2 夏休み
夏休み直前の学校は、浮足立つ空気に満ちている。受験生だろうと関係はない。
「俺、明日から何しよう?」
竜が独り言を呟けば、周囲が呆れたように笑った。
「何しよう?じゃねーだろ?勉強あるっての」
「呑気だよなァ、竜は」
「お前ら、さっきまでカラオケ行く話してなかったか?」
「竜も行く?」
終業式とLHRだけで、今日の予定は終了だ。
賑やかに生徒が体育館へと流れていく。
――……竜
吹き込む風に乗って、声が届いた。
クラスの一番後ろを歩いていた竜は、聞こえた声に足を止めた。
「竜?」
不思議そうに聞くクラスメイトに応えようと息を吸い込んだとき、ぐらりと視界が揺れた。体の力が抜ける。竜は思わず、膝をついた。
「竜?!」
「おい、大丈夫かよ?!」
周囲が騒然となっていく。
大丈夫じゃない――――そう答えたいのに、苦しくて声が出ない。視界は、画面がフェイドアウトしていくように、徐々に暗くなっていった。
クラスメイトの声は遠ざかり、逆に強くなる呼び声。はっきり聞こえ始めたその声は、やはり父の声だった。
――……竜
懐かしい声。
――……竜
大好きな父の声。
何でも教えてくれた、かっこいい父。
――……せ……竜
呼びかける声が、今までと違う。
「(あれ……?)」
いや違うのではない。今まで、呼んでいるのは自分の名前だと思っていただけだ。
誰を呼んでいるのだろう――――聞きたいのに、声が出ない。
「(父さん……?)」
不意に浮上していく意識。闇は、ゆっくりとオレンジの明かりへと溶けていく。それが瞼越しの明かりと気づき、竜は、目を開けた。
白い天井と蛍光灯、そしてクリーム色の仕切りカーテン。ここが学校で、保健室だと、すぐに理解できた。
「……終業式」
「終わったよ、もう」
笑い声に交じって聞こえたのは、幼なじみの声だった。
「たつ……」
ベッドサイドに彼の姿を確認して、竜は、半身を起こした。
「みんな心配してたよ」
「明日の天気を、か?」
落ちを予想して続ければ、彼は笑いながら「よくわかってるじゃん」と答えた。
安堵したような微笑みで竜を見る彼の名前は、草谷達也。竜の同級生、クラスメイト、そして、幼なじみだ。竜よりも少し小さい背と、穏やかな性格そのままの愛らしさが残る容姿。竜の隣にいることが、それをより強調していて、学校でも密かな人気があった。
達也とは、親同士が仲が良かったせいもあり、生まれてからずっと一緒だった。
竜を、「アニキ」と慕う、竜とは正反対の幼なじみだった。
「でも、ホント心配してたよ?アニキが倒れるなんてさ」
「あぁ。具合ワリィとかじゃないんだけどな。俺のこと、誰が運んでくれたの?」
担任だろうか、と考えていると、達也が小首をかしげた。
「大丈夫?」
「何が?」
すれ違った会話に、竜は眉を曲げた。
「覚えてない?神木先生に支えられて、だけど、アニキ、自分で歩いて保健室まで来たんだよ?」
「え?……歩いた?」
「うん。おでこ押さえて、具合悪そうなカンジで」
記憶をたどってみても、視界が閉ざされた後のことは、まるで分らない。もちろん、歩けるような状態だとは思えない。
「ホントに……大丈夫?」
眉尻を下げて、達也が竜を覗き込んだ。
「たぶんな」
体におかしなところはない。苦しいところも、痛いところも。
しかし、先ほど父が呼んだ名前といい、今の記憶といい、何かおかしい。
「あれ?つーか、もう放課?」
達也の手に、カバンが見える。
「うん、アニキ戻ってこないから、カバン持って迎えに来たんだよ?」
「サンキュ」
「神木先生が、成績表取りに来いって」
「え~。いらねぇよ。それより腹減ったなぁ……」
「帰ろ?」
学校には、まだ少し生徒が残っていて竜に声をかけていく。
倒れたことをからかう軽口に、笑いながら応える。
昨日から、一体自分に何が起きているのか、少しの不安を感じながら。
「ねェ、アニキ?」
「ん~?」
「夏休み、どうすんの?」
達也が聞いてきたのは、神社の近くまで来た時だった。
「終業式の前も、それ話したんだよなぁ」
「そうなの?」
達也は、このとき、廊下を行く列の前方にいたのだ。
「たつは?部活……は、引退か」
「うん」
「あいつらは遊ぶ話しかしてなかったけど、やっぱ、勉強すんの?」
「まぁね。アニキ、一緒に勉強しようよ」
