第9話 再会



 2017  a la Cote d'Azur


 7か月ぶりに会ったダニエルとイレーヌは、げっそりとやせ細り、苦悩を抱えた人間がどう変わるのかを、まどかは思い知らされた。

 まどかの両親を含めて再開した5人に笑顔はなく、ただ無言で抱き合った。


 病室に案内されベッドに横たわる男性を見たまどかは、記憶の中のアレックスとあまりにも違ったため、足の力が抜けてもう少しで床にへたり込むところだった。

 焼けた肌は青白くなり、頬がこけ、厚くまとっていた筋肉はすっかり落ちて、前あきの病院着から覗く胸には肋骨が浮き出ていた。


「アレックス、こんなになるなんて・・・苦しめて・・・ごめんね」

 まどかは艶の無くなったアレックスの髪を撫で、落ちくぼんだ瞼と頬にそっと口付けた。込み上げる涙をぎゅっと閉じた瞼に押し込めて、詰まった呼吸を悲しみと共に、震える口から吐き出した。

 

 この変わり果てた姿を見続けたアレックスの両親の前で、取り乱すことはできないとまどかは思った。

 少しずつ現状を受け入れ、納得できないながらも、慣れるしかなかった両親の前で泣くことは、アレックスが元気な時とまるっきり変わってしまった現実を突きつけ、回復を願う心さえ折ってしまうかもしれない。

 ただでさえ、耐え続けている彼らの前でそんなことをすれば、悲しみに傷ついた心を更に抉ることになるだろう。


 しっかりと現状を見て、私の為にアレックスがどれだけ犠牲を払ったかを頭に叩き込むんだ。まどかは漏れそうな嗚咽を堪えるために下唇を噛み、目を真っ赤にしながらアレックスを見続けた。


 フランスに着いた次の日から、まどかはバーチャル訓練以外の時間は、アレックスの身体の清拭や、胃に穴を開けた胃ろうから、経管栄養を摂取する手伝いをさせてもらった。

 痩せてはいても、意識が無くても、直接触れた身体の温かさや呼吸から、アレックスがまだ生きているという実感を得たかった。


「アレックス、待っていてね。もうすぐ迎えにいくから・・・どうかそれまで持ち堪えて」


 声をかければ、答えてくれるのではという期待は、いつも裏切られる。

 ただ、聞こえるのは、観血血圧、心拍出量、体温のグラフが映し出された生体情報モニタの音と、アレックスの呼吸音だけだ。

 きっとダニエルとイレーヌも、何度も何度も呼びかけて、アレックスが目覚めることを願っては、裏切られ続けたのだろう。

 ただ、祈ることしかできない。まどかは自分の無力さを噛みしめながら、アレックスの骨と筋が浮き出た手を握り、頭を垂れてアレックスが助かることを祈り続けた。


 病院からモロー家に帰ると、アレックスの部屋に行き、彼が普段つけていたコロンを部屋に一噴きして、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 抱き込まれた時に、この香りが、アレックスの身体から熱と共に伝わったことを思い出し、胸が締め付けられた。

 再びこのコロンをつけた本物のアレックスの胸に顔をうずめ、この腕に抱きしめると、まどかは心の中で誓った。




 そして、施術の日はやってきた。

 ベッドに横たわったままのアレックスの頭を、MRI型の半ドーナツの装置に繋ぐと、まどかは“|Memories of The Emblem《紋章の思い出》”を自分に噴きかけて、アレックスの横に置かれたソファーに身を沈め、自らを装置に繋ぐ。

 装着したヘルメットから登吾の声が聞こえた。

「まどか、用意はいいか?」

「ええ、お父さん、お母さん。我儘を聞いてくれてありがとう」

 

 すると、監視室に入ることを特別に許可された和美の声が聞こえた。

「まどか、行ってらっしゃい」


 そう、これは別れではなく、帰ってくる人に向ける挨拶だ。

 まどかは母の思いを胸に感じて泣きたくなった。

 でも、いつ意識が戻るかと待ち続けてきたアレックスの両親に、アレックスの「ただいま」を聞かせるまで、泣くことはできないと一生懸命涙を堪えた。


「行ってきます。trois, due, une」

  

