敵の罠であることも考慮しなければなるまい。それに景政ほどの人物なら本物の公子淡の顔を知っておろう」


 「確かにそうだ。しかし、真実であればこの好機を見逃すわけにはいかんだろう」


 甘嬰もそう思わないでもない。だが、何事においても慎重派の甘嬰からすればあまりにも危険な賭けに思えた。その逡巡により答えを先送りにしていると、さらに景政から密書が届いた。


 『一度、我等の前に顔と神器をお見せください。そうすれば相蓮子の陣にいる者達も動揺し、波を打って公子にお味方するでしょう』


 この密書は蠱惑な美酒のようであった。成功すれば、という甘美な酔いが待っていると思うと、ついつい手を出しそうになるそんな妖しげな魅力をはらんでいた。その魅力に趙行は飛びついた。


 「景政の言を信じよう。この状況から逆転するにはそれしかあるまい」


 「確かにそうだが……」


 甘嬰としても今の窮状を脱する方法はそれしかないと思っていた。一度は相房の軍に勝ち勢いを得たが、無尽蔵とも思える相房軍の兵力補強に次第に押され、貴輝を包囲されるまでになっていた。貴輝にはそれなりの食料もあったが、緑山党を加えたことでその消費量は加速度的に減っていった。


 「天運に任すか……」


 「城壁の上ならば景政も見えぬだろう。一介の官吏からここまで来たのだ。それは天運あってのこと。天も早々簡単に我らを見放さんだろう」


 趙行の言葉に甘嬰は頷いた。趙行はその日のうちに景政に密書を送り返した。




 その翌日のことである。貴輝の城壁に猛攻を加えていた相蓮子軍が昼前になって撤退し始めた。それが景政と趙行は示し合わせた合図であった。ここで趙行が城壁に立ち、神器の剣を抜いてみせる。それを契機に景政が反旗を翻すと言うものであった。


 趙行は城壁に立ち、神器に見立てた剣を抜いた。趙行が公子淡として敵に姿を晒したのはこれが初めてであった。


 「聞け!泉家に歯向かう者共よ!今ならその罪は許されるぞ。遅くはないぞ、我が陣営に馳せ参じよ」


 趙行が高らかに声を上げると、相蓮子の軍勢の中から景政が進み出てきた。


 「はははは。偽公子の御尊顔、しっかりと拝見させてもらったわ。皆の者、大いに笑ってやれ。あれこそ偽公子、偽の神器よ」


 相蓮子の軍から嘲笑する笑い声が波にように起こった。同時に偽者、偽物という大合唱が発生した。


 『はめられた!』


 趙行は唇をかみ締めた。同時に自らの破滅を感じた。




 そこから相蓮子軍の猛攻が始まった。貴輝は二日持ち堪えたが、ついに陥落した。旗頭が偽者の公子淡であることが知れ、貴輝から離脱するものが急激に増えたのであった。最後はもはや軍としての体裁を成していなかった。


 貴輝に突入した相蓮子は趙行、甘嬰は捕らえられ、苛烈な拷問の末に打ち首、泉春に送られ晒されたのであった。

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