3 憧れ
程よくゆるんだ、静けさが広がる空間。木を多く使って作られた町の図書館は、建て替えられてからそれほど経ってない新しい建物だ。玄関ホールと館内を仕切る扉はない。大きなアーチ状の入り口があるだけだ。館内は、張り出した庇が影を作り、外気の熱が直接伝わらないようになっているが、大きな窓が丁度よい明るさを提供していた。
図書館は、余計なものがなく心地よいが、なぜか眠気を誘った。
竜は、テキストとノートから顔を上げて、この一時間で何度目かの欠伸をした。向かいの席で熱心に勉強をしていた達也が、それに気が付いて仕方ないと笑った。
「何か飲みに行く?」
「行くッ」
達也がテキストを閉じるより、竜が彼の提案に乗って返事をする方が早かった。
館内は、夏休み期間ということもあって、小学生や中学生の姿が目立つ。二人が知っている顔も多かった。
「達さぁ、サッカー部の一年と仲いい?」
竜が、ロビーへと歩きながら、横に並ぶ達也に訊いた。
「え?悪くないけど……なんで?」
「や、今朝、神社に呼び出されたんだけど、見たことある顔だったなぁって思って」
「そう、なんだ」
「学年違うのに、見たことあるなんて、達と一緒のときだろ?」
「……かもね」
二人は、二つ並ぶ自動販売機の前で立ち止まった。竜は、ジュースを選びながら続けて訊いた。
「花火に誘われたんだけどさ、達、後輩にアドバイスしなかったか?」
彼女は、別に尋問をしているわけはないし、責めているわけでもない。それは、達也もよくわかっていた。わかってはいたが、達也は、申し訳なさげに項垂れた。
「だって、すごい必死なんだもん」
「お前って、ホントいい奴だよな」
ガコンとペットボトルのジュースが自動販売機の取り出し口に落ちてきた。取り出して、竜が体を戻すと、達也はうつむいていた。
「アドバイスしたのは、アニキがその子と付き合うとかないって、わかってたからで……」
竜と入れ替わり、達也が自動販売機でジュースを買う。竜の目に、彼の背中が妙に淋しげに映った。その訳はわからないが、幼なじみに淋しい思いはさせたくない。
「達といるほうが、楽しいからな」
ロビーに、再び、ジュースの落ちる音が響いた。
図書館の玄関ロビーには、波の形を表すように弧を描いたようなデザインのソファーが、背中合わせに置かれている。そこで休憩しようと歩く途中、竜は、不意に足を止めた。
「どうしたの?」
達也が、一歩先から振り返って首を傾げた。竜は、館内の方を振り返っている。
「今、」
竜が、誰にともなく呟いた。
確かに、今、妙な感じがしたのだ。自動ドアが開くのに合わせて外気が入り込むかのように、今、ふわりとかすかな風が起こり、竜の鼻先をかすめていった。その時、独特の香りのようなものがあった。今まで感じたことのない空気だった。
何人かが、館内に入っていく。ただ、それだけの光景だ。
「今?なに?」
再び問いかけられて、竜は、視線を戻し、首を傾げた。
「一瞬、変なカンジがした気がするんだけどなぁ」
答えるというよりも、独り言のように言って、近くのソファーに、館内が見える形で座った。
「変な?」
竜の隣に座り、達也は訝しげに眉を寄せて、彼女の顔を覗き込んだ。竜は、真剣な表情で、図書館の入り口を見つめている。
「アニキ?」
「今……」
呟いて、竜は、思案するように少しばかり唸った。
「なんか今、図書館と不釣合いな恰好の奴がいた」
「え?」
達也がきょとんとした顔で入口へと視線をやる。今見えるのは、夏らしいラフな恰好をした人たちばかりだ。
「不釣り合いって……なに着てたの?」
「なんっていうか……ロックな感じ?バンドとかしてそうなヤツの恰好。顔はよく見えなかったけどな」
「別に、バンドする人が図書館に来ないわけじゃ……」
「でもなぁ……違和感だったんだよなぁ」
