●5


土のにおいがする。俺は草むらの上に倒れていた。


顔を上げると、見覚えのある建物があった。


懐かしさを覚えた。記憶を探る。


建物の名を思い出す。



甲申高等学校。



永遠に失われたはずの、俺たちの遊び場。


ながい坂の先に、それがあった。



半歩進むだけで、感傷を追いかけ、追い越してしまう。現実になる。過去が、あざやかに、今になる。


坂を上る。上る理由はいくらでも思いつくが、言葉にして取り出せるであろうそれらは後付けの説明に過ぎない気がした。


たぶん、俺たちは。


朝、目覚めた時、どこかに行かなければと思うのだ。そのまま眠り続けたい日だってあるにはあるが、2度寝した後、顔を洗ったら、やっぱり何処かへ行きたくなる。


俺がこの坂を上るのは、とどのつまりそういう事だ。


そういう事だった。


この坂の上には、帰るべき家と対になった、通うべき場所があった。


中学生のくせに、俺は高校へ通っていた。中学は週に何度もサボったが、この仮想現実の高校へは毎日のように通った。


「おかえりなさい、マスター!」


坂を登り切った俺の目の前には虹色の髪の美少女キャラがいた。


「いやギャルゲーかよ。誰だよお前」


甲申高校の校門の前、俺の思い出の前に少女が立ちふさがる。ミニスカでスリットでオフショルで背に腹が丸出しで胸の谷間やら尻の谷間なんかが半分見えている。全く世界観と関わりのない、際どいというよりもバカバカしい半全裸コスチュームの美少女の出現により思い出は一撃で粉砕された。


「まあ、誰かは知ってるけどな」


ロコシィちゃんだ。かつて一世を風靡した、いわゆるバーチャルアイドルだ。もとはアイドルじゃなかったんだけどな。AIキャラクターの黎明期に、とある阿呆が情熱を傾け作り上げた。


「よくもヘッドショットかましてくれましたね」


「何のことだよ」


「ソウセイキ部の部室」


「突き刺さった靴か。あれは偶然だって」


「言い訳なんかききたくない! マスターをずっと待ってたんだから」


「すまんな、俺は現実世界で生きることに決めたんだ」


なんでAIとまともに会話してるんだ俺は。ほかにいくらでも言葉を交わすべき相手はいるだろう。


だが、しかし。


居なかった。人っ子一人いない。この世界はもぬけの殻だ。坂道を振り返り見下ろす下界の街からは、物音一つ聴こえてこない。


当然だ、サービスが終了して、永久闘争1884(イッパチ)はクローズされたのだ。サーバーに残っていたデータは抹消され、二度と誰もそこには帰れないはずなのだ。


「なんで、消えてないんだ」


「だから、あなたをずっと待ってたのよ!」


「そうじゃねえよ! なんでサービス終了したはずのこの世界が奇麗にそっくりそのまま残ってるんだよ! ていうかなんで俺はここに居るんだ!」


しかも、身体感覚がある。あの頃は、ヘッドセットかポータブルモニター、スーツ型のモーショントレースコントローラでプレイしていたイッパチの世界へ、ついに肉体丸ごと持ち込んで訪れてしまったのだ。なんかイメージよりもずっと暑いぞ。


「あたし達が生まれたのはここだよ、忘れちゃったの、マスター」


「忘れるもんかよ」


思い出したくもないが、な。


ロコシィは――そのオリジナル体は――確かにここで生まれた。生まれたばかりの彼女はごくごく普通の、黒髪の女学生に見えた。それがどういう紆余曲折二転三転七転八倒を経て、こんな姿になってしまったのやら。金髪ベースの、あり得ない虹色の光沢が入った髪の毛。変なラメっぽい照り返しをする白すぎる肌。制服のようにも戦闘服のようにもあるいは水着のようにも見えるコスチューム。おまけに虹彩が白と黒のオッドアイと来た。


「忘れさせてくれ、頼むから」


「うん、いいよ。ずっと二人きりでいようね」


無人の世界にあってゾッとするようなセリフを吐いた。会話が成立していないのだが、まあAIなのでそれは当たり前だ。


「もう日が暮れちゃうね」


「ああ、そういや時間の流れが早いんだよな、こっちは」


「最後にマスターに……貴方に会えて、嬉しかったよ」


最後、とそのAIは言った。ふいに、己の手足の感覚が失われていくのを感じる。西日が暮れ、空は茜に染まる。視界はぼんやりと曇り、すべての音がどこか遠くで響いている。死を連想した。つまり、俺は1884からログアウトしかけているのだろうか。


もう少し、ここに居させてくれないか。まだ校舎の中にすら入れてもらえていないのに。なんで俺をここに連れて来た。こいつが邪魔さえしなければ。


ふと疑問がわいた。


俺がログアウトしたら、こいつはどうなるんだろう。


「お前、ひょっとして、ここに取り残され続けてきたのか」


この世界がこのまま、消えずに残り続けるのだとしたら。


永遠に、残り続けるのだとしたら。


作り物の思考回路は、別れ際にこう告げた。


「バイバイ、パパ。元気でね」


世界が捻じ曲がる。


彼女を置き去りにして、どこか彼方へ、体が飛んでいく。


それを俯瞰する俺。を、さらに俯瞰する俺。が、飛んで行った最初の俺を俯瞰しようとしたら、そこにはもう居なかった。あたりを見回すと俺が居て、そいつはこっちをじっと見ている。じっと見ている方が実は本物の俺で、見られている方はもういない。


認識が破壊されていく。


そして、再構成される。




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