第27頁 イリスユニテ
薄っすらと聞こえ始めたセミの声。
俺は眠りが浅くなってきたことを自覚する。
何か、とても幸せな夢を見ていたような気がした。
ほとんど内容が思い出せないそれに、俺はしがみつこうとする。
眠りから覚める恐怖に向き合う自信が無いのだ。
もっと言うと、彼女を失ったという現実を直視する勇気が出ない。
抜け落ちた心の隙間。
そこを通り抜ける全てが、毎秒締め付けるような痛みを伝えてくる。
だから……ずっと目を開けないままで……。
「書森くん……開けるよ?駄目なら言ってくれ」
と、諏訪さんの声がする。
俺が返事を躊躇していると、しばらく沈黙が続いてから部屋の襖が開いた。
「何か食べたかい?」
「……いえ、一応飲み物は軽く……」
のろのろと身体を起こし、彼女のほうを見る。
「突っ伏して寝ていたら、身体に悪いよ。寝るなら布団で寝ないと……」
「あ、ああ……いや……」
少し悲しそうな表情を見せる諏訪さん。
これじゃあ、不貞腐れた小学生だ。
同居を許してくれた彼女に心配かけてどうするんだ。
頭ではそう思うけれど。
心や身体は全くついてきてこなくて。
情けない自分に、改めて自己嫌悪に逃げ込みそうになると、諏訪さんが意外なことを言った。
「さ、最近新しい趣味に目覚めてね……おかゆを作ったんだ」
目を泳がせながら語る諏訪さんの手には絆創膏。
「せっかくだし、う、うちの料理番に試食を頼もうかなと」
どうだい?
と言う彼女の表情は、初めて見るもので。
「え、えっと……是非……」
俺はこみ上げるものを抑えつつ、彼女が呼ぶリビングへ向かった。
「……美味しい……」
外のセミの鳴き声を聞きながら、おかゆを食べる。
ちょっと不思議な組み合わせだったけれど、優しいそれはお腹の底へ染み渡っていく。
「ええと、ほんとかい?……か、かなり焦がしてしまったんだが……」
焦がしたところは入れてないけど……と所在なさそうにする諏訪さん。
料理が一切できない、という彼女が初めて作ったというおかゆ。
確かにちょっと焦げた臭いはするけれど、それでもとても美味しかった。
俺のためを思ってくれて、ここまでしてくれた彼女。
一方俺は、事件後警察による事情聴取等が終わった後、3日間部屋に籠もりきりだった。
とは言っても、いつ起きていて、いつ寝ているのかも判然としないし、何か食べたかどうかも怪しい状態だったけれど。
『文庫』への配属は保留になったこと。
ティアさんのノートは、国が預かることになったこと。
おぼろげに覚えていることといえば、それくらいだろう。
そんな最近の生活を思うと、感謝とともに、申し訳なさがこみ上げてきた。
「……その、ごめ」
「それは君が言う言葉じゃない」
俺の謝罪を諏訪さんは少し大きめの声で遮る。
「謝るのは僕や沼田達。僕たちの力不足のせいで、大きな犠牲が出た。そして君は一番辛い想いをすることになった」
本当に申し訳なかった。
彼女はそう言って、深く頭を下げた。
「それに、ティアは私
「え……」
後からわかったんだけどね、と諏訪さんは続ける。
「ムラサキファンドが秘密裏に進めていた、改造ノベラニア。それが彼女の正体だ」
「改造、ノベラニア?」
豊富な資金をもとに、主に軍事的な転用を見据えノベラニアに枷をはめる。
それが改造ノベラニアらしい。
「命令に従順なノベラニア……というものを目指していてね。書士のさじ加減で、激痛を発生させたり、強制的に行動させたり……まあ色々できてしまうものなんだ」
「そんな……!」
ノベラニアに痛みを感じる知性があることを利用して、都合よく操ろうという考えがもとになっているそうだ。
ティアさんはその実験過程の一人。
ファンドに属する一部の人間が、実戦データ欲しさに彼女を呼べる人間を探していたのだという。
「不幸にも青山が適合し、ファンドは相馬堂の技術とデータ両方を手に入れるために、一連の情報操作を含めた行動を起こしたようだ」
既に警察による大きな調査が入り、ファンドそのものは消滅状態。
買収されていた警察関係者も含め、大きな事件となって連日報道されているそうだ。
「私がYUKARIにいた頃、ファンドの一人がそういう考えをもっていてね。技術協力をかなり執拗に求められた。余計な口出しも多くなって、うんざりして僕は辞めたんだけど」
沼田刑事は、その時一緒にYUKARIを辞めた人だそうだ。
会社を守る私設のセキュリティの一人だったらしい。
長い付き合いだったからこそ、沼田刑事は俺を彼女に預けた。
強盗騒ぎの時から、彼は一部の警察の動きを怪しんでいたということもあったようだ。
