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「ALTERNATION」
交互に変動する、たとえばゼロとイチの信号によって、この世界は成り立っている。
俺はそう考えた。自信は無い。オッカムの反応も無い。
「仕方ない、か」
エクリン先輩はヘルメットに手をやる。俺は慌ててその手を掴み、引きはがす。
「何してるんです? 真空に体を晒すと顔がフグみたいに膨れて目玉が飛び出しますよ」
顔が膨れるというのは脅しだが、どの道死んでしまう事に変わりはない。
「それはいやだな。じゃあ、これをあげるよ」
首の後ろのあたりに手をやり、水筒のような形状のパーツを取り外す先輩。中身はおそらく水だ。こいつを電気分解して、ヘルメット内に酸素を供給している。
「受け取れません!」
手に力を籠める。押し返される。結構な力だ。多分先輩は全力だった。
「僕は南アルプスの半導体工場で生成された超純水しか飲まないんです」
「飲まなくていいから! お願い、モクニ君だけだよ、世界を救えそうなのは」
もみ合いが続く。男と女のプロレスごっこだ。世界の命運がかかっているのでそれなりに汗だくになる。世界を滅ぼそうとする悪い男とそれに立ち向かう正義のヒロインだ。
カチャカチャ音がした。どこかのロックが外れたのだろうか。先輩を見ると、驚いた顔がはっきりとよく見えた。表情はすぐに歪み、両手で口を押える先輩。それが出来たのは、ヘルメットが無いからだ。
「先輩!」
声を荒げても聴こえはしないだろう。通信機はヘルメットに内蔵されている。探す。
そうか、上だ。見上げると、銀色の球体が落下してくる。与圧の反動で先輩のヘルメットは天へと吹っ飛んだんだ。
そいつをキャッチして、その勢いでまた先輩の頭にかぶせる。直後、聴いたこともないような荒く激しい呼吸の音が聞こえてきた。倒れ込みながら、先輩は俺の腕を掴んだ。
「モクニ君……私、見てくるよ、現実の世界」
「何にも無かったらどうするんですか!」
「そんなこと、ないって。きっと、なにかある。うぅう!」
苦悶のうめき声。耐え難い音色だ。
「私、物語を書くよ、たとえ何にもない白一色の世界に落とされても、書き続ける」
「喋らないでください!」
減圧症だろうか。気絶してもおかしくないはずなのに。
「その世界の事、書き続ける……モクニ君……ねえ、読んでくれる?」
「先輩! 先輩! 俺はここに居ますよ!」
呼んでくれる? ではない。分かっている。でもこうするしかない。ほかに何が出来る?
「ねえ、読んでくれるかな……枢……」
「先輩?」
動かなくなった。微動だにしない。俺も、動けなくなった。力が抜けた。
先輩は崩れ落ちる。ヘルメットが落ちた。ロックが不完全だった。
俺のせいだ。
目の前が、真っ白になる。
「ねえモっくん、起きて、朝だよ」
懐かしい声がする。
クロの声だ。
懐かしいというのは、単にあれから年月が経ったという意味ではない。最初に聴いた時から、俺はこの声に対して、ある種の郷愁に近いものを感じていた。
「なんだよ、クロか」
皆にシロと呼ばれていた彼女は、その呼び名とは裏腹に小麦色の肌をしていた。天邪鬼な俺は、何気ない思いつきで彼女の事をクロと呼び、そのままそれが定着した。
そうだ。俺が尾田代許と出会ったのは、中学に上がって間もなくの頃。
「モっくん、リアルの学校あるんでしょ? そのまま寝てたら遅刻だよ」
「なんで俺が寝落ちしてるの知ってんだよ」
「イビキかいてたもん」
「いーんだよ、どうせ小学校の時と同じ内容しかやらねんだから」
たしか、ここで交わされたこの会話の後、歴史の授業をサボったんだった。
「それよりさあ、スパコン完成させなきゃ」
何がスパコンだよ。あのチューブまみれのバカでかいコンピュータもどきは十桁の四則演算がやっとだったじゃねーか。と自分自身の亡霊にツッコみを入れると、目が覚めた。
「おはよう、マスター」
「あれ、クロ、何でそんなに白いんだ? 病気でも……ふああ」
欠伸が出る。
俺は、つい先日ここを訪れた時と全く同じ、草むらの上に居た。
わかってる、クロはもう此処にはいない。
だが、なぜ俺が此処に居るかは分からない。
「どうでもいいけどさ、あのスパコンはどうなったんだろう」
だからスパコンじゃねーよ、と空しく自身にツッコむ。
「無事だよ、アタシがずっとお守りしてました」
体を起こす。坂道を上る。
駆け足で。軽やかなステップでロコシィが後を追ってくる。
「くそっ体力が……はあ……はあ」
体力もそうだが、まるで昨日の事のように思い出される日々がのしかかってきて、それに押しつぶされないよう変なところに力が入ってしまうのだ。
肩で息をしながら、なんとか登り切った。
甲申高校の校門をまたぐ。懐かしい地雷原を割け、思い出いっぱいの高射砲の脇を進み、カビ臭い記憶のこびりついた昇降口にたどり着く。手の込んだ精緻な落書きだらけの、ともすれば宗教画で絢爛に飾られた教会のような廊下を進み、流血事件しか思い出せない階段を上り、みんなで仲良くお手々繋いで校庭へとダイヴした追憶がちらつく屋上へたどり着く。赤くペイントされた25Mプールの中に、それはあった。