 カウントと共に目の前が暗くなり、やがて見慣れたアーチ型の石門が見えた。

 さっそく体験型からイメージ型へと切り替えると、まどかは深呼吸して門から続く階段を上り始めた。

 

 街は荒れ果てたままだった。

 踏みしだかれた石畳に残る巨大なタイヤの跡、折れた木、倒れている人々、まどかが怯むと、とたんに青空が暗く陰った。


 自分に負けてはだめだ!まどかは勇気を奮い起こし、前へと進んだ。

 不安で足がすくみそうになる。

 パニックに陥った人は、またその発作が起こることを恐れてパニックになると言うが、まどかの呼吸も知らず知らず上がってきた。

『鼓動が速いが大丈夫かい?マドカ』

 ダニエルの声がイヤホンから響いた。


 自分がこんなにも見守られ、心配されていると分かり、温かい気持ちが湧きおこった。と同時に自分の弱さが情けなくなり、こんなことじゃいけないと、まどかは勇気を奮い立たせた。

『大丈夫です。ムシュー・ダニエル。先に進みます』

 今は何も約束してあげられないことを心で詫びながら、まどかは慎重に前に進んだ。


 この倒れている人たちが私の怯えの反映なら、振り払えば立ち上がって、アレックスの生還を迎えてくれるだろうか?

 仮にもアレックスをこの街の領主に設定してしまったのだから、きっと喜んで迎えてくれるだろう。

そんな明るい想像をすると、少し元気が出た。


その調子と自分を鼓舞するように、街の復元とアレックスの元気な姿を、強く強く願って思い描く。

 すると太陽を覆い隠した雲が流れ、日差しが戻り明るくなった。

 踏み荒らされた草木から、新しい芽が出て、そこここに色とりどりの美しい花を咲かせ始めた。

 倒れた人たちにも起き上がるように念を送ると、驚いたことに身じろぎをした。


 大丈夫。もう大丈夫。きっと大丈夫。

 自分に言い聞かせながら、十字軍騎士が腰を折っておじぎをする前を通り過ぎ、領主館に辿り着いた。

 無残に崩れた館の壁の前に、巨大な9tトラックの残骸が散らばっていた。


 めり込んで浮いたフロントの下で、人間大のタイヤが空回りしている。まどかの背筋が粟立った。

 するとめり込んだ車体が壁から出ようと、もがき始めた。

 悲鳴をあげそうになるのを、喉に手をあてて堪え、まどかは必死で冷静になろうとする。

 あの横を通り抜けなければ、館の中に入れない。怖がってはいけない。あれは幻想で現実じゃない。

 止めようとしてもがたがた震える身体が、まるで恐怖のエネルギーを送っているかのように、タイヤの回転数が速くなり、壁にめり込んだトラックの前面が、もうすぐ壁から抜け出しそうになった。


 アレックス!アレックス! 心の中で必死に名前を呼ぶ。

 アレックスは何て言っていた?

 思い出さなくっちゃ。アレックスを助けるために、思い出すのよ!

 

 ふいに、アレックスの言葉が、まどかの脳裏に蘇った。


―マドカ。自分に打ち勝つ方法を見つけるんだ。もし、また追憶しても、今いる場所は安全だと分かるような、現実と幻と区別できるものを見つけてくれー


 まどかは震える身体を両腕をクロスさせて抱きしめ、痙攣する喉元に酸素を取り入れるため、息をゆっくり深く吸いこんで吐き、何度も深呼吸するうちに落ち着きを取り戻した。


 吸い込んだ空気と共に、“Memories of The Emblem”の香りが広がる。

 この香りは現実だ! ここには私の香りしかしない。

 大破して燻る煙の匂いも、タイヤが付けた跡の焼けたゴムの匂いもしない!

 なぜってこれは幻だから!


 まどかがはっきりと幻影を突き止めた途端、トラックは跡形もなく消え、

 目の前には傷もない領主館の壁が現れた。


 勝った! 幻に…自分の恐怖に打ち勝てた!


