第51話 トシヤとマサオ、初めてルナの家へ

 そしてあっという間に日曜日がやってきた。いや、『あっという間』という表現は不適切かもしれない。なにしろマサオはこの日を一日千秋の思いで待ち続けていたのだから。

 待ち合わせは駅の近くのコンビニだ。トシヤがリアクトで駆け付けると、そこには既にプリンスが停まっていた。


「ようマサオ、早いな」


 ハルカと約束した時間まではまだ10分以上ある。トシヤは「マサオのヤツ、どうせ早くから来て待ってたんだろうな」と思いつつもそんな野暮な事は言わず、それだけ言うとリアクトを車止めに立て掛けた。


 待つ事10分、ハルカが現れた。


「お待たせ……って、私、遅刻して無いわよね?」


 サイクルコンピューターの時計を確認してハルカが言うと、マサオは澄ました顔で答えた。


「ああ、大丈夫だ。オレ等が勝手にちょっと早く来ただけだから。女の子を待たせる訳にはいかないからな」


 まるで自分が紳士だとばかりに言うマサオにハルカの辛辣な言葉が突き刺さった。


「ヒルクライムの時には随分待たされたけどね」


 痛いところを突かれて返す言葉が無く、涙目で口を噤むマサオをハルカは豪快に笑い飛ばした。


「やだなあ、冗談に決まってるじゃないの。どうしたのよ、マサオ君らしく無いわよ」


 ハルカの言う通り、いつものマサオだったらハルカにちょっと言われたぐらいでメゲる様な事はあるまい。実は今日のマサオはルナ先輩の家に行くという事で実はナイーブになっていたりするのだった。


「そうだぜ、マサオらしくも無い。さあ行こうぜ、ルナ先輩が待ってるぞ」


 トシヤの口からルナの名前が出た途端マサオはいきなり元気になった。


「そうだな、俺らしくも無い。ハルカちゃん、そんな事を言ってられるのは今のうちだけ。いつか今の言葉、そっくり返してやるからな。なあ、トシヤ」


 マサオがヒルクライムでハルカに勝てるのはいつの日になることやらわからない、いや、勝てる日が来るかどうかも怪しいが、ともかくマサオは元気を取り戻した。


「まあ、楽しみにしてるわよ。じゃあ着いて来て」


 笑いながらハルカが走り出すと、トシヤとマサオはそれぞれ愛車に跨り、クリートを嵌めるとハルカの後を追って走り出した。



 ルナの家はそんなに遠く無く、ものの数分で到着した。普通の分譲住宅地といったところで、ハルカの家もすぐ近くだと言う。

 トシヤとマサオ、そしてハルカはルナの家までロードバイクで来たのだからビブタイツにサイクルジャージという格好なのは不思議でも何でも無いが、出迎えたルナまでもがビブタイツにサイクルジャージを身に纏っている。やはりルナも作業が終わってから走る気満々なのだろう。


「ハルカちゃん、お疲れ様。トシヤ君とマサオ君はこっちを使ってね」


 ハルカがL字型のスタンドにエモンダを置くと、ルナは折り畳み式のディスプレイスタンドをトシヤとマサオに勧めた。L字型のスタンドは上から車軸を置くだけでロードバイクを立てられるのだが、タイヤがスタンドの底面に接地している為にホイールを回す事が出来無い。

 それに対して折り畳み式のディスプレイスタンドはロードバイクを倒れない様に支えながらスタンドを少し広げてクイックレリースの両端に嵌めてから立てなければならないので少々面倒臭い。だが、タイヤが浮いているのでホイールを回す事が出来る。要は普段使い用とメンテナンス用に使い分けているのだ。もちろんルナがスタンドを四つも持っている訳が無く、そのうちの二つはハルカが予めルナの家に運んでおいた物だ。

 普段L字型のスタンドしか使っていないトシヤとマサオは折り畳み式のディスプレイスタンドを使うのは初めてだ。ぎこちない手付きでスタンドを嵌めようとするが、どうも上手くいかない。見かねたハルカがトシヤのリアクトに手を伸ばした。


「ほら、支えといてあげるから」


 トシヤはリアクトを支えるのをハルカに任せると、両手でスタンドを広げてクイックレリースに嵌め、なんとかスタンドを立てる事が出来た。


「まったく……これぐらい一人で出来ないと恥ずかしいわよ」


 呆れた口振りで言うハルカの横ではルナがマサオを手伝っていた。


「マサオ君、逆に付けようとしても付かないわよ。切り欠きがある方がレバー側よ」


 事もあろうにマサオはスタンドを左右間違って付けようとしていた。ちょっと見ればわかりそうなものなのだが……


 ようやく自立したリアクトとプリンスをハルカがしげしげと見つめた。予想通りステムの下には厚いコラムスペーサーが数枚入れられていて、サドルとハンドルの落差は少ししか無い。もっとも初心者のトシヤとマサオにとってはこれでもハンドルが低いと感じていたのだが。

 ロードバイクはシートポストを長く出し、サドルとハンドルの落差が大きい方が格好良いとされる風潮がある。それはメーカーのカタログやホームページの写真を見てみると一目瞭然だ。だがそれらは展示用だったり、背が高くて手足の長い欧米人向けのセッティングであり、平均的な日本人ではとても乗れたものでは無いだろう。


 リアクトとプリンスを自立させたところでいよいよ作業開始だ。トシヤとマサオはサドルバッグから先週買ったコラムスペーサーと携帯工具を取り出した。


「まずはトップキャップのネジを緩めるの。」


 ルナはフォークコラム上端の丸いキャップ中央のボルトを指差した。トシヤとマサオが言われた通りそのボルトを緩めると、今度はハルカがステムを留めているボルトを指差した。


「次はこのボルトを緩めるの。緩めるだけで外さなくて良いからね」


 ハルカの指示に従ってトシヤとマサオがステムのボルトを二本緩めると、ハンドルが大きく左にずれた。


「うわっ、ハンドルが曲がっちまったぞ!」


 慌てて声を上げたマサオをハルカは冷めた目で見ながら溜息を吐いた。


「そんなの後で調整するに決まってるでしょ。って言うか、今から何するかわかってるの? ステムを外すんだけど」


 ステムの下に付いているコラムスペーサーをステムの上に移動させてハンドルを下げるのだから当然と言えば当然なのだが、初心者と言うか、メカに関しては素人のマサオが驚く気持ちもわからない事も無い。しかし自分でロードバイクをちょこちょこ弄っているハルカからすれば何でもない事を騒ぎ立てるマサオの姿が滑稽に見えて仕方が無い。ルナはそんなハルカを諭す様に言った。


「ハルカちゃん、ダメよ、そんな言い方しちゃ。初めてなんだから、わからなくて当たり前じゃない」


 ルナに諭されたハルカはマサオに向かって言った。


「そうね、仕方が無いわね。なんたって素人なんだから。じゃあトップキャップを外して、ステムも抜いちゃって。ワイヤーには注意してね」


 反省しているのかしていないのかわからない言い草だが、ハルカの言葉に従ってトシヤとマサオはトップキャップのボルトを抜き、トップキャップを外すとステムを抜こうとハンドルに手をかけた。


「フロントタイヤを足で挟んで動かない様にしてグリグリやっちゃうのよ」


 ルナからアドバイスが出され、トシヤとマサオは足でフロントタイヤを挟んでハンドルを左右に文字通りグリグリ左右に回しながらステムをハンドルごとフォークコラムから引っこ抜いた。


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