竜は、足を止めて自分の左を振り仰いだ。荘厳な姿で立つ大鳥居。
昨日、樹李と同じ話をした。夏休みは、どう過ごすのか。
「去年は、ここに入り浸りだったな」
懐かしむ竜を振り返り、達也は表情を曇らせた。
「今年も?」
「ん~……今年は、受験があるからなぁ」
竜の言葉に、達也は表情を輝かせた。
「アニキ、志望校どこ?」
「一応、兄ちゃんと同じとこ」
「望さんと同じって……緑桜高?」
竜には、二歳年上の兄がいる。竜が父親似なのに対し、兄は、母親似だ。おっとりしているが、芯は強い。
「家から近いからな」
「僕も同じとこ」
「一緒に勉強すっか」
「うん!じゃあ、明日図書館行こ?迎えに行くよ」
達也は、竜の腕を取り、早く帰ろうと急かした。
しかし――――。
「あ、またサボってる」
「タツヤを道連れにすんなよ」
鳥居の方から声がして、竜が足を止めた。達也は、聞こえてきた声に眉根を寄せた。
「海吏、海雷……。今日は、終業式!もう学校は終わったんだよ」
サボってない、と憤る竜を見て、海吏と海雷が愉しげに笑った。
「じゃあ、今から暇だよな?」
「ひと勝負どう?」
竜を見る二人の笑顔が、意地悪に変わる。
「学校帰りなんだよ。ヒマじゃねぇ」
「学校終わったんでしょ?なら、ヒマじゃん」
「お前らの相手してるほど、ヒマじゃねぇって言ってんの」
いつもと変わらないやり取りをする三人を見ていて、達也は無性に腹立たしくなった。
今日の竜は、少し様子がおかしいし、今までも、彼らといると彼女は必ずどこかしらケガをする。彼らといるせいで、危ない目に遭っている気がしてならないのだ。それに、彼らがいると、何だか自分は一人かやの外だ。
なのに、竜はむくれ顔をしながらも、どこか楽しげだ。
「あのッ!」
口調を荒げて、三人の間に割って入る。
彼の珍しい声音に、竜は驚いて達也を振り返った。海吏、海雷の二人は、相変わらずのニヤケ顔で達也に視線を向けた。
達也は、二人のこの表情も嫌いだった。すべてを見透かされている気がする。
「アニキにヘンなことしないでください!」
「ヘンなことぉ?」
海雷が、目を丸くしている。
達也の言い方は、今までのことに対してではない。今日起きたことに対して向けられている。しかし、二人は、今日はたった今二人に会ったところだ。
海吏は、ニヤケていた表情を少しばかり引き締めて、達也を見た。
「たとえば、どんな?」
「いつもいつも、アニキのことからかってるし……。今日だって、学校で倒れたんですよ?!」
達也の言葉に、海雷もようやく表情を真剣なものに変えた。
「倒れた?」
「それに、倒れた後のこと覚えてないし……」
海吏と海雷は、顔を見合わせた。竜が手合せ中に『声』を聴いたのは、つい昨日のことだ。
「何があったの?」
海吏が竜に訊いた。
「達が言ったろ?倒れたの」
「なんで?」
「知らないって。父さんの声がして、聞こえたと思ったら倒れたの」
達也も海吏も海雷も、そろって妙だと感じているのに、当の本人は、何の危機感も感じてない。
「体調ワリィとかじゃないんだな?」
海雷が、真剣な表情で確かめる。
「俺は、絶好調」
海雷に目配せをした後、海吏は、危機感を持ってない竜にではなく達也に向き直り、優しく微笑んだ。
「心配かけてごめんね。こっちもちょっと警戒しとくから。また、何かあったら教えてくれる?」
「こいつじゃ、あてになんねェしな」
海雷が、少し力を込めて竜を小突く。
竜はそれを、むくれ顔で振り払った。
「うるせーよ」
達也は、警戒心に戸惑いを滲ませて海吏と海雷を見つめた。
「……わかりました」
「達、どうせ教えるんなら、こいつらじゃなくて兄ィにしとけよ?」
言葉を切り、竜が二人をむくれ顔のまま睨みあげた。
「あてになんねぇから」
「聞いたかよ、海吏」
「負け惜しみって言うんだよ?受験生」
余裕綽々の態度が、竜をさらに苛立たせていた。
「負けてねェ!」
「お?やるか?」
にやりと笑って、海雷が竜を煽る。
竜がそれに乗せられるより先に、達也が彼女の腕を引いた。
「帰るんじゃないの?アニキ」
「お?あぁ、そうだった。じゃあな、俺たち帰る途中なの。また、今度な」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます