黄昏の泉~19~

 泉国の国都、泉春。


 泉弁を弑逆し、自ら国主となった相房であったが、国号を変えることもなく、国都を遷すこともなかった。通常、仮主が立った場合、国号は変えなくても国都を遷する、もしくは国都の名前を変えるのが通例であった。しかし、相房は国都の名前すら変えず、自らの住む宮殿である『泉春宮』という名称もそのまま使用していた。このことについてある者は、


 『相房様は心ならずして泉公をお討ちなされたが、いずれ泉家の者に国主の座をお返しなさるのであろう。国都や宮殿の名前を変えられなかったのはその表れだ』


 と相房に思慮遠謀があるように言う。


 『そうではあるまい』


 泉春宮を歩く景政は、そのような思惑を否定した。


 『相房はそこまで思慮のある男ではあるまい。単純に面倒なだけだ』


 相房は武人であった。その周囲に侍る延臣達も武人の出身が多い。遷都といった大事業を運営するほどの人材はおらず、国都の名称を定めるほど故事に通じた才人もいなかった。またそういう人材を積極的に登用することもなかった。それこそが相房という男の限界だと思っていた。


 景政と相房の付き合いは長い。景政は景家の分家として冷遇され、泉国における重要な職には就けず、兵部省の官吏に甘んじていた。その頃、相房は右少将として軍務に精を出していた。今から二十年ほど前のことである。


 職務上、二人は接触する機会が多かった。相房は気さくに景政に話しかけてくるし、景政も何かと辛辣な態度を取ってくる景家の本家よりも相房に親しみを感じていた。だから、相房が泉弁を弑逆して国主となる暴挙に出た時も、沈黙という形でこれを認めた。


 「あれから十五年か……」


 短い十五年であった。本家に代わり、今や景政こそ景家の家頭である。丞相の地位こそ辞退したが、中務卿という重職を与えられ、大過なく過ごしてきた。しかし、ここ数年、泉国を取り巻く状況が劇的に変わってきた。各地で反乱が起こり、公子淡を騙る何者かも決起して相房軍を打ち破ったことは景政も耳にしていた。


 そして今、麦楊で軟禁生活にあった景三姉妹と甲元亀達が脱走したという知らせが入ってきたのである。景政はその弁明のために泉春宮に来たのである。


 『甲元亀もいらぬことを……。すべてが台無しになる』


 景政は心の中で毒づきながら、相房の待つ謁見の間に入った。


 相房は玉座に踏ん反り返って座っていた。でっぷりとした腹である。十五年前はこうではなかった。馬上で兵を叱咤する相房は引き締まった体躯をしていて、男から見ても惚れ惚れとする武人であった。しかし、その面影は今はもうなかった。


 「主上。この度の不始末、恐縮の至りでございます。景家の縁者達は、情け深い主上の温情で生かされながら、それを欺かんばかりの愚行を行いました。すべては身の不始末でございます」


 景政は玉座の載った断の下で深く叩頭した。ここはどんな屈辱を味わっても、穏便に済まさなければならなかった。


 「頭を上げよ、政。余とお前の中ではないか。他人行儀は無用ぞ」


 相房は親しみを感じている者ならば家臣であっても名前で呼ぶ。政、と呼ばれたことから考えても、相房の機嫌は良いらしい。


 「なれど……」


 「脱走したのは甲元亀の咎。政の咎ではあるまい。これまで通り、余のために忠勤せよ」


 景政はほっと胸を撫で下ろした。同時にさらに深く叩頭した。


 「しかし、代わりと言ってはなんだが、政に頼みたいことがある」


 どきりとした。まさか無理難題を吹っ掛けられるのではないだろうか。景政は緊張した。


 「中務の職分とはかけ離れることではあるが、政にしかできんことだ。丞相、説明せい」


 相房は話を振った。丞相は相淵という。相房の弟に当たる。相一族の中で唯一、政治に精通しており、話の分かる相手であった。


 「難しいことではない。卿は貴輝で決起した公子淡をどう思う?」


 「さて……私には本物の公子とは思えないのですが……」


 「我らもそう思っている。しかし、侮れぬ勢力になっている。そこで卿にはご苦労ではあるが、前線に赴いて公子淡が偽者であることを喧伝してきて欲しいのだ」


 なるほど、と景政は思った。公子淡が偽者であると知れれば、貴輝で決起した反乱軍は支柱を失い崩壊するだろう。彼らが寄り集まっているのは、泉弁の公子を旗頭に仰いでいるからに他ならないからであった。そして、公子が偽者であることを喧伝するには確かに景家の一員である景政はうってつけであった。


 「この際、公子が本物か偽者かなどどうでもいいのだ。要は政が偽者だと喧伝すれば、反乱軍の足並みが乱れるということだ」


 相房が付け加えた。


 「お安い御用でございます。臣、喜んで戦地に赴きます」


 寧ろ好都合だと思った。景政にしても貴輝で蜂起した公子淡の存在は邪魔であった。それに甲元亀の件が落ち着くまでは、泉春にいない方がいい。


 「頼もしい限りだ。頼んだぞ、政よ」


 相房が巨体を揺らし立ち上がった。景政は、恭しく叩頭して奥へと消える姿を見送った。

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