第31話 ハルカちゃん、それ、俺のボトル……
トシヤが覚束無い足取りでリアクトを押しながら第二ヘアピンを抜けると、目の前に見事な景色が広がって……はいなかった。例によって坂道が力不足のトシヤを嘲笑うかの様に空に向かって伸び、左側の山肌に吸い込まれてその先がどうなっているかは解らない。
とりあえずハルカに続いて安全であろう場所まで移動したトシヤはリアクトにもたれかかる様にハンドルに突っ伏した。ルナがマサオを止めた様にもう少し早く止めていればトシヤがここまで憔悴する事は無かったかもしれない。ハルカは少し後悔したが、今更そんな事を考えても仕方が無い。
「トシヤ君、大丈夫?」
ハルカは心配そうに尋ねながらリアクトのボトルケージからボトルを抜き取って差し出したが、トシヤにはそれを受け取る気力すら残っていなかった。ハルカはボトルの飲み口を引っ張り開け、トシヤの口に押し込むと、ゆっくりとボトルを握る手に力を入れた。
温くなってしまったスポーツドリンクがボトルから押し出され、口の中に広がると、トシヤは少し元気を取り戻した。
「ああ、ありがとう」
トシヤが恥ずかしそうに言うと、ハルカはもっと恥ずかしそうに顔を赤くした。ボトルを口まで持っていって飲ませた、言ってみれば『あーん』をした様なものだ。
「まあ、トシヤ君がこんなにへばっちゃったのは私の責任でもあるしね」
相変わらず素直で無いハルカは赤くなった顔を見せまいと、ぷいっとそっぽを向いて応え、更に言い放った。
「いつまで甘えてるのよ、ボトルぐらい自分で持ちなさいよ!」
ハルカの叱責する様な声にトシヤはすぐに反応し「ああ、ごめん。ありがとう」とボトルに手を伸ばすと、トシヤの手がハルカの手に触れた。
「あっ、ごめん」
トシヤが手を話そうとしたが、遅かった。驚きのあまりボトルを持っていたハルカの手にギュっと力が入り、大量のスポーツドリンクがトシヤの口に一気に押し流された。
「ぐはっ、げほっ、ちょっ……ハルカちゃ……」
噎せ返りながら声にならない声を上げるトシヤにより一層焦ったハルカはボトルをトシヤの口から引っこ抜くと、何を思ったか自分の口に押し当て、ギュっと握るとゴクゴクとトシヤのボトルからスポーツドリンクを飲みだした。
ようやく咳が止まり、落ち着いたトシヤは唖然とした顔で呟いた。
「それ、俺のボトル……」
トシヤの声に我に帰ったハルカは、自分がとんでもない事をしでかしてしまった事に気付いた。ハルカが今、口にしているボトルはついさっきまでトシヤの口に咥えられていた物。という事は、これって間接キス……
「うぅあああぁぁぁぁ……」
パニックに陥ってしまったハルカはトシヤのボトルを慌てて口から離して声にならない声を上げると、エモンダのボトルケージから自分のボトルを抜き取ってトシヤに押し付ける様に渡した。
「ごめんなさい。はい、コレ、私のボトル。まだ全部飲んで無いから」
最早ハルカの頭は思考能力を完全に失っている。『まだ全部飲んで無い』という事は、今度は逆にハルカが口を付けたボトルにトシヤが口を付ける事だという事だというのに。これにはハルカのボトルを押し付けられたトシヤも対応に困ってしまった。
ハルカのボトルを手に固まってしまったトシヤにハルカは早口で捲し立てた。
「大丈夫、私の分は残さなくっても大丈夫だから。うん、大丈夫。全部飲んじゃって良いわよ」
やたらと『大丈夫』を連呼するハルカだが、トシヤの方は全然『大丈夫』では無い。ハルカが口を付けたであろう飲み口を見つめ、おろおろするトシヤにハルカは追い打ちをかける様に言った。
「どうしたの? まだ先は長いんだから水分補給はしっかりしとかないと。それとも私のボトルじゃ気に入らないって言うの?」
ハルカは完全に自分を見失ってしまっている様だ。恐らく自分が何を言っているのか解っていないのだろう。だが、ここまで言われると、トシヤとしても動かざるを得ない。意を決してハルカのボトルに口を付けようとした時
「うひゃぁっ、やっぱりダメ!」
叫ぶとハルカはトシヤからボトルをひったくった。
「ごめんね、麓のコンビニで買って返すから、それまで我慢して。ねっ」
トシヤのボトルも空になった訳では無い。懇願するハルカだったが、トシヤのボトルに口を付けた時点でハルカはトシヤとの間接キスをしてしまっているし、また、ハルカが口を付けたトシヤのボトルにトシヤが口を付ける事によってトシヤもハルカとの間接キスが成立するのだが、現在のハルカはそこまで頭が回らない様だ。
「わかった、わかったから落ち着いて。俺なら大丈夫、さっきハルカちゃんが飲ませてくれたろ? アレで十分だから」
トシヤはハルカを落ち着かせようとして言ったのだが、その一言はハルカにさっきの恥ずかしい(マサオからすれば羨ましいであろう)行為、トシヤの口元にボトルを運び、飲ませてあげた事を思い出させてしまった。
「そうだ、私ったら何て恥ずかしい事を! おまけに間接キスまで……」
パニクったかと思えば、今度はすっかり沈み込んでしまったハルカにトシヤはどうすれば良いか困ったが、下手に取り繕うよりも自分の素直な気持ちを伝えるのが一番だと考えた。
「でも、その時は『恥ずかしい』なんて思わずに飲ませてくれたんだろ? おかげで回復出来た。ありがとう、ハルカちゃん」
それは正にトシヤの正直な、飾る事も無い言葉だった。
「本当に?」
「うん!」
ここが静かな山で無かったら聞こえない程の小さな声で、不安そうに尋ねるハルカにトシヤが大きく頷くと、いきなりハルカが復活した。
「あの時、私が気を利かせて水分補給をしてあげなかったら、ハンガーノックとか脱水症状で今頃倒れてたかもしれないのよ。感謝してもらいたいわね」
フフンと鼻を鳴らすハルカの変貌ぶりに開いた口がふさがらないトシヤ追い討ちをかける様にハルカが笑顔で言った。
「そうだ、感謝の印に麓のコンビニで何か奢ってもらおうかな? 暑いからアイスが良いな!」
パニクってた時は自分がスポーツドリンクを「買って返す」とか言ってたくせに厚かましい事を言い出すハルカに戸惑いながらもトシヤは答えた。
「ああ、わかったよ。コンビニでアイスな」
「わーい、やったぁ!」
無邪気に喜んで笑顔を見せたハルカをトシヤは素直に可愛いと思った。だが、そんな気持ちを味わう間も無くハルカがエモンダに跨った。
「そうと決まればもう一頑張り。あと一キロちょっとよ、さあ、行くわよ!」
今にも走り出さんばかりのハルカだったが、トシヤには一つ気になる事が有った。
「ちょっと待てよ。ルナ先輩とマサオが全然追いついてこないんだけど、待たなくて良いのか?」
走る事に関しては心配は無いだろう。いくらマサオがヘタれてもルナが付いてくれているのだ、上手く対応してくれるだろう。それにそもそもルナと一緒に走っている以上、マサオはいつも以上の気合と根性を見せるだろう。それがマサオと言う男なのだ。だが、気合と根性だけではどうにもならないのがヒルクライム、いや、寧ろ気合と根性だけで走ろうとすると逆に疲れ果ててしまって良い結果に繋がらないのがヒルクライムなのだ。そう、かつてのトシヤの様に。
それと実はもう一つ、トシヤが心配している事が有った。それは『マサオがルナに変な事を言ってないだろうな』という事なのだが、さすがにそれはハルカには秘密だ。
「そうね。でも、いつまでも路肩で停まってる訳にはいかないし、もう少し走ったら駐車場が有るから、そこで待ちましょうか」
確かにトシヤの目の前を何台もの車がトシヤ達を避ける様に通り過ぎている。いつまでもココに停まっているのは迷惑だし、危ないだろう。トシヤは頷いてリアクトに跨った。
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