自分の鼻先をかすめていった、独特の香りのようなものと、目に留まった、図書館と不釣合いな恰好の奴が、無関係とは思えなかった。
少しだけのどを潤して、竜はペットボトルのふたを閉めた。
「よし!」
気合いを入れて、竜はニッと笑って達也の方を振り向いた。
「捜しに行こう!」
「は?」
達也は、飲もうと口元まで持っていったペットボトルを元に戻し、ぽかんと竜を見つめた。
「だーから!今の奴を捜してみよう」
「えっと……捜して、どうするの?」
「どうって、声をかけてみる」
「声かけるって……だって、知らない人でしょ?」
達也は、目を丸くした。十四年そばにいるが、竜にはいつも驚かされる。思いもよらないことを言い出すし、考えもしないことをやろうとするのだ。それも、迷いなく。
「いいじゃん。行くぞ!」
こうやって、半ば強引に誘ってくる竜は、それでも自分が来るのを待ってくれる。その姿がいつも、一緒に行かなければ、という気にさせた。
達也は仕方ないというように、ため息をついて立ち上がった。
再び戻った館内には、変わらない静けさが広がっていて、夏らしいラフな恰好の人ばかりに見えた。確かに、竜の言うような恰好の人間がいれば、違和感はともかく、目立つだろう。
ちょうど竜の頭と同じ背丈の本棚を、横に眺めるように歩いて、違和感のあった人物を探す。
本棚は、窓に向かって同じ間隔で垂直に並んでいるため、あの人物が本を探していれば、見つけられるはずだ。
「ねぇ、アニキ?ホントに声かけるの?」
「ん?あぁ、まぁな」
「いい人じゃないかもしれないよ?迷惑がられるかも」
「気が合うかもしれないだろ?」
「(ホントにポジティブ……)」
「俺の予想だと、あいつは音楽の本のことにいるはずだ」
愉しげな幼なじみに、いつも知らない間に乗せられている。
「雑誌のコーナーにはいなかったもんね」
「雑誌なら、本屋に行くだろ?」
「あ、そっか」
いつの間にか、達也も真剣に探し始めていた。
竜が予想した捜し人のいるだろう棚は、入り口とは反対側、一番奥にある。
しかし、そこへたどり着くより早く、二人は足を止めた。
「いた……」
竜が呟く。
見つけたのは、目星をつけた音楽の棚より手前の、歴史の棚だった。
「……ホントだ」
達也の目にも、竜が言った通りの『違和感のあるバンドマン』が映っていた。
竜は、何のためらいもなく、むしろ嬉しげに目的の人物へ一歩を踏み出した。距離は縮んで、竜が声をかけようと口を開く。
「ねぇ、」
肩にかかるストレートの黒髪がさらりと揺れて、優しげな瞳がこちらをとらえた。
「(あれ……?)」
この瞳を、自分は見たことがある。竜は、体の内側でざわつくなにかを感じた。何かの感情――――少なくとも、プラスの感情ではなかった。
捜し人が、体ごと、こちらを向いた。
竜の体の内側で騒ぐなにかが、大きく広がっていき、そして――――直後、画面が乱れるように視界が歪み、後ろへと強く引っ張られた。
「へ?」
訳が分からないうちに、視界はすぐ元に戻った。しかし、そこは、先ほどまでいた町の図書館ではなく、樹李たちの住む神社の裏だった。
状況が、把握できない。今のは一体なんだったのだろうか。
「あれ?なに?どうして?」
目の前にいたはずの捜し人もいない。そして、
「あっ!達……!」
少し後ろにいた幼なじみを思い出して慌てて振り返るのと、すぐそばで、盛大なため息をつかれたのが、ほとんど同時だった。
「兄ぃ、
振り返った先で、疲れたような表情の二人がいて、達也は樹李の小脇に抱えられていた。
「達っ、よかったぁ」
少しずつ理解できてきた。理由は分からないが、どうやら、樹李と海吏の二人が、あの瞬間、図書館からここへと自分たちを連れてきたらしい。そして、今、二人はなぜか項垂れている。
「お、まえなぁ~~~~!」
古い社の方からした声は
「危ね……!」
竜がとっさに避けて、海雷の拳は空を切った。
「避けんな!殴らせろ!」
「嫌に決まってんだろ!ふざけんな!」
殴られる理由が分からない。おまけに、いつもならすぐに止めに入るだろう樹李もその気配は見られない。素知らぬ顔で、抱えていた達也を下ろしている。
「ワケを話してあげたら?そしたら、素直に殴られてくれるかもよ?」
呆れ顔の海吏がそう言って、もう一度ため息をついた。
「は?俺、何かした?」
殴られるほどのことをした覚えなどない。訳が分からず、海吏と海雷とを交互に見やる。
「図書館で、さっきなにをしようとしてたの?」
海吏の呆れ顔が、冷たいものに変わっていく。問いかけというより、むしろ尋問だ。余計に訳が分からない。竜は、戸惑い気味に答えた。
「え?声、かけようとしてたけど?」
「誰に?」
「なんか変なカンジがしたなぁって思ったら、図書館に来るにはちょっと不釣り合いっていうか、そーいう奴見かけたから、そいつに」
「あのさぁ~……」
海吏は、額に手をやり、三度目のため息をついた。
「もうちょっと、自分が周りの中学生と違うって自覚してくれる?俺たちとこうやってつるんでて、魔術とか使えちゃう奴が変だって感じたら、それ危ないってことだからね?」
「だって、そんなカンジに見えなかったからさぁ……なぁ?」
達也に同意を求めると、少しばかり視線を泳がせた。それを見た海雷が、ふんと鼻で笑った。
「だから言ったろ?竜には、危機感が足りねぇって。タツヤの方がよっぽどしっかりしてる」
「お前ら、そいつのこと見てねぇだろ?!勝手なこと言うな!」
「目の前で、のほほ~んとしてたお前より、情報量あるっつーの」
海雷が、またバカにした顔で竜を見下ろした。
「なんだよ、えらっそーに~~~~!」
「なんだ?やるか?」
「あぁ、今日こそ叩きのめしてやる!」
今にも殴り合いを始めそうな二人を見て、それまで静観していた
「やめなさい。主旨が変わってるから」
「だって、兄ィ!海雷が!」
「竜、もう少し慎重に行動すべきだったよ」
静かに説き伏せられ、竜は項垂れた。それを見て、海吏も海雷も得意げに笑った。
しかし、樹李の言葉はそこで終わりではなかった。
「海吏も海雷も、あれだけ心配してたんだから気持ちは分からなくないけど、もう少し、言葉を選びなさい」
いつもからかったり、けんか腰だったりするだけに『心配』というワードを聞くと何となく照れくさい。海吏も海雷も、気まずそうにそっぽを向いた。
「え?心配?なんで?なにを?」
きょとんとした竜に視線を向けられて、海吏も海雷も言葉に詰まった。正直に心配していたことを表すなんてことはできない。できないが、だからといって、竜は答えを諦めないだろう。
「だからね……」
「あのっ……」
竜が訳を察してくれることをあきらめて、海吏が再び説明しようとしたとき、達也が意を決したように言葉を遮った。
「やっぱり、危ない人だったんですか?僕たちが捜してた人」
不安げな表情をした達也を安心させるように、樹李が微笑んで、彼の肩に手を置いた。
「とりあえず、中に入ってお茶でも飲もうか。話は、それからにしよう」
風の通り道になっていて涼しいこの場所で、日陰を作る縁側に入るとそれだけで今が夏ではないような気さえした。
竜と達也は、古い社の中で、樹李と向き合っていた。海吏がお茶を運んでくる。グラスに滴が付いていて、その温度を知らせていた。
海吏は、海雷がいる縁側に、彼との間にお茶のグラスを乗せた盆を置いて座った。
「兄ィ、俺が図書館で会ったのって……誰?兄ィ、知ってるの?」
「知ってるよ。……お前と、因縁がある男だ」
「いん、ねん?」
訳が分からず眉を寄せる竜の横で、達也が不安そうな顔をしている。
「竜、お前には、前に話したことがあったよな?こことは違う世界のこと。あの男は、この世界の人間じゃない。こことは異なる世界から来た」
「違う、世界……。そんな奴が、何で俺と因縁があんの?」
樹李は、表情を曇らせ、視線を落とした。因縁、という言葉の響きから考えても、樹李の曇った表情を見ても、それは、いい情報ではないと察しがつく。少しの不安を滲ませて、竜は再度、答えを求めた。
「兄ぃ?」
「……アンスさんは、あの男の父親に殺されたんだ」
樹李の表情から感じ取れる、強い後悔。竜は、胸がチクリと痛むのを感じていた。痛みは、じわじわと形を変えていく。苦しいほどの憎悪、そして後悔――――自分が、戦えるくらい強ければ。
脳裏に鮮やかによみがえる、あの日の映像。真っ白な雪と赤黒い血液。
「アニキ?」
達也の声で竜は我に返った。気付けば、達也が心配そうに眉尻を下げて、こちらを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「……あぁ、悪い」
安心させるための笑顔も返せない。竜は、少し冷静にならなければと、自分に言い聞かせる。
「竜……」
樹李が、静かに名前を呼んだ。
「まだ子供のお前にこんなことを伝えるのは酷かもしれないが、あの時狙われたのは、アンスさんじゃない。お前なんだ」
心臓が、ドクンと大きく音を立てた。竜は、体の内側で、なにかドロドロしたものが広がっていくような気がして、胸のあたり、服をつかんだ。
「……父さん、俺のせいで殺されたの?」
口から出たのは、ひどく苦しげな音で、自分の声ではない気さえした。
「竜のせい、というか……正確には、すこし違うけど……」
「……俺の……」
竜は、ゆっくりと項垂れて、湧き上がる色々な感情に耐えていた。そこに、縁側から、ため息が一つ聞こえてきた。次に聞こえたのは、無遠慮な足音。それが近づいてくるのが聞こえたと思った瞬間、パシンッと小気味よい音と共に、後頭部に痛みが走った。竜が、何事かと振り返って相手を確かめるのと、縁側で海吏が吹き出すのとが同時だった。
「何すんだよ、海雷!」
そこにいたのは、腕組みをして立つ海雷だった。
「へこんでる場合かよ、アホ!」
眉根を寄せた彼の表情は、怒りではなく激励だと、竜にはなんとなくわかった。いつも、おちょくるかけんか腰の相手に、ストレートにでなくても励まされれば照れくさい。すこしだけ、先ほどの二人の表情の意味が、竜にもわかった気がした。
「だからって、叩くなよ。まったく……」
呟いて、傍らに立つ海雷を睨みあげてやる。
「ようするに、お前は狙われてんだよ。なら、やんなきゃなんねぇことは一つだろ」
海雷から返されたのは、強気な笑みとポジティブな声音だった。
縁側で、海吏が半ば呆れたように笑っていた。
「勝負だ、竜!」
強くならなければ――――竜は、応えるように立ち上がった。
「えっ……ちょっ……」
止めようとする達也の声は、すでに届かない。二人はもう庭先にいて、何で勝負するか話していた。
「……僕、図書館に荷物を取りに行ってきます」
竜が、こうと決めたことに、自分はノーと言えない。竜が決めたことに間違いはないと信じているから。その決定が、自分にとって心配のタネになったとしても。
海雷と愉しげに言い合う竜に気づかれないように、達也はそっと踵を返した。
「俺も行くよ」
肩を叩かれ、降ってきた海吏の声に、達也はムスッとした表情で振り向いた。
「俺たちにシットするのはわかるけど、荷物二人分を、こんな暑い日に図書館からここまで運ぶのは大変だと思うよ?」
すべてわかったような顔で見下ろされ、達也は顔を赤らめた。
「シッ……シットなんかしてませんよ!」
「あははッ。若いねぇ~。さぁ、行こうか」
海吏は達也の肩に手をやると、空いているほうの手でスッと宙を下から上へと撫でた。
小さな水音が足元からしたと思ったら、二人を囲うようにして、薄い水の膜が円柱状に吹き上がった。
「うわっ」
達也は、思わず両腕で顔を守るようにして目を閉じた。
水音はすぐに止み、達也が恐る恐る目を開けると、もうそこは図書館の前だった。達也は我に返り、あわてて辺りを見回した。正面ではなく、裏の通用口前だ。人はいない。
「心配しなくても、人に見られるなんてミスはしないよ」
さっさと歩きだした海吏は、相変わらず涼しい顔をしている。
「あのっ」
達也は慌てて追いかけた。横に並び、必死に睨みあげてみる。
「荷物持ちなんて親切心じゃないんでしょ?なんで、ついて来たんですか?」
「ひどいなぁ。親切心なのにぃ」
「騙されません!」
「なんか、ホント俺たちタツヤから嫌われてるよねぇ?」
不思議そうに言う海吏に、達也は苛立ちつつも、一呼吸おいて落ち着いた風に答えた。
「別に……嫌ってません」
「俺たちはねぇ、リュウを守りたいだけなんだよ」
「え?」
「5年前はできなかったからねぇ」
海吏の声が、いつもより哀しげに響いた。表情は変わらないのに、なぜだか切なく感じる。それ以上は何も聞けず、達也は黙って歩いた。
「荷物の前にさ、ちょっと……いい?」
「あ、はい」
ついて行った先は、先ほど、竜と一緒に、例の男を見つけた場所だった。
「どうかしたんですか?」
「ん~……」
海吏は、少しだけ首を傾げて前方を見つめている。ゆっくりと首を向けた先は、自分たちが席を取っていた方向だった。
「向こう、か……」
独り言を呟いて、海吏はさっと歩き出した。訳が分からないまま、達也は慌てて後を追った。海吏は、時折立ち止まりながら、本棚の間を迷路のように歩いていく。
「お?」
たどり着いたところで、海吏は驚いたように声を上げた。
達也は、そこが自分たちのいたテーブルだったので、彼の行動の意味が更に分からなくなった。
「なんだったんですか?」
「あいつの歩いた後を辿ったんだけど……ここに来て、消えてる」
海吏の表情は真剣なものに変わり、腕組みをしてテキストやノートが広がるテーブルを見つめた。
「あの、海吏さん?」
「うん。とりあえず……」
海吏は達也を振り返り、にっこり笑った。
「早く戻ろうか」
「あ、はい」
「竜のカバン、これ?」
「そうです」
疑問を残したまま、海吏に合わせるように、達也はテキストを片付ける。二人は、来た時と同じようにして神社へ戻った。海雷と竜は、まだ、剣を使っての手合せの最中だった。言い合いながらやる二人は、手合せというよりも、ただケンカしているようにしか見えない。
「にぎやかだねぇ。集中してるんだか、してないんだか」
海吏は、持っていた竜の荷物を縁側に置いて、庇が日陰を作るそこで、二人の勝負を見守る。
達也は、縁側に座る樹李の隣に腰をおろし、彼に尋ねた。
「……あれ、ホンモノですか?」
「そうだよ。自分の剣を使ってる」
辺りに、金属同士がぶつかる高い音が響いていた。
「海吏、図書館はどうだった?」
樹李が海吏の背中に問いかける。
「うん。やっぱり、竜が目的だったみたいだよ」
「そうか……。全く、今さらだな」
「まぁ、向こうにも、それなりに準備がいるからね」
「一人だったか?」
「たぶんね。一人分しか感じなかったよ」
樹李と海吏のやり取りを聞いて、達也は不安を募らせていた。少し前に社の中で見た竜の強張った表情。そして、海雷と言い合いながらも、見たことのないくらい真剣な、今の顔。彼女のことが心配なのに、何もできない気がする。なにが起きているのかもわからないのが、とても嫌だった。せめて、状況だけでも知りたい。
「あの人、図書館にいたのが誰なのか、聞いてもいいですか?」
「う~ん……聞かない方がいいかもよ?」
振り返った海吏が、困った顔をして笑っている。