 目の前が滲むのも気にせず、鍵のかかっていない扉を開け、領主館の中を奥へと走っていった。今はきらびやかなシャンデリアも、豪華な内装も目に入らなかった。

 目指すは一つ。


 ―深淵の闇の洞窟で待つー  


 日本で、忘れていた記憶を夢の中で垣間見た時に、『帰りたい』というアレックスの声を聞いた。『どこへ?』と問いかけると、アレックスはそう答えたのだ。

 希望や喜びを締め出した、無に返るための孤独の闇の中で、アレックスはまどかをただ一人で支えてきたのだ。

 迎えに来るかも分からない取り残された恐怖に耐え続け、まどかの人生を取り戻すために、自分の命をかけたのだ。

 

 まどかは、涙を振り払いながら廊下を駆け抜け、使用人の貯蔵庫の扉を開けた。

 ぶら下がる食料品を掻き分けて、奥へと進む。

 あった!あの扉だ! 駆け寄ってドアを開け、覗き込んだ。

 真っ暗で先も見通せない闇に包まれた階段を、まどかは逸る気持ちを堪えて慎重に下りる。今足を踏み外して 底に落ちたら、救えるはずのアレックスを道連れにすることになるだろう。


 薄っすらと光る壁が、通り過ぎるとまた真っ暗になるのを繰り返し、ようやく底に辿り着いた。

 壁伝いに進むと、やがて眼の前に、天井まで届く鉄格子が嵌った洞窟が現れた。

 以前より水嵩が大分増えているようで不安になり、まどかは視線を水面へ彷徨わせた。


『アレックス。どこ?』

 鉄格子を両手で揺すってみたが、鍵がかかっていて開かない。

『アレックス。お願い返事をして!迎えに来たの。お願い姿を見せて』


 薄暗い水面に波紋が立った。少し離れた所に丸い影が見える。

 眼を凝らして見ると、それが首まで水に浸かったアレックスだと気が付き、まどかは息を飲んだ。驚いた拍子に沼の表面に波が立つ。


 だめだ!落ち着いて。アレックスが飲み込まれてしまう。

 意のままになるのなら、水位を下げればいいと分かっていても、目の前のアレックスの有様に動揺し過ぎて、上手くイメージできない。

 深呼吸を繰り返し、波もろとも気持ちを静めると、まどかは格子越しに片手を伸ばした。


『アレックス、この手に掴まって』

 アレックスが両肩を揺すりながら、やっとのことで泥水から腕を引き抜き、ゆっくりと腕を伸ばしてまどかの指先に触れた。

 泥から抜く時に力を使ったのか、ただ指先に触れただけで 力の入らないアレックスを、鉄格子に身体を押しつけた格好で、まどかは腕をピンと伸ばし、アレックスの数本の指をなんとか掴んで引っ張った。


 アレックスがほんの少しまどかに近づき、手と手を握れるようになる。

『アレックス、もう一方の手もこっちへ出して』

 アレックスは身体の向きを変えようとしたが、力が尽きる寸前なのか、安心しきって脱力しているのか、どちらかは分からないが、泥にはまった身体は頭が前傾するだけで動かない。


 まどかは大声で泣きだした。

『こんなになるまで、放っておいてごめんなさい。代わりになれるなら、私がそっちへ行くのに…』

 アレックスが、まどかの言葉にわずかに首を振るのが見えた。

『もう一方の手を出して。お願いアレックス』


 まどかの言葉に反応して、泥の中でもがいた腕が上がりかけて途中で落ちる。

 アレックスが悲しげにまどかを見て、また首を振った。

『だめよ!アレックス。約束したじゃない。今度会った時に私が本気なら、両手で私を捕まえるって言ったじゃない!』


 理性を保つために、片手だけドアノブを掴んでいたアレックスの姿と言葉を思い出し、まどかはアレックスにけしかけた。

『捕まえて私を!あなたがここで溺れたら、私は絶対に自分を許さない。光る目のトラックをもう一度呼び出して、飛び込んでやるわ!』

 アレックスの口元が少し緩んだように見えた。


 全身を締め付けるように重く絡む泥の中で、アレックスが無理に身をよじって隙間を作り、ゆっくり腕を抜いて上にあげると、その手が水面を這いまどかに向かって伸びてきた。


 まどかは痛みを感じるほど格子に顔を押しつけて、これ以上伸ばしようがないほど引きつる腕を伸ばし、アレックスの手を捕まえた。

 笛のような鳴き声がまどかの喉から数度漏れたが、力を失わないように必死で嗚咽を押し殺し、アレックスを引っ張る。


 泥沼に埋まったアレックスの身体が、ずぶずぶと移動し、格子の方へ手繰り寄せられた。アレックスに鉄格子を握らせると、まどかはアレックスの首に結ばれたペンダントを外して錠前に差し込んだ。

 扉を開けて、アレックスを引っ張り上げる。

 上半身が石の床に乗った。あと少し、もう少し…。

 アレックスも泥から抜いた両足を掻いて、何とか這い上がった。

 力を消耗しきって床に倒れ込んだアレックスに、まどかは縋り付いて大声で泣いた。

 アレックスの頬にも涙が光り、力ない手がまどかの腰を抱き寄せる。


『アレックス、このまま緊急帰還しましょう。出口まで歩くのは無理だわ』

 アレックスが首を振る。声にならない唇が語った。

『マドカを…忘れたくない』

『でも…』

『待っていた。現実で…会いた…い』


 まどかは分かったと頷き、アレックスの腕を肩に回し、中腰になった。

 実際なら担げるはずもない重さだが、ここは気力だと気合を入れて、アレックスと共に一気に立ち上がる。


 一歩、一歩、暗がりの中を歩み出す。途方もない距離に思えるが、絶対にアレックスを元の世界へ連れて行くと決心したまどかには、踏み出すたった一歩が、生還への喜びに溢れている。

 一歩、また一歩。そして階段へ辿り着く。壁が薄っすら光を放つ中、意識の表層面を目指して上りだす。


『アレックス頑張って。私もあなたに会いたい。足を上げて』

 しっかりと肩を組んで、まどかとアレックスが闇の中、長い長い階段を上がり、ようやく貯蔵庫の扉を開けた。

 両手が使えないため、頭を振って吊るされた食品をかきわけ、ふらつきながら廊下を渡り、豪華なリビングも何とか抜けて領主館の入口に立つ。


 目の前で扉が開かれた。

 外の光に照らされて、アレックスの顔に生気が戻る。

 着飾った婦人たちや、十字軍騎士たちが、領主の生還を祝ってお祝いの言葉を叫んでいる。


 アレックスがまどかを見つめて、嬉しそうに微笑んだ。

 光る目のトラックに荒らされた痕跡は全て消え失せ、花々が咲き乱れる景色は、そのまま、まどかの心の状態を表している。

 アレックスはまどかが立ち直ったことを知り、抱き寄せて額に口付けた。


 領民から歓声が上がる中、アレックスの足取りも、だんだんとしっかりして、やがて出口の石門へと辿り着いた。

 そして、二人は抱き合ったまま、まどかのカウントでバーチャルの世界に別れを告げた。 




 アレックスの睫毛が痙攣したように揺れ、ほんのわずかに開いては瞬きを繰り返す。

イレーヌがダニエルに抱き着き、声を殺して泣いた。

 登吾も和美と手を取り合って、まどかとアレックスの意識が戻ったことを喜び合った。


  アレックスは目を開いたかと思うと、虚ろな表情でまた瞼を閉じる。

 ダニエルが側に立ち、ドクターとして、患者に質問をした。

『あなたの名前は?』


 アレックスの目が再び開き、何かを探るように眉を寄せる。

 一同が固唾を飲んで見守る中、アレックスの唇がわずかに動いた。

『とう・・』

 みんなの顔が一瞬で曇った。アレックスのAの発音ではない。


 しばらく意識が無かったため、喉の筋力も衰え、水分もとっていないアレックスの声はしゃがれていた。それでも、一生懸命続ける言葉を、アレックスが生きているなら十分だと切り替えて、一同が耳を傾ける。


