第32話 意識し出したら止まらない
ハルカは軽い口調で「もう少し走ったら駐車場が有る」と言ったが、いくら上っても幾つカーブを抜けても駐車場に到着する気配は無い。視界の右にはガードレールの向こうに地平線が霞んで見える。
「くっそー、『もう少し』って言ったじゃねーか、ハルカの嘘つき……」
トシヤは回復したと言っても完全に回復した訳では無い。それにそもそものポテンシャルがそんなに高い訳でも無いのだ。ぜえぜえ言いながら、淡々と走るハルカに遅れまいとトシヤは重いペダルを必死に回した。とは言うものの坂道がキツい為、一番軽いギヤに入れているので速度は僅か時速一桁キロしか出ていない。時間ばかりが過ぎて、距離はあまり進んでいないのが現実だ。
「男がブツブツ言わないの! もうちょっとだから頑張って!」
トシヤのボヤキが聞こえたのか、ハルカが振り返ってトシヤに声をかけた。トシヤはハルカは振り返った時に走行ラインをほとんど乱していない事に驚いた。トシヤは前を行くハルカのお尻を目指して走っているのにも関わらずフラフラして、時にはアスファルトの舗装から外れ、側溝のグレーチングに乗っかったりしているというのに。
「ハルカちゃん、余裕が有るんだな」
トシヤは悔しそうに呟くと、ペダルを踏む足に力を込めた。
それからペダルを回すこと数分、左のブラインドカーブの手前でハルカが左手を横に差し出し、何かを指差す様なアピールを見せた。それに気付いたトシヤが注意深くハルカに続いてカーブに侵入すると、視界が開けたすぐそこに車を十台も停めればいっぱいになりそうな、小ぢんまりとした駐車場が見えた。
「良かった、やっと休める……」
ほっとしたトシヤに微笑みかけるかの様にハルカは振り返ると駐車場に入り、左のクリートを外して足を着いた。トシヤもハルカに続いて駐車場によたよたと入り、リアクトをエモンダの横に並べると左のクリートを外した。
「うあー、疲れた……」
トシヤは左足を着くとすぐに右のクリートも外し、尻をサドルの前にずらすとトップチューブを跨ぐ体勢で両足を着くとハンドルに突っ伏した。そんなトシヤを見てハルカはくすりと笑ったが、自分も思っていた以上に疲れていると感じ、エモンダから降りると駐車場の隅に移動し、山肌の間地石に立て掛けた。
「トシヤ君もこっちに来たら? そこじゃゆっくり休めないでしょ」
ハルカの呼びかけに顔を上げたトシヤは愕然とした。ハルカがエモンダを立てかけた山肌の上には自分がこれから走らなければならない道が見えていたのだ。それも駐車場を出たらすぐに左のヘアピンカーブとなっていて、その道はハルカの頭上遥か高くを通り、更に上っている。
人間は情報の八十%を視覚から取り入れると言う。第二ヘアピンで思わず足を着いてしまった時と同じ様にトシヤは怖気づいた顔でリアクトを押し、ハルカのエモンダの隣に立て掛けるとへなへなと座り込んでしまった。
「どうしたの? トシヤ君」
「いや、あの坂、強烈だなって……」
ハルカの質問に頼りない声でトシヤが答えると、ハルカは呆れた顔で言い返した。
「何言ってるのよ。トシヤ君は、ココまで来るのにもっとキツい坂を上って来たのよ。今になってこの程度の坂で弱音を吐いてどうするのよ!」
そう、ハルカの言う通りトシヤは行程の約半分、第二ヘアピンまでは足を着かずに上って来れたのだ。第一ヘアピンを初めて見てすごすごと引き返した時とは違う。
「そうだね。頑張るよ」
肩で息をしながらも無理して笑顔を作るトシヤに満足そうに頷いたハルカは、ボトルを手にトシヤの隣にちょこんと腰掛けた。
「じゃあ、ルナ先輩達が来るのを待ちましょうか」
言うとハルカはボトルに口を付け、乾いた喉を潤した。それを見たトシヤもリアクトからボトルを抜き、口を付けようとしたところで動きが止まった。
――ハルカちゃん、このボトルに口付けたんだよな――
考えながらトシヤがボトルの飲み口を見つめていると、ハルカが自分のボトルのキャップを捻り、外した。
「ボトルの中身、無くなっちゃったんでしょ? 私の分けてあげるから、キャップ外しなさいよ」
どうやらハルカはトシヤのボトルに口を付けてしまった事を走っているうちに忘れてしまった様だ。いや、もしかしたら忘れてしまったと言うより、記憶から抹消したのかもしれない。
ともかくハルカはトシヤが呆けていたのはハルカの事を考えていたからでは無く、単にボトルが空になってしまったからだと考えたのだ。トシヤはハルカに言われてボトルのキャップを外すと、少し残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「なんだ、まだ少し残ってたっぽいわね。まあ良いわ、貸して」
ハルカはトシヤから本当に空になったボトルを受け取ると、自分のボトルからスポーツドリンクを半分程注ぎ込んだ。
「あ、ありがと」
トシヤはハルカから手渡されたボトルにキャップを捩じ込んだところでまた固まってしまった。なにしろ手に持ったボトルはハルカが口を付けた物。おまけにその中身はつい先程ハルカが飲んだばかりの物なのだ。これは
『彼女居ない歴=年齢』のトシヤにはちょっとばかりヘビーな状況だ。
「どうしたの? ちゃんと水分補給しないと後でまた辛くなるわよ」
不思議そうな顔でハルカは言った。飲み口に口を付けるのはアウトで、飲んだ物を分けるのはセーフと言うのがハルカの基準なのだろうか? こう言われればトシヤも腹を括るすか無い。飲み口を見つめながらゆっくりとボトルを口元に持っていき、そっと口を付けた。本当にキスをするかの様に。
ボトルの飲み口はほんのりと温かい気がしたが、ハルカが口を付けてから時間がかなり経っているのでハルカの温もりが残っている訳は無い。単に外気温で暖かくなっていただけなのだが、その温かさにハルカの唇の温もりを想像(妄想とも言う)してしまったトシヤは、妙な気持ちを握り潰すかの様にボトルを握る手に力を入れた。だが、口の中に流し込んだスポーツドリンクにもハルカを感じた気がしてトシヤの中の妙な気持ちは益々大きくなるばかりだった。
妙な気持ちに囚われ、また俯いてぼーっとしてしまったトシヤの耳に声が聞こえた。
「トシヤ君、大丈夫?」
はっとしてトシヤが声のした方向に目を向けると、トシヤの顔を心配そうに覗き込むハルカの顔がすぐそこに有った。トシヤが俯いている以上、ハルカは必然的に下から上目遣いでトシヤを見る事になる。ハルカが意図的にそうした訳では無いのだが、この角度は女の子がより可愛く見える角度だ。
「あ……ああ、大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
トシヤが動揺を隠そうと何気ないふりで目をそらすとハルカは安心した様子で微笑んだ。
「そう、良かった。じゃあルナ先輩達が来るまでゆっくりしましょ」
言うと隣にちょこんと座り直したハルカを見てトシヤは思った。
――ハルカちゃん、こうやって見ると鬼コーチと言うより天使だな――
もっともそれはハルカが鬼コーチになる必要が無かったからなのだろうが。第二ヘアピンで足を着いてしまったとは言え、そこまでは必死でペダルを回し、ハルカに喰らい付いていたのだから。さしずめハルカが『天使』なら、早々とヘタれてしまったマサオに優しく接するルナは『女神』と言ったところだろうか。
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