「タツヤは、一般人だからね」
「アニキだって、一般人ですよ!しかも、女の子だし……」
達也がムキになって反論すると、海吏は面白そうに笑って、戦う二人へ視線を戻した。
「そーだね。時々忘れるけど、女の子だったねぇ」
「ごまかさないで、教えてください」
再度、達也が聞くと、樹李も海吏も、そろって口を閉ざした。
「どうして、何度もアニキを狙ってくるんですか?」
「ホント、何でこんなに狙ってくるんだか」
呆れたように海吏が呟く。
「剣じゃ俺にも勝てないし、武術も魔術も、海雷には勝てないし」
「でも……」
海吏の言葉を繋いだのは、樹李だった。
「あの子は、紋章を持ってる」
「もん、しょう」
達也は、首を傾げた。説明しようと口を開いた樹李を遮るように、海吏が声を上げる。
「も~!兄ィ、喋りすぎ!タツヤは一般人」
「だけど、あの子の友人だ」
「だからってねぇ、兄ィ?……あ」
咎める声だけが樹李に降ってきて、そして、海吏の興味は、彼の視線の先、勝負の行方へと移ってしまった。
達也も樹李も海雷と竜へ視線をやると、どうやら勝負はついたらしかった。背を地面につけ、空を仰ぐ竜と、彼女の首筋にぴたりとつける形で地面に剣を突き刺し、馬乗りになる海雷がいる。
「へぇ、いつの間にか海雷がマジになってる」
息を整えているのだろう。動こうとしない二人に、海吏は笑顔で近づいて行った。
「いつまでそーしてんの?」
仲良しだね、と意地悪な顔で二人を見下ろす。
海雷が、大きく息を吐き、地面に突き刺していた剣を引き抜いて立ち上がった。真剣な表情を崩さないで、じっと、倒れこんだままの竜を見ている。
「海雷?」
からかわれても反応がない相棒を、海吏は不思議そうに覗き込んだ。
「一瞬こいつ……奇跡起こしたぞ」
真顔で返す海雷のセリフに、海吏はたまらず吹き出した。
「奇跡って……」
おなかを抱えて笑いだす海吏を見て、竜は、ムスッとした顔で体を起こし立ち上がった。
「素直に、腕が上がったとか誉めらんねぇのかよ」
「あれがお前の実力とか、俺は認めねぇからな」
けんかを始めそうな二人に、海吏が口をはさむ。
「ていうかさぁ、海雷、めずらしくマジになってたねぇ?」
どうしたの?と心底不思議そうに、海吏は海雷を見つめた。
「いきなり目つき変わったんだよ。目つきっつーか、雰囲気か?」
答えながら、海雷は、日陰を求めて縁側へ歩いていく。竜と海吏も後を追った。
「え~?まさか、見とれたの?」
海吏が意地悪に問う。
海雷は、疲れたように縁側に腰を下ろした。
「見とれるかよ。雰囲気変わったって思ったら、コイツの左手が光ってたから」
樹李が、海雷に水を一杯差し出す。
「その時だけか?」
「あぁ、うん。今は、いつもの竜だよ。見てわかると思うけど、手も光ってないし」
樹李は、竜にも水を差しだして、姿を確かめるように、少しの間じっと彼女を見つめた。
「稽古をつけてるときに、海雷の言うように、時々、雰囲気が変わることがある。それが、ここ最近は増えてるんだよな」
「そういえば、さっき左手が熱かったかも」
言われてみれば、と、竜はまじまじと自分の手を観察する。
社を囲う木々が、ざわざわと音を立てて揺れる。風が、彼らのいる縁側にも届いた。そして、風と一緒にもう一つ――――。
――……竜――
声が聞こえた。
竜が、手を空にかざすように顔より高く掲げた時だった。竜は、目を僅かに見開き、動きを止めた。
「……声……?」
呟いて、竜は立ち上がった。
目の前の、風に揺れる木々を見つめる。
――……りゅ、……竜――
もう一度聞こえて、竜は、眉を顰めた。
「どうした?竜」
樹李の声にも答えず、竜は立ち尽くしていた。
「(今の、父さんの声だけじゃなかった)……誰?」
近くで海吏たちの声がして、続いて、樹李と達也の声がしている。しかし、応えることができない。頭がくらくらしていた。体内の血液が、頭の方から消えていくような感覚。意識を手放しそうになるこの感覚は、覚えている。終業式の日に経験した。
――……セイリュウ――
父親の声に重なるようにして、もう一人、名前を呼ぶ声がする。
「(誰が呼んでんの?誰のこと……?)」
頭の中が、真っ白になっていく。
――セイリュウ……――
もう一度、はっきり呼ばれたところで、竜の意識は途切れた。
ゆっくりと、彼女が目を覚ます。
達也と樹李が、安堵の息を吐いた。
「大丈夫?」
達也の声に、ちらりと視線をやって、そして、彼女は眉を顰めた。
「大丈夫……だけど、だれだっけ?」
そこにいた全員が、信じられない思いで彼女を見つめた。
海吏と海雷は、そっと、達也の様子を窺った。おそらく、この場で一番彼女を心配しているであろう彼が、この状況に、どう反応したかが気になった。
達也は、信じられないというように目を見開いた後、一瞬、悲しげな表情を見せ、そして、静かにうつむいた。
「あれ、怒ってる……よね?」
海吏が、海雷にそっと囁いた。
「それ、たぶん俺たちに、だよな?」
「たぶんね……」
二人はそろってため息をついた。
「なんで、オレ、寝てんの?」
天井を見つめて不思議そうに尋ね、体を起こす。そして、彼女は大きく伸びをした。
「手合せの後で、倒れたんだよ。覚えてない?」
樹李が、優しく微笑んで答えた。
「手合せ?」
「お前が負けたんだよ、リュウ。まぁ、聞かなくても勝敗なんてわかるだろうけど」
海雷の小ばかにした態度は、彼女を煽るのに十分だった。
「うるせーよ。つーか、名前を略すな!」
「あ?」
返された言葉の意味が分からず、海雷は、眉間にしわを寄せた。
海吏が、代わりに疑問を投げる。
「名前、略しようがないでしょ?リュウ、なんだから」
「だから、略してんだろ?」
「なんだよ、フルネームで呼べってか?」
「あ?フルネーム?」
お互いの話が通じない。海吏と海雷は顔を見合わせ、達也は、不安げに幼なじみを見つめた。樹李だけが、思案顔で視線を斜め下へと落としていた。
「………セイリュウ?」
確かめるように、樹李は名前を呼んだ。
「なに?」
当たり前のように、彼女は返事をした。それを聞いて、樹李はすべてを理解した。彼女が誰であり、一体何が起きたのか。
「タツヤ、セイリュウのことちょっと見ててくれる?海吏、海雷、」
樹李は、二人を外へと促した。
彼女に起きていることは、過去に起こったことと、今後、起きるであろうことに関係がある。海吏と海雷には、知らせなければならないことだ。
樹李は、二人を一つの木の前に連れて行った。手合せをする場所を見守るようにしてある、一本の木を見上げる。そこは――――。
「この木には、アンスさんがいる」
樹李の言葉に、二人は、そろって眉を顰めた。
「え?なに?」
「兄ぃ、大丈夫?」
アンスは、竜の父親だ。5年前に亡くなっている。
「昔、あの人に言われたんだ。もし、自分が死ぬようなことになったら、俺はここであの子を護りつづけるって。だから、ここにいさせろって」
アンスの口調は軽かったし、そんな大事になるとは思ってなかった。樹李はあの時、軽い気持ちで、「いいですよ」と答えたのだ。
「そんなことが起きるなんて、考えてもみなかった」
この神社で遊んでいたあの幼い子が、本当に命を狙われるなんて、想像もできなかった。
「海吏、海雷、あの子はセイリュウなんだ。ずっと竜の中に隠されていた、紋章を持つ者なんだよ」
海吏と海雷の頭の中は、混乱していた。
「ん??リュウが紋章を持つ者なんじゃないの?だから、狙われたんでしょ?」
海吏の疑問に、樹李は、簡潔に答えた。
「違う。紋章を持つ者の名前は、セイリュウだ」
「隠されてたとか、どういう意味だよ?だって、あいつは、あいつだろ?」