『とう・・さ・・ん。む・・すこ・・・の・・なま・・え・・・わす・・れ・・た?』

 ダニエルの顔がぐしゃっと歪んだ。イレーヌも今度は声を殺すことができず、和美に支えられて泣き出した。


 まどかもソファーから立ち上がって、ベッドの側により、目が覚めたアレックスの顔中に何度も視線を往復させた。


 閉じていた時に、もう一度見ることを願ったブルーグレーの瞳。

 今は、潤んでまどかを映している。髪と同じアッシュブラウンの長い睫毛が、まばたいて・・・。

 動いてる。アレックスは生きて・・・動いている。


「神様、ありがとう。アレックスを守ってくれて、ありがとう」

 まどかの呟きは日本語だったが、アレックスも、ダニエルとイレーヌも、心でその言葉の意味を感じ取った。


 それぞれが感慨深い思いを胸に静まり返っていたのを破ったのは、アレックスだった。

 細くなった腕を伸ばし、まどかに触れて何かを言っている。

 感動の言葉を期待した一同はアレックスの言葉に首を傾げた。


『う~っ。宇宙飛行士の気持ちが分かる』

『えっ?何ですって?』

 ひょっとして、真っ暗な洞窟を宇宙に例えたのかと、まどかが罪悪感にかられて俯いた。

『地球に着いてまず要求するのは、歯磨き粉と歯ブラシらしいけど…』


 その意味がみんなに届くには少し間があったが、分かった途端に顔を見合わせ、施術室は笑いに包まれた。

 アレックスのケアをするのに使う歯ブラシを持ってきたイレーヌが、腕に力の入らないアレックスに代わって磨いてやる。


 そんな息子に苦笑しながら、ダニエルが愛情をこめて軽口を叩く。

『胃に穴を開けて直接栄養を流しこんでいたから、唾液が出なくて、口の中がまずいんだろう。まぁ、でも、せっかくのヒーローの登場が台無しだ』


 口をゆすいだアレックスが、そんなっことを言ったってとダニエルに文句を言う。

『分かった。もう一度気絶するフリをするから、まどかのキスで起こしてくれ』

 口内が潤い、声も元に戻ったアレックスが、寝たふりを決めこむと、

 まどかがそっと近寄って、鼻をつまんだ。

 みんなの大きな笑い声が施術室に響き、アレックスが慌ててまどかの手を鼻から引き剥がす。


『…ッ…俺を殺す気か』

『何度でも迎えに行ってあげるから、安心してマイロード』

 アレックスにキスをしたまどかが、耳元でそっと囁いた。

『みんなを心配させないように、明るく振舞ってくれてありがとう』

 アレックスがまどかの髪を撫でながら、小さく頷いた。


 二人の仲を優しい笑顔で見ていた親たちに、アレックスは『心配かけてごめん。ありがとう』と呟き、瞼を閉じた。


  まどかが慌てて登吾を振り返ると、アレックスの脈や瞳孔の反応を確認したダニエ ルが、まどかに向かって大丈夫だと安心させるように微笑んだ。   


『最初は眠りの時間が長いけれど、だんだん眠りと起きている時間が均衡して、逆転して、元に戻っていくだろう。マドカ、アレックスのリハビリを手伝ってやって下さい。最初は身体も頭も思い通りに動かせず落胆するかもしれない。でも、アレックスは、マドカの前では弱音を吐かずに頑張ると思うから・・・』


『私にできることなら、何でもやります。アレックスが私を助けてくれたように、私もアレックスの力になりたい』

『ありがとう。マドカ』

イレーヌがまどかをしっかり抱きしめた。


 施術に入る前の緊張した親たちの面持ちは、今は完全にほぐれ、安らかに寝息を立てるアレックスを黙って静かに見守っている。

 見守られるアレックスの口元も、見守るみんなの口元にも微笑が浮かび、誰もが幸せに満たされたのだった。



 その後、まどかはダニエルとの約束通り、アレックスが体調を取り戻すまでの期間、身の回りの世話をした。

 

 眠りの時間が長い時には、その傍らで漫画の原稿を描いた。

 これまでまどかは死を意識したことはなく、若さゆえの自由を享受していた。

 日本での平和な生活に包まれて、鈍くなっていた自分の感覚が、知らない世界で鋭敏に研ぎ澄まされ、そしてあの事件を目撃して、想像を絶するほどの恐怖で自分を破壊された。

 人はいつ、どうなるか分からないということを、身をもって体験したのだ。

 覗いてしまった闇の記憶を、消えてしまう前に描き止めたいと思った。


 あの事件では沢山の人たちが犠牲になった。場所が少しずれていたら、まどかたちも危なかったかもしれない。

 もちろん、アレックスが冷静さを失わずに、まどかをかばってくれたことが大きいが、生きていること事態が奇跡だと思えた。


 凄惨な事件後、ただ恐怖に囚われて廃人になりかけていたまどかは、再度、命をかけたアレックスのバーチャル治療で救われた。

 アレックスの勇気、深い愛情を知ったまどかは、自分の中に沸いた溢れんばかりのアレックスへの愛と感謝に突き動かされ、何が何でもアレックスを救うと誓った。

 守られるだけでなく、相手を守るために自分と闘うことで、まどかは自分自身を強く形成し、不安に支配されることはなくなった。


 あの事件が宗教に関心もない移民が起こしたものだという記事を読んだ時も、犠牲になった人々に深い同情と悲しみを感じたが、その光景を思い浮かべて取り乱すことはなくなった。