「社長として僕自身が手綱をしっかり握っていれば、今回のことは起きなかったのかもしれない」
本当にすまない、と頭を下げる諏訪さん。
「……いいえ。多分それは違います」
俺は、あの時の青山の表情を改めて思い出す。
『そいつらは消えるべき責任を負ってるだろう!』
必死の形相だった。
怨嗟と、憤りが入り混じった表情。
彼の怒りは、おそらく取り返しのつかない状況だったんだと思う。
「きっとキュリズムを開発した時点で、彼はもう……引き返すつもりはなかったんだと思います」
青山の復讐は、その瞬間から始まっていたのだ。
ティアさんがいようがいなかろうが、きっとこういった事態は起きただろう。
時期は違ったかもしれない。
手段も代わり、俺が巻き込まれなかったかもしれない。
だとしても。
とてもじゃないが、諏訪さんや沼田さんにその責任を押し付ける気にはなれなかった。
「書森くん……」
そうか……と息をつく諏訪さん。
しばらく沈黙が続いた後、彼女は口を開く。
「未来という少女とその友達、彼女たちは動画を投稿してね。自ら顔を出して、今回の件を自分達の口から説明してるよ」
「えっ……」
自らが犯したことを悔いていると、泣きながら事情を話す動画だったそうだ。
軽薄な投稿をしてしまったこと、犯罪に巻き込まれて始めて理解したこと。
未来ちゃんの友人二人は特にそのことを何度も謝罪していたらしい。
結局その動画は、数時間後に彼女たちが通学する学校によって削除されたそうだ。
「不思議なことにね、削除以降この動画は拡散しなかった。まあ青山の犯罪が効いたんだと思う。良くも悪くも皆怖くなったんじゃないかな」
正しい恐れだと僕は思うけどね、と諏訪さんは苦笑する。
「キュリズムはサービス終了。セムが出ていた番組はもちろん、多くの報道番組が中止。ムラサキファンドの金が流れた様々な組織は今どんどん潰れていってる」
ニュースサイトも軒並みなりを潜めているそうだ。
SNSの投稿数も減ったらしい。
「殆どが一時的な流れだとは思う。けれど……」
そう言った諏訪さんが持ち出したのは、多くの手紙。
「君宛だ」
「俺に……?」
何通か開けてみると、そこには俺とアイリアへの感謝が綴られていた。
中には金銭が包まれているものすらあった。
全て警察に届けられたものだそうだ。
「あの事件が終わった時、人質になっていた人間は全員泣いていた。それは開放されて嬉しかったからじゃない」
俺が大量の手紙に驚いていると、諏訪さんは更に続ける。
「皆、己の情けなさに泣いていた」
悔しくて涙を流したんだよ。
犯罪者の口上に一言も言い返せなかったとね、と彼女は告げる。
「だから君の態度に、皆反省し元気づけられたんだと思う」
誰かを元気づける。
人を怖がらせてばかりだった俺が、そんな風に言われる日が来るとは思わなかった。
でも。
感謝されるべきアイリアはもういない。
「……っ……!」
俺は込み上がってくる涙を堪えることができなかった。
心優しいノベラニアが、この手紙を受け取った表情を見たかった。
俺のために憤ってくれた彼女が、どんなことを言うか聞きたかった。
賑やかな翠屋で、また3人で話がしたかった。
「……書森くん」
俺が涙を拭っていると、諏訪さんは真剣な眼で俺の顔を覗きこんだ。
泣いてしまった俺を茶化す風でもない様子の彼女。
「ここしばらくの間、ほとんど部屋に籠もりきりだったけれど。……もしかして文字を書いてたんじゃないかい?」
「は、はい……そうです……」
未練たらしい、惨めな行動だったと思う。
魔法文字、中でもインキュノベルを書いていると、少し現実から眼をそむけられるような気がしていたのだ。
あの日、不意にアイリアに褒められたインキュノベル。
その文字に向かっていると、不思議と心が落ち着いていき、気づけばまだ未完成だったそれの続きを模写していた。
魔法文の意味はわからないままだったけれど……。
「もしかして……僕が渡した見本。全部、書ききったのかい!?」
弾かれたように、音を立てて立ち上がる諏訪さん。
その様子に驚きつつも頷く。
見せてくれ、と勢い込む彼女と俺の部屋へ移動する。
ちゃぶ台の上には、眠ってしまうまで書き続けていたインキュノベルの文。
見本の文は書き終えていたはず。
「い、一応練習用に渡してもらった分を、書きましたが……?」
諏訪さんは俺が書き写した魔法文を食い入るように見つめた後、何やら深呼吸をした。
「いいかい、落ち着いて聞いてほしい」
「は、はい……」
諏訪さんはそこで一度言葉を区切る。
「この魔法文は、アイリアを呼ぶ『イリスユニテ』なんだ」
イリスユニテって……アイリアを顕現させる魔法文……!?
