第2話 Dr.アレックス・モロー
2016 a la Cote d'Azur(コート・ダジュール)
2016 a la
救急車のサイレンが大きくなり、病院の緊急搬送口に、頭部から出血している少女が担架に乗せられて運び込まれた来た。
救急隊員の一人が少女の母親に付き添って、手続きを済ませるために、時間外受付窓口に案内すると、すぐさま担架の消えた病院内の処置室へと走って行った。
その処置室で救急車からの受けた知らせを受け、待機していた診療放射線技師たちが、頭部のCT撮影をするために少女をレントゲン室のベッドに寝かた。
一方、救急隊員が母親から聞き出した情報をもとに、脳神経外科医と新設された脳神経科学外科でDrを兼ねるダニエル・モローとその息子で助手のアレックス・モローは、撮影室から送られてきた少女のレントゲン画像を映し出し、異常があるかどうかを確認していた。
友人と別れて公園から帰宅途中だった8歳のエマは、2軒の家の間にある垣根とコンクリート塀に挟まれた細い私道に潜んでいた男に、道案内を頼まれついて行ったらしい。
人の目が届かなくなった時、その男は豹変して、少女に襲いかかった。
幸いにも、垣根の手入れしていた主婦の叫び声により、犯行は未遂に終わり、慌てて逃げ出した犯人は、犬を連れて近くを散歩中だった男性に取り押さえられた。
だが、エマは襲われた時に、コンクリート塀に頭を強くぶつけて、意識を失った。
主婦の通報で警察と救急車、そして、近所に住むエマの母のローラが呼ばれ、
男は警察に逮捕され、ローラとエマは一緒に救急車に乗せられ病院に運ばれたのだった。
午後8時を回り、最小限のシーリングライトだけを点灯した緊急用の待合室は、薄暗くひっそりと静まり返っていた。
アレックスは診察室のドアを開けて、ベンチに座ったり、立ったり、待合室をぐるぐる歩いたりと心配で落ち着きがないローラと、職場から直行したエマの父親のサシャに、中に入るように声をかけた。
1時間ほどの検査の結果、ダニエルが、エマは骨と脳にも異常がないことを告げると、最悪のことを予想していたローラが顔を輝かせ夫のサシャに抱きついた。
ダニエルはそんな二人に、まだこれから出てくるかもしれない注意事項を伝えた。
エマは頭を強く打っているため、頭蓋骨の内側で脳を包んでいる硬膜と、脳の間に徐々に血がたまる慢性硬膜下血腫になる可能性があるということ、その症状例、そして1,2カ月は様子を見るようにとのダニエルの言葉に、夫婦は神妙に頷いた。
その時、女性の看護師が診察室に入って来て、エマの目が覚めたことを伝えた。
ダニエルがまだ夫婦の質問に答えていたので、先にエマの様子を見に行ったアレックスは、エマのヒステリックな悲鳴に迎えられることになった。
エマは男性研修医が傷の手当をしようと処置室に入って来たのに怯え、悲鳴をあげていた。
研修医は自分の仕事をするため、なだめながらエマに近づいたが、エマは暴れて、恐ろしさのあまり、失禁してしまった。
自分の失態に衝撃を受けて、泣き出したエマを、看護師がバスタオルで覆って、慰めている。
その一部始終を見ていたアレックスは、エマが女性看護師には怖気づかないことから、男性異常者に襲われたことにより、エマの心に見知らぬ男性に対しての恐怖心が植え付けられたと推測し、研修医に部屋から出るように告げた。
出入り口付近に立つアレックスが、看護師に指示を出しながら、エマの様子を観察する。
幸いにもエマの傷は縫合も必要なかったため、消毒を済ませた後、身体も身ぎれいにすると、アレックスはある懸念を抱きながら、父親のサシャを呼んでエマと対面させた。
エマは近づこうとする父親に枕を投げ、近づかないでと泣きわめいた。
ショックを受けて立ち止まったサシャを呼び戻して、待合室で待機するように言うと、
アレックスはダニエルに、エマが父親も含めた男性全般に対して恐怖心を持つ、心的外傷を受けたことを伝えた。
エマは家から一歩も外に出なくなり、ローラの姿が見えないと怯えて泣くので、病院内にある心療内科に通うことになった。
薬も処方されたが、飲み続ければ耐性ができ、強い薬、新薬などを試す際に、身体が受け付けない可能性がでてくることを、アレックスは心配した。
ダニエルも同意見で、エマがまだ8歳ということもあり、薬での治療ではなく、バーチャル治療を受けることを両親に提案した。
エマのバーチャル治療は、アレックスが担当することになったが、普通の患者と違い、エマは男性を極度に怖がってしまうことが問題になった。
バーチャル治療は脳科学外科の新しい分野で、脳外科と心療分野の資格を要することから、まだ女医の育成が追い付いていない。
ただでさえ、力と体力のいる外科分野には、女医が少なかった為、子供が親しみを持ちやすい外見のアレックスが選ばれたのだ。
治療に入る前に、アレックスはエマとの交流を試みた。比較的症状の軽い子供の患者が遊ぶ遊具の部屋に、エマを交えた女の子たちだけを集め、アレックスは部屋の隅でそっと見守った。
最初はアレックスの存在に怯えて、反対側の隅でうずくまっていたエマも、仲間たちが誘う遊びの誘惑に勝てず、仲間の中に入っていくようになった。
忙しい勤務時間を割いて遊具室に通い、にこにこした笑顔で見守って、エマに自分は害を与えない存在だと、印象づけることに成功したアレックスは、徐々に部屋の女の子たちの数を減らしていった。
アレックスが顔を見せると、二人の女の子が構って欲しくて近づいて行く。
一瞬ワイルドなハンサムに見えるアレックスは、話すと気さくで明るい性格なのが相手に分かり、年齢、性別に関係なく人気があった。
抱きつく子供たちを相手に、笑い話を披露していたアレックスは、エマが横眼で観察しているのを見て取った。
ここに来て一緒に話をすればいいのにと誘いたくても、今足を踏み出せば、怯えさせて一から出直しになると分かっているので、アレックスはもう少し我慢と自分に言い聞かせた。
時間が来て、一人ずつ名前を呼んでまた明日と言葉を交わした。最後にエマと呼んだ時、無言のままピクリと肩を震わせたが、泣くことはなかったので、アレックスは安堵した。
どうか、自分が呼びかけるのに慣れてくれと願いながら、アレックスは部屋をあとにした。
いよいよ最終のチャレンジになり、エマが一人で遊具室にいるところに、アレックスが顔を出した。エマは仲間に助けを求めるように辺りを見回したが、一人なのを思い出し、隅に行って壁にむかってうずくまってしまった。
アレックスはほんの少し抱いていた希望を失って、がっかりしたが、態度には出さず、優しく静かに語った。
「エマ。ほんの少し話していいかい?」
エマはアレックスに背中を向けたままで、反応しない。
「君は、お父さんが好き?」
「・・・・」
「学校の友達に会いたくない?」
「・・・・」
「私と一緒に、映画の世界で訓練したら、外に出られるかもしれないけれど、やってみないか?」
「・・・・」
「近づきすぎないと約束する。怖いと思っている男の人たちは、みんな作り物だから、君に触れることはない。もし君がその人たちと話すのも嫌だと思ったら、私が追い払うから、安心してついてきてくれればいい」
「・・・・」
「私はエマを助けたい。君のお父さんとお母さんも同じ気持ちだ。みんな君の味方だよ」
返事をしないエマに別れを告げ、アレックスは午後からの手術のために戻っていった。
数時間に及ぶ手術が終わった後、ローラからの伝言を聞いた。
エマが、バーチャル治療を受けて、お友達に会いたいと言ったこと。アレックス先生に助けて欲しいとお願いしていたことを・・・。アレックスは目頭を指で拭った。
バーチャル治療が始まった。それは想像以上に大変な作業だった。
本来施術室には、バーチャル治療を誘導するコンダクターと呼ばれるDrと、患者の二人きりになるのだが、エマはまだアレックスと二人で長時間過ごすことはできない。
仕方がないので、ローラに施術用のソファーに腰掛けてもらい、その膝の上にエマが座ることになった。
コンダクターと患者が考えていることを映像化するために必要なヘルメットも、エマは怖がってつけることを拒否したので、最初は眠らせて施術をすることになった。
MRI型のバーチャル装置がついたベッドに横たわったエマと、ソファーに座ったアレックスはようやくバーチャルリアリティーの世界に入っていくことができた。
バーチャル治療を始めて一カ月経った頃、アレックスはエマの顔色が悪いのと、身体が少し傾いていることに気が付いた。
本人は真っすぐ歩いているつもりかもしれないが、並んで歩くローラに何度もぶつかっている。ダニエルに告げると、すぐに検査になった。
ダニエルとアレックスは、シャウカステンから放たれる明るい光源に透かされた、少女エマの頭部のレントゲン写真を細部まで調べた。
襲われた時のレントゲンではエマの骨や脳に異常はなかったが、ダニエルが心配した通り、慢性硬膜下血種が見つかり、手術となった。
手術は小さな穴を開けて血種を取り除く1時間ほどのもので、1週間ほどの入院で済んだが、エマにとっては、心労が重なったのか、また、ローラの姿が見えないだけで怯えるようになった。
アレックスは諦めないようにローラを励ますと、エマの病室にも毎日通って明るく声をかけ、心の交流を図ろうとした。
絶対に心を閉じさせるものかと決めていた。
エマが慢性硬膜下血腫手術を受けて、退院してから1か月経った今日は、術後の経過をチェックするためのCT検査の日だった。
ダニエルとアレックスの前に腰掛けたローラが、胸に顔をうずめてしがみつくエマを膝に抱いたまま、真剣な顔でレントゲン写真を覗き込んでいる。
ダニエルが手元のパソコンを操作すると、黒い背景に浮かび上がった頭蓋骨が、拡大されると共に薄くなって透けていき、大脳が大きく映し出された。
血種はもちろんのこと、血種で圧迫されていた大脳の偏りも無くなり、正常な位置にもどっているのが確認できた。
ダニエルが、手術前の画像と並べて、再出血はないことを説明し終えると、ほっとしたローラがエマを良かったねと抱きしめた。ダニエルも二人を労ってから、エマの日常生活を聞いた。
「エマは、吐き気もなく、まっすぐ歩けるようになりました。ありがとうございました。以前は、男性全てを怖がっていたのが、バーチャル治療を受けたせいか、父親のサシャにも、すこしずつ心を開いているようです。今朝は出がけに手を振ることができました」
それを聞いた途端、アレックスの口元が嬉しそうに跳ね上がった。
何度も重ねたバーチャル治療で、息子の熱意を感じていたダニエルは、コンダクターのアレックスの判断と誘導が効いて、エマの症状が緩和されたことをローラに伝え、この後も施術を受けるかどうか確認した。
最新治療を受けるには、治療費がかかる。ほんの少し進展した今のままで満足か、それとも、もう少し先を望むかは、患者が未成年の場合は、保護者の確認が必要になる。
「もちろん続けます。どうか、Dr.アレックス・モロー。この子を助けてやってください。お願いします」
「全力を尽くします。今回のバーチャル治療は、前回と同じストーリーですが、私はは全く動かず、エマに判断を委ねて、危険を回避できるか見守ります。異常者を怖がって動けない場合や、パニックを起こしかけたら、前回と同じように、私が異常者を追い払って、男性にも悪い人間と頼っていい人間がいると分かってもらえるように努めます。マダムは今まで通りエマの側にいてあげください」
30分後の施術を告げたアレックスは、ローラとエマが診察室から出て行こうとしたときに、エマに声をかけた。
母に抱かれたエマがぴくっと反応したが、アレックスの方は見ない。
「エマ。また後で会おうね。今日は一人で考えてやってみるんだよ。怖くなっても、私がついてるから、心配しなくていいからね」
「・・・・・」
エマの手がローラの上着をぎゅっと握り、こくんと微かに頷いた。
相変わらず無言ではあったが、これまでアレックスが声をかけても、母親経由でしか意思を伝えてこなかったので、わずかな反応でも、大きな進歩だった。
ローラは溢れた涙を隠そうともせず、ダニエルとアレックスに頭を下げると、部屋を出て行った。
心療内科の所見、治療、薬が記されたカルテに視線を落としたアレックスの目もかすかに赤くなっていた。
「父さん、エマが初めて、現実世界で俺の言葉に応えてくれたよ」
ダニエルはアレックスの肩を、激励を込めてポンと叩くと、次の患者を通すように、看護師に指示をした。
「無理をするなよ。今回の血種で一進一退の状況になっても、あの子はお前を認めて進もうとしている。今まで通りのペースで見守ってやってくれ」
「分かってるよ。じゃあ、行ってくる。父さんも今日は早く切り上げるように。Dr.キリシマとご家族を空港へ迎えに行く日だからね。俺も会えるのを楽しみにしてるよ」
「お前が楽しみにしてるのは、トウゴじゃなくて、写真で見たかわいいマドカと話すことだろ?」
「さすが、脳科学外科の第一人者だね。俺の考えてることまでお見通しだ」
こらっとダニエルが冗談で怒るのを背に受けて、アレックスは廊下へ出ると、それまで浮かべていた笑みを消して、施術室へと向かった。
施術室にアレックスが入ると、施術用の大きなソファーに、母親に抱かれて座ったエマが、傍らに置いてあっヘルメットに手を伸ばす。
以前はこれをかぶせるどころか、意識を保ったままでの施術が難しく、眠らせたままMRI型のバーチャル装置につないで施術を行ったのを思い出し、アレックスは微笑みを浮かべた。
専用のゴーグルを下ろして自ら目を覆うと、エマはぎゅっとローラの手を握った。
「エマ、施術に入るよ。気分が悪くなったら、いつでもママの手を叩くんだよ。ママが左のレバーを押して私に知らせてくれるからね。じゃあ行くよ。
真っ暗なゴーグル内に景色が浮かび上がってきた。
公園ではエマと同じ歳の子供が遊んでいる。
この治療を始めた当初のエマは、公園が映った途端に、ママ迎えに来てと泣き叫んだのだ。
あまり近づくとエマが震えるので、2mほど離れた斜め後ろの位置で、アレックスはなだめたり、すかしたりしながら、エマにひとつずつミッションをクリアさせていった。
だが、今日はアレックスは何も言わない。エマが一人で考えて行動するのだ。
エマは元々社交的な子供だ。アレックスから離れて子供たちに声をかけるが、これは組み込まれた画像で、エマと会話をする子供はいない。
だが、エマは構わず、みんなの輪の中に入っていく。
まだ現実では外に出られないエマは、今はこの世界での遊びを気に入っているらしく、一緒に歌を歌ったり、子供たちの会話にあいづちを打ったりしている。
追いかけっこが始まった。エマは子供たちと一緒になって走っている。
アレックスは、公園の一角にあるベンチに座って、エマが早く現実世界で、本当の子供たちと遊ぶことができるように願いながら、バーチャル世界で過ごすエマの様子を見ていた。
公園の入口から、衣類をだらしなく着た眼付の悪い男が入って来て、子供たちにお菓子を見せて、もっと食べさせてあげるから、一緒に行こうと誘う。
以前はパニックになったエマも、今はただ首を振って、その男から遠ざかるようになった。
すると男が出口から帰っていく。
よし。一人目成功とアレックスが小声で呟いた。
次は5歳くらい年上の男の子たちだ。サッカーをするために、公園にいる女の子を威嚇して追い払おうとする。エマはいち早く遊具の影に隠れて、身体を小突かれるのを防いだ。
こうしながら、防御を覚えていって、男性がいても平気だと慣らしていく。
いくつかのミッションをクリアして、最後は家に帰ることになった。
いつも、ここで失敗する。ここはエマの家の近くのあの細い私道があるところだ。
本物を撮影してプログラムに組み込んであり、怖い思いをした記憶を、自分で回避できたと上書きし、自信をつけさせる為に絶対に必要な個所だった。
アレックスは、少し離れてエマの後をついていく。
小道が見えると、エマの足が竦んだ。 エマ頑張れとアレックスは心で声援を送る。
でも、いくら強く願っても、エマはいつもくるりと180度回転し、元いた公園へと走って行ってしまうのだ。
アレックスがその男をやっつけても、エマはその先へは進んだことがない。
心の恐怖が打ち勝って進めないのだ。
小道から男が顔を出し、エマに手招きする。エマの顔が引きつった。
エマが180度身体の向きを変えて、公園をバックにして立つアレックスの方へ歩き始めると、アレックスはまたダメかと落胆した。
ところが、エマはアレックスにどんどん近づいてきて、まさかと思った瞬間、アレックスの手を取った。
あまにも驚いて、握り返すことも、誘導することも忘れたアレックスを見上げ、エマが「お家」と口にした。
あんなに男性を怖がっていたエマが、アレックスの手をとって、家まで連れて行ってと頼んでいる。
大丈夫だ。もうこの子は大丈夫だ。きっと普通の生活に戻っていける。
アレックスは潤みそうになる目をしばたかせ、エマの勇気に応えるようににっこり笑うと、エマと一緒にその道の前を通り過ぎた。
まだまだ、課題はあるが、ようやく恐怖を乗り越えたのだ。
アレックスの胸は一杯になった。
エマの家に辿り着くと、エマはやったーと飛び跳ねて、アレックスにありがとうと言った。 アレックスこそ、飛び上がりたいほど嬉しかったが、エマの頑張りを褒めてから、ローラに報告をしにいこうと、現実に戻るためのカウントダウンをした。
治療が終わり、バーチャル治療のヘルメットを取り外したエマは、ちらりとアレックスの顔を見てから、すぐにローラの腕に顔を押しつけ表情を隠してしまった。
でもその頬は紅潮し、口元は上向きに弧を描いていた。
アレックスの胸に喜びが込み上げ、心の底から叫びたくなった。
今日は何て素晴らしい日なんだろう!
きっと、これから会う霧島一家とも有意義な日を持てるに違いない。
ふと、トウゴから送られてきた写真で見たまどかの顔を思い出し、アレックスの口元にもエマと同じ微笑みが浮かんだ。
あのかわいい日本の女性と会えるのが楽しみだ。
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