 描きたい!ただ、それだけだった。

 心に溢れる生きていることの感謝の気持ち。

 抜け殻だったアレックスに生気が満ちるのを目のあたりにした時の感動を、ただ描きたい。


 アレックスに助けられた私の人生は、もう自分だけのものではない。

 辛い経験はしたけれど、彼を含め、自分を取り巻く人たちの献身によって自分が守られ、支えられたことに気づくことができた。

 自分の人生を精一杯、責任を持って生きることが、恩返しになるだろう。

 今私にできる精一杯のことは何だろうと考えたら、それは命の重さをテーマに漫画を描くことだった。

    

 投稿枚数に限りがある中で、命の重さをテーマにしてどれくらい消化できるかは分からないが、未熟なりに展開させ、自分の思いを原稿にぶつけようと思った。

 ただ描きたいという心の叫びに従って、まどかは鉛筆を走らせた。


 口から食事を摂ることができるようになると、若いアレックスの身体はみるみる元気を取り戻し、そのこけた頬は元に戻り、血色も良くなった。

 長く起きていられるようになったアレックスは、まどかがカリカリと鉛筆を走らせ下書きする原稿を、興味深気に覗き込んだ。


 アレックスが物を考えて、脳を活性化させるためのリハビリにちょうどいいと、まどかはストーリーを相談して意見を求めた。

 最初は自分の考えをまとめるのに時間を要したアレックスも、今ではすらすら語れるようになり、さすがと思えるようなアドバイスを繰り出した。

 

 まどかのストーリーを聞くうちに、恐怖を完全に克服したのを理解したアレックスが、バーチャルでどうやって現実との違いを見極め、気持ちを制したかを聞いた。

 まどかが自分の香水以外、トラックの破壊したほこりや煙の匂いがしなかったことから、現実ではないと見破った話をすると、アレックスが目を見張った。

『そうか、匂いか!それは盲点だったな。音は試験的に入れたりはするけれど、香りは試してみる価値があるな。まどかと使い方は違うけれど、嗅ぐと気持ちが安定する訓練をしてから、施術をすれば危険を回避できるわけだ』

    

『まだ、患者のくせに、もうドクターの顔に戻ってるんだから!』

 仕事への意欲を見せるアレックスが眩しくて、まどかはつい茶化したが、自分の立場と比べてしまい本音が口から洩れてしまった。

『アレックスはいいわね。お父さんの自慢の息子でいられて…。スタッフの言葉から、周囲も期待しているのが分かるし、父に貢献できない私とは大違いだわ』


『マドカ、俺にはマドカの方が羨ましいよ。俺の前にはいつだって、功績のある研究者のムッシュー・トウゴや父がいる。俺が何をやってもドクター・ダニエルの息子だと見られ、超えるにはまだ経験が足りなさすぎるんだ。その点、君は何ものにも縛られない自分の世界観を持っているじゃないか。この作品も素晴らしいと思うよ』

『アレックス、あなたって私の救世主ね。また救われちゃった』

『えっ?何どういうこと?』

 目を白黒させて考えるアレックスを、頭を少し休めなければと強制的に寝かしつけ、まどかは原稿を手にとって深呼吸した。


 父は父、私は私。他人にどう見られるか気にしていたことが、嘘みたいにどうでもよく感じられ、まどかは原稿に取り組んだ。

 まどかの献身的な介護のかいがあってか、アレックスは周囲が驚くほど速く回復していった。

 身体を動かすリハビリも、アレックスは積極的に取り組み、筋肉が落ちて動かなくなった身体に鞭を打ち、歯を食いしばって鍛えた。

 幸いにもアレックスの脳と身体は、どこにも障害は出ないで済み、目覚めてから約1カ月で退院、その1月後にはダニエルの助手として復帰する目途が立った。


 







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