第10話 Je t’aime

 退院の日に、アレックスの病室に思いもかけない来訪者がやってきた。

 スライド式のドアが遠慮がちにノックされたので、アレックスがどうぞと声をかけても、一向に開く様子がない。


 まどかとアレックスは、部屋の後片付けの手を止めて、お互いに顔を見合わせて首を傾げた。 

 まどかがドアをスライドさせると、小学生くらいの女の子が花束を抱えて俯いて立っていた。

『あら、かわいい!どうぞ中に入って』

『エマ!エマじゃないか。久しぶりだね。お祝いに来てくれたのかい?』

 アレックスは、信じられないというように首を振り、両腕を広げて歓迎する仕草をしかけて途中で止めた。

 アレックスは痩せてしまったものの、身長がある。その上、かいなを広げて身体を大きく見せれば、エマは怖がってしまうだろうと思ったのだ。


 まどかは、アレックスの様子を見て、エマが何か問題を抱えていると察したようで、何も言わずにそっとドア付近から身を引き、エマとアレックスが邪魔されることなく話し合えるようにした。


『エマ、会いに来てくれたんだね?とても嬉しいよ。君と話すために床に膝をつくよ。いいかい?』

 エマを怖がらせないように、先に動作を教えてから、アレックスは片方の膝を床に着き、エマの目線と合わせるようにした。

 エマはおずおずと部屋に入ってくると、両手をまっすぐに伸ばし、花束をアレックスに差し出した。


 異常者に襲われて頭部にケガを負ったエマは、一時期、男性を見ると怯えて、父親でさえも近づくことができなかった。

 アレックスとバーチャル治療を重ねるうちに、少しずつ心を解していったが、現実の世界でアレックスに近づいたのはこれが初めてだった。


 エマを怖がらせないように、ゆっくりと手を伸ばし、花束を受け取ると、エマは決心したようにぎゅっと両手を握り締めて口を開いた。

『Dr.アレ・・クス。退院おめで・・と・・。私も・・がんばって治すから・・・また・・診てね』

 言うだけ言うと、エマはアレックスの言葉も待たず、踵を返して部屋の外で待っている母親の元へと走っていった。


 ドアの外でエマを抱きしめたローラが、アレックスにお祝いの言葉をかけた。

『Dr.アレックスの意識が戻らない間、エマは何度も病室に来て神様にお願いしていたんです。Dr.アレックスの目を覚ましてください。今度は勇気を持ってお話しするから、お願いしますって…』


 アレックスは感動で胸が一杯になった。思わず力が入ってしまったのか、手に握られた花束のラッピングがさっと音を立てる。

 担当医の自分を信頼して、患者が立ち直ろうとする姿は、救いたい気持ちを患者が受けとってくれたと感じられる最高の瞬間だ。

『エマ。ありがとう。頑張って、一緒に良くなろうね』

 エマはこくりと頷いて恥ずかしそうに笑顔を見せると、手を振りながら母親と一緒に帰っていった。

 

 ドクターとしての誇りを目に宿して佇むアレックスは、まどかの目にはとても眩しく映った。

『あなたを頼りとしている患者さん達から、私は希望を取り上げるところだったのね』

『マドカ・・?』

 入院中はずっと側にいて、厳しかったリハビリにも付き添って励ましてくれたまどかが、退院を前にしたここ数日、声をかけても気が付かないほど、何かを真剣に考えこんでいるようだった。


 自分はまどかを救えて、そしてまどかに救われて、ようやくこうして再会できたのに、喜びで一杯だったまどかが、どんどんしぼんでいくように感じられ、アレックスは不安にかられた。

『マドカ、家に帰ろう。あと2週間も経たないうちに、マドカは日本に帰ってしまう。時間を無駄にしたくない』

 アレックスは、まだ一カ月間は家からリハビリに通ったり、仕事へ復帰するための勉強の時間を残していた。その間に何としても、まどかの気持ちを変えて、フランスに住むと言わせるつもりでいた。


 病院のスタッフたちに挨拶を終えてから、アレックスは呼んであったタクシーにまどかと乗り込むと、久々の家へと向かったのだった。

 

 家に着くと、夕日に染まった我が家をアレックスが懐かしそうに見上げ、まどかを誘って玄関の扉を開けた。

 今朝からダニエルとイレーヌは、アレックスの看病で取れなかった休みを取り、1週間の予定で旅行に行ってしまっていた。

 もう1か月近くもここに滞在しているというのに、まどかが落ち着かなげに、アレックスの後についてリビングに入るのを見て、アレックスはちょっとからかってみたくなった。


『二人っきりだと、不安になる?』

 まどかがはっとして立ち止まり、言い当てられた気持ちを隠すように、慌ててブンブンと首を振ったが、頬が真っ赤になっていた。

 艶やかな黒髪が揺れるのに誘われて、アレックスがその一房に手を伸ばし、すくい上げると唇をつけた。


『アレックス!・・』

 反射で一歩下がりかけたまどかを、それよりも早く伸ばしたアレックスの手が捉えて抱き寄せると、まどかは緊張して身体を強張らせた。

『逃げないで。俺を受け入れて』


 まどかの黒い瞳が、逡巡しているように、揺れている。

 一体どうしたというんだ!? アレックスはだんだん不安になってきた。

 

 まどかは俺が助かって嬉しくないのだろうか?

 待っていてくれるとばかり 思っていたのは自分だけで、ひょっとして、記憶がない間に、日本で好きな奴でもできたのだろうか? 次から次へと疑問が湧いて来る。


 アレックスが考えこんで額に寄せた皺を、まどかが解すように指で撫でてきた。

 その手首を掴んで唇に運び、まどかの人差し指を咥えると、息を飲んだまどかが慌てて指を引っ込めようとした。

 アレックスは、すかさず掴んだ手に力を入れて、まどかの指をもと通り唇に含む。


 指に舌を絡めると、指先を凝視していたまどかの瞳が揺れ出した。

 嫌がってはいない。むしろ感じているはずなのに、突き当たる壁を感じるのは気のせいだろうか?


『マドカ。俺を見て。会えなかった時より、心が遠くなってしまったように感じて不安になるよ。俺は君をこんなにも思ってる。でも君は俺を・・・』

『愛してる。心の底からアレックスを愛してる』

『じゃあ、どうして泣くんだ?』

 まどかの頬に伝った涙に困惑して、アレックスが指で拭いながら首を振る。


『アレックスが元気になって嬉しいからよ』

 そういうまどかは、表情を見られまいとでもするように、アレックスの首に両手を回して首元に顔を埋める。

『本当に?それだけ?何か隠していることはない?』

『あるわけないわ!アレックスを思う気持ちは本当だもん』


『じゃあ、俺に君の全てをくれ』

 まどかの気持ちを確かめたくて、何も見逃すまいと顔に視線を這わせるが、まどかは読まれまいとするように一度瞳を閉じ、次の瞬間には決心したようにアレックスをまっすぐ見つめて頷いた。

『いいわ。私を受け取って。あなたを忘れられないようにして』


 本当なら喜ぶべき言葉をアレックスは素直に受け止められなかった。

 英語を使っているからか、まどかの言葉は言いたいことと微妙にニュアンスが違っているように思える。

 忘れられないようにしてとこんな時に使えば、激しく愛してくれと挑発しているようなものなのに、まどかの言葉は、むしろ、この先誰かと愛し合うことがあっても、あなたのことを忘れられないくらい特別に愛してくれと懇願しているように聞こえる。


 なぜだ?思い過ごしか?アレックスは心を苛む不安を追い払おうと、まどかの唇を荒々しく覆った。

 先ほど見せた抵抗は消えて、まどかはアレックスのなすがままに、唇を開き、舌を受け入れ、睫毛を震わせている。

 隠していることを暴いてやりたくて、アレックスはまどかが初心者なのも忘れ、まどかの気持ちに潜むものが何か身体に聞こうとした。

 まどかの膝からがくっと力が抜けて、アレックスに全身を預けるようにもたれかかった。

 

 まどかの身体を抱き留めながら、自分の熱を塗りこめるように、身体全体を使って愛撫すると、まどかがはっと身を強張らせた。

 二人の身体が密着する部分には、重なる部分とそうでない部分が生まれる。

 アレックスがまどかの膨らみを感じているように、まどかもアレックスの兆した欲望に気が付いて、腰を引こうとした。

 逃がさないとばかりに、アレックスはまどかを一層強く抱きしめ、こんなにも君が欲しいんだと高まりを誇示するように、まどかに押し付ける。


 まどかの身体も熱を持ち、息遣いが速くなって、潤んだ瞳でアレックスを見上げた。

『アレックス。もう・・立っていられない』

 アレックスはまどかを抱き上げて、自分の部屋に入り、ベッドの上にまどかを横たえた。

 上下する胸に視線が吸い寄せられ、セーターを押し上げている丸い膨らみに、そっと口付けると、まどかが小さな声を漏らす。

 もう、限界だ。優しく扱う理性も崩れ、アレックスはまどかの身体中にキスを降らせながら、着ているものを脱がせていった。


 アレックスがため息を漏らしながら、まどかの肢体のすみずみに視線を這わせた。 

『きれいだ。まどか。ほんとうに君はきれいだ』

 ベッドに広がった黒髪に縁どられた上気した顔、きめ細かい陶器のような傷一つない肌。形よく盛り上がった胸の淡く色づいた頂きも、すらりと伸びた脚の付け根に薄くけむる箇所も、全て自分のものにしたいと気持ちが昂る。


 アレックスはまどかの上に覆いかぶさった。

『嫌と言っても、もうやめてやれない。君が欲しい』

 欲望で濃くなった瞳の色がまどかの視界を塞ぎ、熱いアレックスの唇がまどかの唇を占領し、首筋を辿って、まどかに甘い慄きを覚えさせた。


 まどかが敏感に応えるのが嬉しくて、もっと感じさせようと、アレックスはしっとりとした肌の感覚を味わった。

 いつの間にか舌の先を追う様に、まどかが背中を浮かせるのに気が付いたアレックスは、背中を片手で支えて逃げられないようにしてから、まどかのこいねがう場所にとどめを刺すと、まどかの喉からひゅっと息が漏れ、いやいやと首を振った。


『感じてくれ。・・・迷いなんて捨てて、俺だけを見て』

 ハッとまどかの目が見開かれた。見る間に涙が溢れてくる。

『アレックスだけを思い続けるわ。アレックスが私を忘れても・・・ずっと思ってる』

『どういう意味だ?お互いにこんなにも愛し合っているのに、まさか、もう会わないとか言わないだろうね?』

『会いたいわ。でも、今は何も聞かないで。最後まで・・』

『じゃあ、俺と結婚すると約束してくれ』

 まどかは首を縦にふらなかった。


『イエスと言わせてやる』

 アレックスは再び、まどかを 翻弄したが、まどかはアレックスの望む答えを一度も口にしなかった。

 ただ、お互いに、愛してるとしか伝えられなくて、満たされることのない寂寞感が二人の胸を覆ったのだった。


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