「おい、何でこんなに綺麗なんだ」
野晒しのまま放置されていたはずが、錆一つ見当たらない。1884の世界には、たしか雨が降る日だってあったはずだ。プレイヤーがいなくなって、天気がやる気を失ったのだろうか。
イソギンチャクのごとく伸び、脳みそのシワのように絡まる銅製のチューブ。そいつがプールを満たしている。
「マスター、スパコンて言われても正直よくわかんない。これは一体なんなの?」
「何だかよく分からないモノを今まで見守ってきたのかよ!」
説明してやろう。
「これは一種のコンピュータだ。俺と天野が半年がかりで仕上げ……られず未完成のままだ。この丘に向かってくる敵を迎撃する迫撃砲の、弾道計算に使う予定だったんだ。電気の代わりに水銀で動く」
水銀を流すのは人力だが。この明治の世界観では発電にも電気を引くのにもべらぼうに金がかかるし、アナログの計算機を鋳造する技術も購入する金もなかった。計算尺を買えばいいのだがバカだったのでそれは思いつかなかった。
「なんで水銀?」
「おかしな世界でな、運営が調整をミスったのか、元からバランスが崩壊していたのか、水よりも水銀が安価だったんだ、当時はな。まあ別に、何でもいいんだ。液体が流れているか否か、その違いが作り出せれば計算機は作れるんだよ」
何なら、流体でなくてもいい。任意に違いを作り出せる――つまりスイッチの役割をする――物理現象であれば、なんだってコンピュータに転用できる。
「いろいろ考えた。NPCの捕虜を鎖につないで苦痛を与え、暴れているか否かの違いを利用した人間コンピュータを検討したこともあったな」
まあ、校内の人心荒廃を懸念してその案は破棄されたのだが。
「あの、校長だったんですよね」
「そうだ、聖職者の最高権威として学び舎を収め生徒に道を示す校長だ」
「ほかにはどんな案が?」
とても言えないなあ。
ロコシィの丸い目をのぞき込む。
右の瞳には溢れんばかりの光が、左の瞳には底知れぬ闇が広がっている。だが鼻の形や、唇の動きの細かな癖は、やはり尾田代許の――クロの――それだった。
「今度は俺の方が質問させてもらっていいか?」
「オッケー!」
敬礼してくれた。レトロ趣味のオタク受けしそうなキャラになってしまった。
「なあ、お前は何者なんだ? 現実世界はどうなった? 俺はなんでこんなとこに居るんだ? エクリン先輩は……」
そうだ。忘れてたまるか。
「先輩は無事なのか?」
「待っててね、いま、調べます」
ロコシィの動きが完全に止まる。さっきまでソワソワキョロキョロと忙しなく動いていたのに。
「調べられるのかよ。どうやって?」
「私には、この『宇宙のメ』があるのです!」
急に動き出し、身を乗り出し、左の、真っ黒い方の目を指してそう言った。と思いきや、また固まる。まるで昆虫みたいだ。
ちょっと待て。あの目は何だ。あの黒さ、丸さ。真円の深淵。見覚えがあるぞありまくるぞ。どう見てもアレじゃないか。
「お前のそれ、眼、左の。ひょっとしてオッカムか?」
●
〇
「その通り! よく分かりましたね実は私あまりにもたくさんコピーされ過ぎちゃってしかもコピー体同士が微妙に意識を共有してるもんですからほとんどもはや完全なチューリングマシンになっちゃいましたぁぁあははははぁだからそれぞれの宇宙における最初の観測者であり宇宙の中心なのです知ってましたあなたがオッカムとつまり0―CAMと呼んでいるそれは宇宙の中心なのです決して動かすことは出来ません投げたりなんてもってのほかです投げたと思ったら大間違いです本当はあなたと宇宙の方が移動しているのですオッカムは微動だにしてませんよおおほほほふふふふはははは」
●
^
地べたにへたり込んでいる俺が居た。腰を抜かすとはこういう事だろうか。
「よく噛まなかったな」
「だって、急にネットワークから知らない単語がいっぱい降ってきちゃったんだもん。今アタシがしゃべってた事の意味分かる? アタシには全然分かんないよ」
「俺だって分かんねえよ」
「でもさ、いくつか分かったことがあって、マスターがずっと行きたがってた……ええとリアルの世界? は、無事にリセットされたみたいだよ」
リセットだと?
「あと、エクリちゃんは本当によく頑張ったね。すごいよ、あの子」
何言ってんだよ。どうなってんだよ。
「バイバイ、パパ。次はしっかりね。あと、スパコンの思い出、忘れないでね」
はあ?
ロコシィが見つめてくる。あの目。黒い目。
オッカムが見つめてくる。俺の視界を徐々に侵食していく。
漆黒が。純粋な黒が。底知れない闇が。
やがて、知覚のすべてを●が覆った。
忘れていく。何もかも、忘れていく。消えていく。
記憶が俺を俺たらしめているのだとすれば。
おそらく、俺はここまでだ。
はじめにもどる
――●15へ
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