4 紋章

「タツヤ、今日は、アレやらないの?」

 気温が上昇し始めた外と比べて、冷房と扇風機のある達也の部屋は快適だった。セイリュウは、達也の机で、参考書や教科書を取り出しては眺めていた。

 達也のところへ来て、二日目。

 矢沢竜としての記憶がなく、神社での生活がすべてだと思っている今、セイリュウは、ここでの生活の一つ一つが愉しくて仕方ない。出会う人の全てに、そして、やること全てに興味津々だ。

「アレって、もしかして、勉強のこと?」

 達也がしている「勉強」も、今は楽しい。達也は、困惑の表情を浮かべている。それにかまわず、セイリュウは、笑顔でうなずいた。

「セイリュウ、勉強したいの?」

「したいよ。おもしろかったもん、昨日」

「……そっか。じゃあ、図書館でも行く?」

「としょかん?」

「本がたくさんあって、静かで、勉強するには、ちょうどいいとこ」

「行く!」

 達也の知る竜は、勉強が好きではなかった。嫌いではなかったが、図書館にいると、眠くなるタイプの人間だった。少なくとも、ウキウキして図書館へ向かう姿は、幼稚園の時を最後に、見ていない。

 数日前に、「竜」と一緒に来た図書館。同じ場所、同じ人、しかし、記憶はない。まるで、違う人。

 数日前と同じテーブルが空いていた。達也は、迷わずそこに席を取り、セイリュウも、達也の正面に座った。達也の使っている教科書を借りて、早速、目を通している。

「わかんないとこがあったら、聞いてね」

 興味津々なセイリュウに声をかけて、達也は、自分の勉強を始めた。

 夏休みの図書館には、今日も、学生の姿が多い。時々、話す声が聞こえ、時々、足音が聞こえてくる。紙が捲られる音、ノートに文字が書かれていく音、空調音。

 数日前と違うことが、もう一つあった。

 目の前の彼女が、欠伸もしないで、熱心に教科書を見ている。分からないところがあるときには、確かに、達也に声をかけてくる。

 1時間と少しの時間が経った。彼女の眼は、まだ、興味に輝いていた。

「ちょっと休憩しない?」

 達也が声をかけると、セイリュウはテキストから顔を上げ、笑顔でうなずいた。

 テーブルはそのままに、二人は、席を立ち、セイリュウのリクエストで館内をぐるりと回ってから玄関ロビーへ向かうことにした。

「セイリュウ」

 数日前と同じ場所。声をかけられて、二人は立ち止った。

 振り向けば、男が一人、こちらに笑顔を向けていた。

「セイリュウ、だな?」

 彼は、不思議な形の首飾りをしていた。セイリュウは、何よりもまず、そこに目がいった。きらきらと光を放つ、首飾り。

 それから、闇夜の色をした髪。最後に、こちらをじっと見つめる、髪と同色の瞳。

 図書館の静かな空間で、セイリュウは、そっと口を開いた。

「ごめん、誰だっけ?」

 控えめな声で聞き返す。

「私は、夜叉やしゃ。お前に、会いに来た」

「夜叉……。なんで、オレの名前を知ってるの?」

「お前を知っているからだ」

「知ってる?オレ、ここに来たの、初めてなんだけど」

「いや、2、3日前にも、ここに来ている。それに、その名前と容姿を、私は聞いている」

 夜叉は、確信を持っているようだった。それが、セイリュウを混乱させていた。

 2、3日前、社で目を覚まして、達也に会った。初めて会ったはずで、誰かと尋ねたら、樹李じゅり海吏かいり海雷かいらいも、目を丸くしていた。自分は、もしかしたら、何かを忘れているのだろうか――――今、彼と話しをして、そんな気がしてきた。

「ごめん、オレ覚えてないんだけど、もしかして、その時、あんたに何かしたかな?」

 戸惑いが、正直に顔に表れていた。

 それを見た夜叉の表情も、戸惑いに変わる。セイリュウは、答えを待っていた。

 夜叉の胸元で、首飾りが、キラリと光った。

「そうだな」

 答える彼の低い声に、別の声が混じる。彼の口元が、三日月の形に変わる。

「したと言えば、しているし。していないと言えば、していない」

 わずかな違和感が、セイリュウの胸に小さなシミを作った。

 しかしそれは、次の瞬間には消えていた。達也が、袖口をひっぱってセイリュウを引き留めたからだ。

「セイリュウ、あんまり、その人と関わらない方が……」

 達也は、目の前の彼が、セイリュウにとって危険だと覚えている。前回は、樹李たちに、問答無用で神社へ連れて行かれた。

 しかし、何故か、今日はそれがない。

 彼女は、数日前のそのできごとを覚えていない。夜叉と名乗った男をじっと見つめていて、視線を外しもしない。

「でも、この人、オレを知ってる……オレに、会いに来たって」

「だけどっ…」

 二人の先で、夜叉は、今度は優しい笑みを浮かべた。その表情が達也を混乱させていた。

 この人物は、セイリュウにとって危険――――そのはずなのに、目の前の優しい表情は何なのだろう。

「また、会おう。セイリュウ」

 そう言って、夜叉は去っていった。

 二人は、それを黙って見送った。

 夜叉の姿が見えなくなってから、セイリュウは、達也を振り返った。瞳を輝かせて、顔は喜びに満ちている。

「また会えるって!今度はもっと話せるよな?」

 夜叉が何の目的で来たのか、達也には正確には分からない。彼が、どんな人物なのかもわからない。ただ、優しい笑みと瞳を持った男だということ以外は。

「だと、いいね」

 今は、記憶のない幼なじみの判断を、信じてみるしかなかった。




 セイリュウが達也のところへ泊りに行ってから、1週間。彼女は、少しも神社に寄り付こうとしなかった。

 そのせいで、海吏と海雷が二人で騒いでいる以外は、静かなものだった。

「物足りなそうだねぇ、兄ィ?」

 縁側に座る樹李に、海吏が背後から近づく。その表情が、ニヤリと意地悪であろうことは、見なくてもわかった。

「そんなことはない」

 樹李は、いら立ちを抑えながら答えた。

「え~?トラブルなくって、俺たちは物足りない。はい、お茶」

「何もないのは、いいことだ。夜叉が来たことも、これ以上悪いことがなければ、それに越したことはない」

「あぁ、ほら、噂をすれば……。待ち人来たる、だね、兄ィ?」

 そう言って、海吏は、またにやりと笑った。

 鳥居の方向を見ても、まだ、人影も見えない。しかし、海吏は、その者の空気を敏感に感じとることができた。

 やがて、彼らの視界にも、達也とセイリュウが仲良く歩いてくるのがとらえられた。

「兄ィ!」

 少し遠くから、セイリュウが笑顔で大きく手を振っている。

 そして、達也と目配せをしてから、走り出した。

 縁側まで来ると、セイリュウはさっそく話し始めた。

「兄ィ、聞いて、聞いて!」

 その顔は実に楽しげで、達也との一週間が充実していたことを表していた。

「おかえり、セイリュウ」

 樹李は、目を輝かせた彼女の姿をほほえましく見つめた。

「ただいま!」

「タツヤのところは、楽しかった?」

「楽しかったぁ~!」

 たっぷりと感情をこめて、セイリュウは答えた。

「友だちもできたし!」

「へぇ~」

 学校の友だちにでも会わせたのだろうか、と樹李は思っていた。

「また会おうって、約束したんだ」

「タツヤの友だち?」

 樹李が、セイリュウの隣に立つ達也を振り仰ぐと、達也は困ったような顔をして視線を泳がせていた。その反応に疑問を感じていると、樹李のすぐそばにいた海吏が、樹李の代わりに、再度訊ねた。

「タツヤの友だち、ではなさそうだね。後輩とか?」

「あ、いえ……友だち、っていうか……。セイリュウ、あれは友だちじゃないでしょ?」

 訂正をされたセイリュウは、不思議そうな顔をして、達也を見つめた。

「なんで?友だちだよ。名前を知ってて、話をして、また会おうって言ったら、友だちだろ?」

 困惑している達也と、いつも通りのセイリュウ。二人を観察していた樹李は、海吏を振り返った。すると、彼もまた、樹李に視線を投げていた。目配せをして、二人は、おそらく同じ推論に達したであろうことを確認して、軽く頷き合った。

 そして、訊ねたのは樹李だった。

「なんて名前?」

「あのっ……」

 達也が慌てて間に入ろうとするものの、それを遮るようにしてセイリュウは答えてしまった。

「夜叉」

 思った通りだった。

 樹李も海吏も、頭を抱えたい気持ちを抑えて話を続けた。

「どんな奴だったの?夜叉ってヒト」

 今度は、海吏が素知らぬふりをして訊ねた。夜叉は、一体なんの目的があって、セイリュウと接触をしたのか。

「優しそうな奴だった。オレのこと知ってるって。オレに、会いに来たんだって」

「話したのは、それだけ?」

 続けて訊いて、海吏は、短く「うん」とだけ答えたセイリュウをじっと見つめた。

 この一週間は、平穏無事に過ごしたはずだった。

 何もなく、退屈だったはずなのに。

 夜になり、セイリュウが深い眠りに落ちたころ、樹李と海吏と海雷は、縁側を少し離れた場所にいた。

 セイリュウの話した内容が、あまりに不可解だったからだ。

「夜叉は、何しに来たの?」

 海吏が、そもそもを確かめる。それに、海雷が呆れたように答えた。

「知るかよ。間違いないのは、あいつに用があるってことだけだな」

 夜叉とセイリュウは、二度出会っている。一度目は、話をする前に、自分たちが阻止した。異世界の者の気配がしたから、すぐに駆けつけることができたのだ。二度目のことは、セイリュウに聞くまで、まったく知らなかった。気配を、微塵も感じられなかった。

「なぜ、何も感じられなかったんだ?」

 樹李が、難しい顔をして思案し、言葉を続ける。

「今も、何も感じない。元いたところに帰っているのか、それとも、どこかに潜んでいるのか?」

「異世界の者なんていたら、匂いでわかるよ。少なくとも俺が、空気で感じてる」

 海吏は、そのものの纏う空気を感じ取る能力に長けていた。

 しかし、今回はそれがまったく通じない。

「なのに!それがわかんなかったなんて、ホントにケンカ売ってるとしか思えない」

「向こうが嘲笑ってんのが見えるみたいで、マジ腹立つ」

 海吏も海雷も、苛立ちを素直に顔に表していた。

「海吏の言うとおり、夜叉は、一体何をしに来た?俺たちに気づかれないように近づくことができたのに、何もしないで去っていったなんて」

 樹李が、独り言のように呟いた。

 3人は、そろって社を振り返った。

 そして――――。

「え?!あれ?」

 海吏が最初に口を開いた。

「寝てたよな?!」

 海雷が、セイリュウが寝ていたはずの場所を凝視する。彼女は、跡形もなく消えていた。そこにあるのは、空の布団だけ。

「どこへ……」

 樹李が、遠くへ視線をやりながら辺りを見回した。

 自分たちに気づかれずに外に出るなんて、そんな器用な人間だとは思えない。

 夜空に浮かぶ月は、いつの間にか、雲の向こうに隠れていた。


*   *   *   *   *



 セイリュウは、気付けば社を離れていた。

 自分は眠っていたはずで、目が覚めたら目の前は河川敷で、水の流れる音がしていて、見えるのは達也から聞いた「学校」という建物だけ。考えても、何が起きたのかわからない。

 少しだけ左手が熱い気がして、見下ろしてみれば、左手の甲が青白い光を放っていた。

「なにこれ?」

 光はすぐに小さくなり、それと代わるようにして、雲に隠れていた月が夜空に姿を現した。優しい光を空に感じて見上げる。きれいだと、のんきなことを考えていて、セイリュウは、ハッと我に返った。

 今の今まで、自分は眠っていたはず。

 神社に帰ろうと、月明かりの方へと体を向けた。

「セイリュウ?」

「え?」

 月明かりの中から、美しい声がした。

 肩にかかるストレートの黒髪と、優しい瞳、そして、変わった形の首飾り。

「えっと、確か……夜叉?」

「そうだ。また会えたな」

「何で?何してんの?」

「散歩だ。夜は、上手く眠れなくてな」

 困ったように笑って、夜叉が、セイリュウに歩み寄ってくる。

「オレは……気付いたらここにいた」

 正直に告白すると、夜叉は、目を丸くした後で優しい笑みを浮かべた。

「そうか。なら、セイリュウのその行動に感謝しなければ」

「あ、オレに用があるんだっけ?なに?」

「用があるとは言ってない。会いに来たと言ったのだ」

 何が違うのかが分からず、セイリュウは、疑問符をそのまま表情に出して、彼を見た。

「どういう人物なのか、この目で確かめたかった」

「オレを、知ってるの?」

「知っている。セイリュウは、紋章を持つ者、だからな」

「紋章を、持つ者?」

 繰り返した言葉は、セイリュウの耳に残った。聞いたことのあるような言葉だった。

 夜叉が、微笑みはそのままに説明をする。

「そうだ。紋章を持つ者は、何にも支配されず、属さず、すべてを統べる者」

「何にも……。オレが?」

 それが、良い意味でないことは、セイリュウにもすぐに分かった。セイリュウは、瞬きも忘れ、視線を落とした。体の中心から、冷たい何かが広がった気がした。

「そう言われている。しかし……」

 言葉を切って、夜叉は、不安そうな彼女の頭を優しくなでた。その手の温かさに、セイリュウは、ゆっくりと顔を上げた。

「セイリュウ、噂は噂だ。私は、お前を知りたい。2度目に会ったとき、そう思ったんだ」

 夜叉の言葉とその優しい瞳は、セイリュウの体に広がった冷たい何かを解かしていった。

 同時に気が付く、二人の間の記憶の違い。

「……あ、前も2回目って言ってたけど……、オレ、今日が、夜叉に会うの2回目」

「図書館で、2度会っている。1度目は、声をかける前にいなくなってしまったが」

「(やっぱりだ。忘れてる記憶がある。なんでだ?)」

 途端に、不安が体中を廻った。

「悪い、セイリュウ。お前を不安にさせたいわけじゃないんだ」

 夜叉が、困ったように笑った。

「……うん」

 セイリュウの胸の内が流れ込んだように、夜叉の胸も痛んだ。

「なら、今が1度目にしよう」

「え?」

「今、この時間、私たちは出会った。そういうことにしないか?」

 夜叉の提案に、セイリュウの顔に笑顔が戻る。

「うんっ!」

「セイリュウ、私は、お前と話せてよかったと言いたかったんだ。もっと知りたいし、もっと話したい」

 セイリュウの笑顔は、さらに輝いた。

「オレも!もっと、話したい!」

 それから二人は土手に座り、今が夜中だということも忘れて話し始めた。

「じゃあ、自己紹介だな!」

「自己紹介?」

「うん!名前は……知ってるし。あ、オレは、この町の神社に住んでんの。夜叉は?」

「私は、魔界という異世界から来た」

「ま、かい?」

 初めて聞く言葉だった。しかし、強い興味を覚えた。

「そうだ。魔界の北の国。私の家は、そこにある」

「こことは違う世界か……。どんなとこ?」

「こことは、雰囲気が違う。でも、賑やかなところだ。城下と南西にある町が特に」

「あれ?じゃあ、今は?」

「今は、こちらにいる」

「一人で?」

「そうだ。セイリュウは?」

「オレは、兄ィや海吏や海雷と一緒。今度、夜叉にも会わせたいなぁ。ちょっと変わってるけど、楽しい奴らだし」

 セイリュウは、話している間、コロコロと表情を変える。心をそのまま表して、喜怒哀楽を素直に。それが、夜叉は見ていて楽しかった。心の奥が、ふわりと温かくなった。

「楽しみにしてる」

 夜叉が微笑むと、それを見て、セイリュウが太陽のように笑った。そして、夜空を見上げて、欠伸をひとつこぼした。

 夜叉は、それを見て、クスクスと笑った。

「セイリュウ、今日はこのくらいにして、そろそろ帰ろう」

「えー?!」

 セイリュウは、顔いっぱいで夜叉の提案を拒否していた。

 もう少し話をしたい――――それは夜叉も同じだった。

 しかし、彼女が眠そうであるほかに、理由があった。

「眠そうだぞ?それに、こんな時間だ。一緒に暮らす者たちが、心配するだろう?」

 先ほど、近くを探す気配を感じた。それが、ここの世界の守護者であろうことは、感じた気配でわかった。

「う~……海吏と海雷はともかく、兄ィは心配するかも」

「私とは、また会える。また、ゆっくり話をしよう」

「約束」

「あぁ、約束だ」

 先に夜叉が立ち上がり、セイリュウに片手を差し出す。

「近くまで、送ろう」

 途惑いながらその手を取り、セイリュウは立ち上がった。

「平気だよ」

「女の子をこんな時間に一人で帰すなんて、できるわけがないだろう」

 その言葉をくすぐったく感じ、恥ずかしいのか、嬉しいのかわからない。ともかく、セイリュウは、夜叉の言葉に素直に甘えることにした。少し熱くなった顔を隠しもせず、彼の隣を歩く。

「オレを女の子扱いするなんて、父さん以外じゃ、夜叉くらいだよ。って言っても、兄ィたちと達也しか、オレ、知らないんだけど」

「大切な人は、大切に扱いなさいと言われたから」

「大切……」

 さらりと言われた言葉が、セイリュウの胸を熱くする。それをどうしたらいいのかわからず、セイリュウは、とりあえず、言葉を繋いだ。

「あ、夜叉の、お父さんから言われたの?」

「父上と、それから従兄から」

「従兄?」

「年は離れているが、親しみやすくて頼りになる人だ。あの人の話は、なぜか聞いてしまう」

「尊敬している人なんだな」

「いつか、セイリュウにも会わせたい」

「うん!楽しみにしてる」

 土手から神社までの道は、あっという間に終わり、もう鳥居への階段が見えていた。

「送ってくれてありがとう」

「またな」

「うん!またな」

 階段へ駆けだして、セイリュウはふと立ち止まり、振り返った。夜叉は、まだそこにいた。一度大きく手を振って、今度こそ階段を駆け上っていった。

 お腹の奥がくすぐったい。顔が、自然とニヤケてしまう。セイリュウは、弾むように鳥居をくぐりぬけた。

 そして、そこで足を止めた。

 鳥居をくぐった先、狛犬のそばに、海吏、海雷と樹李、それに、達也までもが顔を突き合わせて立っていた。それも、心配そうな顔をして。

 最初にセイリュウに気付いたのは、海吏だった。

 彼女を見て、驚いたような呆れたような表情を浮かべた。

「どこ行ってたの?セイリュウ」

 駆け寄るセイリュウに、海吏は尋ねた。表情そのままの声で。

「土手。みんな揃って、何してんの?」

 この状況が飲み込めず、純粋に聞き返すセイリュウは、不思議そうに彼らを見ていた。

 しかし、それは、海雷を煽るには十分だった。

「何してんの、じゃねーよ!急に消えやがって」

「オレに怒られても知らねーよ。いつの間にか、土手にいたんだから」

 セイリュウは、なぜ怒られるのかが分からない。

「セイリュウ」

 達也が、不安げな顔をして、彼女を見上げる。

「土手で何してたの?こんな時間に」

「夜叉に会って、ちょっと話してた。そこまで送ってもらったんだ」

 笑顔で答えると、海吏と海雷が、慌てたように鳥居の向こうへ走り出した。

「セイリュウ、夜叉に会いに行ってたのか?」

 樹李の顔にも、焦りと驚きとが見て取れる。

「だーから!気付いたら、土手にいたんだってば。たまたま会ったから、話をしてたの!」

 同じ答えを繰り返していて、セイリュウの顔にも多少の苛立ちが滲み始めていた。

 海吏と海雷は、悔しげな顔で戻ってきた。

「いなかった」

 むくれ顔で海雷が言った。

「いない上に、空気もきれいさっぱり消えてた」

「そうか……」

 呟く樹李の考え込む様子と、海吏と海雷の不機嫌と、達也の不安気な顔。セイリュウだけが、そこについていけなかった。

 土手で夜叉と話しをしていた間に、何が起きたのだろう、と。

「えっと……何か、あった?」

 改めて尋ねると、海吏と海雷が声をそろえた。

「なにかじゃない!」

「なにかじゃない!」

「え?え?」

 困惑するばかりのセイリュウに、優しく説明してくれたのは、達也だった。

「寝てたはずのセイリュウが、突然いなくなったから、みんなで心配して探してたんだよ?」

 達也の穏やかな声に続いたのは、樹李の優しい笑顔だった。

「タツヤのところかと思って、こんな時間に協力してもらって」

「あ……ごめん、なさい。タツヤも、ごめん」

 セイリュウは、彼らが心配しているという、夜叉が言っていた言葉を思い出していた。

「無事でよかった」

 ようやく、達也の顔にも、笑みが戻る。

 海吏と海雷も、不服気ではあるが、これ以上何も言いはしなかった。

「さて」

 樹李が、達也に向き直る。

「タツヤ、時間も遅いし、家の方は俺が何とかするから、泊ってく?」

「え?でも……」

 遠慮して断ろうとした言葉は、直後、セイリュウに遮られた。

「えー、泊ってけよ」

 そして、答えを聞く前に、セイリュウは達也の腕を捕まえていた。

「布団並べて寝よう!な?!」

 彼女にお願いされて、達也にNOと言えるはずもない。

「……お邪魔します」




 朝――――。

「えー?!帰るの~?」

 朝ごはんの途中、心底残念そうな表情をして、セイリュウは達也を見つめた。

 一瞬、どきりとした達也は、熱くなった顔をどうすればいいかと、視線を泳がせた。

「セイリュウ、タツヤは勉強があるんだから。試験勉強」

 樹李が困ったような顔をして、たしなめる。

「しけん……」

 不満げに呟くセイリュウの脳裏を、瞬間、途切れ途切れの映像が流れた。


―― アニキ……    行くの?


―― じゃ……   


 誰の顔、誰の声。肝心なところが見えない。

「(これ……あれ?)」

 分かりそうなのに、思い出せない。忘れているものがある。そのことが、セイリュウを不安にさせていた。

「セイリュウ?」

 どうしたのかと、達也が小首を傾げて顔を覗き込んだ。その声と顔に、現実に戻される。

「あ……大丈夫」

 答えて、そしてそのまま、達也を見つめる。

「何?ホントにどうしたの?」

 顔にたくさんの疑問符を貼り付けて、達也は、じっとセイリュウを見つめ返した。

「タツヤ、あのさ」

「なに?」

 尋ねようとして口を開いたセイリュウは、そのまま動きを止めた。

 何を聞けばいいのだろう。

 何が気になったのだろう。

 何か聞かなければならない気がして、眉を寄せた時だった。

 パンッと、小気味よい音と共に、セイリュウは後頭部に鈍い痛みを感じた。そして、それが海雷の平手だったことは、すぐに分かった。

「いってーな!何すんだよ」

 叩かれた後頭部を抑え、隣にいた海雷を睨む。

 海雷は、朝の不機嫌な顔のまま食事をしている。

「お前らこそ、何見つめ合ってんだよ」

「見つめ合って……なんて」

 達也が、顔を赤くして否定する。

 口ごもる達也を見、海吏がにやりと笑った。

「ダメだよ、セイリュウ。いたいけな少年をその気にさせちゃ」

「何の話だよ?」

「あーあ……なんていうか……」

 気の毒という言葉は飲み込んで、海吏は、達也に視線をやった。

 達也は、赤い顔を隠すように俯いて、食事をしている。しかし、食事はもう終わるところだったらしく、すぐに箸を置き、食器を重ねた。

「ごちそうさまでした」

「あ、待って、待って!オレもベンキョーする」

 セイリュウが、慌てて残りを口に詰め込む。

 その隣で、頬杖をついた海雷が、呆れたように口をはさんだ。

「お前は、稽古!」

「なんでだよ!なぁ、兄ィ~~?」

 海雷をひと睨みした後で、セイリュウは、眉尻を下げて樹李に助けを求めた。

 樹李は、実に穏やかに笑っていた。

「セイリュウは、今日は稽古」

「兄ィ~~!」

「だーめ」

 穏やかにダメだと言われてしまうと、反論もできない。しかし、セイリュウは、正直に不満を顔に表した。

「あの……」

 やりとりを見ていた達也は、遠慮がちに口を開いた。

「僕、ここで勉強しちゃだめですか?」

「え?」

 少し驚いた顔をして、樹李は、達也を見た。

「え!」

 達也の提案と樹李の反応を、セイリュウは期待を込めて見つめていた。

「ここ、静かだし涼しいし……」

 少しの思案の後、樹李は、諦めたように息を吐いた。

「わかった。いいよ」

 この地を護る者として、それは間違った判断かもしれなかった。達也を巻き込むべきではない。

 しかし、当の本人は、巻き込まれることを望んでいるように、樹李には見えていた。

 全ては、大切な幼なじみのために。

「(――――あれ?)」

 不意に、樹李の内側でジワリと広がる何か。

 喜ぶセイリュウとそれを嬉しそうに見る達也の二人を眺めていた樹李は、体の奥でグルグルと渦巻く想いに気づいて、二人から視線を外し、何を見るでもなく、目を泳がせた。

 海吏だけが、樹李の心の変化に気づいて、静かにニヤリと笑っていた。

 達也は、食器を片づけると、一度、参考書やノートを取りに家に戻った。

 セイリュウは、海吏と海雷と一緒に、朝食の後片付けをしていた。

「この暑い中、走って帰ってったよ、タツヤ」

 海吏がニヤリと笑うと、理解に苦しむとでも言いたげに、海雷がため息をついた。

「物好きだよな~、アイツ」

「もう一人いるけどねェ、物好きが」

「は?」

 海雷は、眉根を寄せて海吏を見やった。

「あれ?」

 皿を片付けていたセイリュウが、海吏と海雷を振り返る。

「そーいえば、兄ィは?」

「兄ィなら、水に打たれてる」

 海雷が、作業の手は止めず、まだ少し眠そうに答えた。

「水?」

「見に行くなよ?水に打たれてる時って、兄ィ、神経質になってる時だから」

 海雷が、静かに忠告した。それが、茶化している訳でなく、真面目な話であることを表していた。

「つーか、どこで水に打たれてるの?滝なんてないよな?」

「そこの森の中。結界作って、水の術を使って。余分なモノ排除して、まぁ、言ってみれば、精神統一?」

 海吏の優しい解説を聞いて、セイリュウは、あぁ、と納得の声を上げた後で、眉間にしわを寄せた。

「兄ィが、精神統一?一番、心乱されなさそうだけど」

 セイリュウの言葉を聞いて、海吏と海雷は、彼女を振り返った後、同時に盛大なため息をついた。

「ナニ?今のため息」

 不服げに、セイリュウは、二人を見上げた。

 朝食の後片付けは、終わっていて、二人は、社の拭き掃除の用意を始めていた。

「そーだな。兄ィより、お前のが、水に打たれた方がいいかもな」

 言いながら、海雷が、セイリュウに、水を絞った雑巾を投げてよこした。

 海吏は、セイリュウの頭を軽く叩いて掃除を促す。

「ハイハイ。余分なものは捨てて、精神統一ね」

「兄ィが戻る前に、終わらせるぞ」

 小さな社が、すっかりきれいになるころには、樹李も達也も戻ってきていた。

 達也がノートやテキストを広げると、セイリュウは、興味津々で彼の隣に張り付いた。

 樹李たちは、外で話をしている。誰が何の稽古をつけるのか、その話し合いだ。

「状況が状況だし、手合せでしょ?」

 海吏が、樹李に確かめる。

 夜叉がセイリュウに近づいた。5年前のことを考えると、いつ何が起きてもおかしくない。

「そうだな。実戦に近い方が、あの子のためだ」

 それを聞いて、海吏は、ニヤリと笑った。

「俺、久しぶりに兄ィの手合せしてるとこ見たいなぁ」

 海雷は、すぐに海吏の意図に気が付いて、悪戯な顔でそこに続いた。

「あ、俺も~。ここんとこ、ずっと俺か海吏だったし」

「何言ってる。俺とセイリュウじゃ……」

 樹李の顔に、明らかな動揺がうかがえた。

「大丈夫だって」

 海吏が、ウソのように爽やかな笑顔で、樹李の肩に手を乗せた。

「そーそー。師匠を乗り越えるのも、醍醐味ってヤツ?」

「実力の差を知るのも、大切だしねー」

「と、いうわけで」

「よろしく、兄ィ」

 樹李は、今更に、二人に嵌められたことに気づいて、小さくため息をついた。

 稽古は、剣術と魔術を合わせたものだった。5年前、夜叉の父親が、杏須を襲った時に使われたのが、剣と魔術だった。

 セイリュウは、初めての合わせ技に、途惑いつつも興味津々のようで、すっかりそちらに集中している。樹李も、初めてのことを教えるのに真剣な表情を見せていて、心を乱される暇もないようだった。

「なんていうかさぁ、さすが兄ィって感じ?」

 心底面白くないという顔で、海吏が言った。

「この手があったのか。水に打たれてただけはあるな」

 感嘆の言葉のはずなのに、海雷の顔に描いてあるのも、面白くないの一言だった。

 縁側に並んで座り、眺める樹李とセイリュウは、完全に師匠と弟子。最初のうちは、樹李が二つを合わせた扱い方を教え、技を放っては受ける、を繰り返していたが、セイリュウはすぐに使いこなしてしまった。

「なぁ、」

 海雷は、眉間にしわを寄せて、少し離れた場所にいる二人を見つめた。

「ん?」

「なんか、呑み込み早すぎねぇ?あいつ、魔術始めたの、春だったよな?」

「んー……そうだね。ちょっと、狙われるワケが分かった気がする」

「自分の力の使い方がわかったら、ちょっと、怖いかもな」

「うん。……まぁ、セイリュウに負けるとか、ありえないけどね」

「な?」

 二人の後ろで、達也が静かに、そして不安げに、そのやりとりを聞いていた。




   

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