海雷は、社を振り返った。あそこで、今まで寝ていたのも、手合せをしたのも、目を覚ましたのも、どれも同じ人物だ。
「セイリュウが、セイリュウのまま存在しているというのは、万人がその価値を知っている宝を、無防備に置いているようなものだ。もっとわかりやすく言えば、『私は、多額の金を持ってます』って札をぶら下げて歩いているようなもの。だから、隠したんだよ。あの人、そういうのだけ筋が良かったから」
「あー、なんか覚えてる」
思い出したように、海雷が声を上げた。
「自分ができるのは、料理だけだって、胸張って言ってたよな。魔術は使えないって。この人、どうやってここに来たんだって思ったもん」
「そんな、自分の子より戦闘力ないような人が、セイリュウを矢沢竜として、EARTH界の人間として生きられるようにしていたってこと?」
信じられないと言いたげな海吏の解釈に、樹李は一つ頷いた。
「あの子の父親だよ?一度決めたら、譲らないし諦めない。それが、アンスさんなんだ」
海吏と海雷は、目の前の大木を見上げた。
「えーっと……今、あれがセイリュウだってことは……」
海雷の言葉を、海吏が続ける。
「パパが隠してたものを出してきたと」
「そう。その力が必要だってことだ。紋章の力が」
樹李の結論に、海雷は、大木を見上げたまま不満そうな顔をした。
「それって、俺たちの力を信用してないってことでいいわけ?」
樹李が、声を立てて笑った。その反応に、海雷は不服気に続けた。
「いやいや、笑いごと?」
「俺は、それだけ強大な力に狙われるんだって思ったから。そうか、信頼か」
くくくっと抑え気味に笑う樹李に、二人は訝しげな顔をした。
「だから、されてないって話でしょ?」
海吏も不服気だ。
「されているさ。俺たちが、必ずあの子を戦うことができるようにしてくれるって、あの人は、信じていたんだよ。自分がいなくても、味方になってくれる存在があることも、その環境も。俺は、それに応えたい」
彼らの周りを風が通る。それは、まるで彼らを包むような風だった。
「あいつが出る幕はないってことを思い知らせてやるよ。な、海吏」
「俺たちだけでも、十分でしょ」
三人は、社へ戻った。
そして――――。
「俺の目がおかしいのかな?仲良くなってない?この二人」
海吏が、小首を傾げて言った。
「ついさっきまで、赤の他人面してたよな?」
海雷も、理解できないという表情で、社の中、セイリュウと達也を見つめた。二人は、笑顔を浮かべて話をしている。何ということのない、いつもの二人の様子だ。それが、今は、不思議に映る。
樹李だけが、にこやかに社内へ入っていった。
セイリュウは、浮かべていた笑顔をそのままに彼の方を振り向いた。
「あ、おかえり、兄ィ」
「ただいま。楽しそうだな」
「うん。タツヤ、兄ィと友だちなんじゃん。早く言ってよ」
「あぁ、紹介したことなかった?」
「ないっ!」
和気藹々とした雰囲気を、海吏も海雷も呆れた様子で眺めて縁側に腰を下ろした。
「タツヤがさぁ、家に泊めてくれるって。一週間、行ってきてもいい?」
セイリュウの顔は、肯定を期待している顔だった。ダメと言われることは、おそらく、想定していない。それは、樹李にもよくわかった。
それでも、一つため息をついてみる。
「わかった。楽しんでおいで」
「やったぁ!」
異世界からの侵入者のことなど、すっかり記憶にないセイリュウは、ただ喜んでいる。それを海吏と海雷は、呆れたように縁側から見つめていた。
「この状況で、遊びに行く気だぞ、あいつ。どうするよ?」
「もう、ほっとけば?何かあれば、さすがにすぐわかるでしょ?」
15歳の、忘れられない夏が、始まった。
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