「そう。これはね、アイリアがノートの状態で寝てた時、こっそり覗き見て写した文だったんだ。彼女、この魔法文見た時、怒っていただろう?」
そういえば、ものすごく怒って諏訪さんのゲーム機を壊そうとしてた気がする。
諏訪さんによると、ノベラニアにとっては裸を見られることに近い感覚だったらしい。
だから怒っていたのか……。
「学術的な興味と、原典が失われるようなことになった時の保険にとコピーを取ってたんだ。けれど彼女が消えてしまった後、そのコピーからも文字列は消えてしまった。それを見て僕は、定義が失われるということは彼女のイリスユニテごと無くなる……ということだと理解した」
けれど、と彼女は続ける。
「君は全文を書き写しきったように見える。これ、どうやってやったんだい?」
「俺は普通に見本を……っ!?」
そこまで話をして、俺はおかしなことに気づく。
それは、見本としてちゃぶ台に置いてあったはずの紙。
「白紙だ……!」
紙からは一切の文字が消えている。
まるで最初から何も書かれていなかったかのような魔法用紙。
一体俺は何を模写していたんだろう……。
何かの幻覚を見ていたのだろうか。
「か、書森くんっ!!これを見てくれ!」
少し自嘲的な気分になった時、諏訪さんが慌てたように声を上げる。
彼女の手には俺が模写したほうの魔法用紙。
「見てくれ、文字が……!」
「端から薄くなっていっている……!?」
模写されていたはずの文字が、端から少しずつ薄くなっていっていくのが分かる。
徐々にだが黒色に見えたインクは、濃い翠色に代わり、少しずつ鮮やかな色へ近づいていく。
「これ……本物だよ!だからこそ文字が消えていくんだ!」
「えっ……!」
眼の前で少しずつ色が変わり始めたインキュノベル達。
これが……消えてしまうのか……!?
「駄目だ……カメラに映らない……!世界がこの存在を忘れようとしているんだ……!」
彼女の存在を忘れる……。
嫌だ。
この夏に出会った、優しいノベラニアを忘れたくなんかない。
――だから、俺は少しずつ薄くなっていく文字が書かれた魔法用紙を手にとる。
「……うん。それがいい。僕のコピーには残らなかったけれど、君がもつ見本に残った文字なんだ」
無言で紙を取った俺の意図を、諏訪さんは察してくれた。
「……待ってるよ。彼女は」
こんな状況だ。
多分、最後のチャンスなんだろう。
そして俺は紙に手を乗せる。
「イリスユニテ……これはアイリスとリユニテの造語でね」
俺が集中を始めると、諏訪さんはポツリと言葉を零す。
「アイリスの花言葉は『あなたを大切にします』。リユニテは、再会を意味する」
ああ……なんてお
「だから僕も一緒に約束する。アイリアを大切にするって」
もちろん、俺も宣言する。
今度こそ、あなたを大切にします、と。
その意味を心に刻み、俺はそっと魔素を流す。
すると消えかかっていた文字は、強い光を放ち。
――その魔法用紙ごと、粒子状に飛散して。
次の瞬間。
俺は、自室の壁に叩きつけられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます