第3話 出会い


     2016 a la Cote d'Azurコート・ダジュール


 飛行機が片側に傾き、ゆっくりと旋回して着陸態勢を整え始めた。

 窓の外いっぱいに広がった地中海は、日本の暗い海の色からは、かけ離れたコバルトブルーで、その美しさにまどかは息をのんだ。


 長いフライトの疲れも吹き飛んで、空港に降り立ったまどかは自然と速足になる。

 登吾と和美は、そんなまどかに置いていかれないように後を追うが、視線をあちこちにさまよわせて、辺りを物珍し気に観察しているまどかには、両親を気にする余裕もない。


 漫画を描く習性なのか、外に意識を解放するより、どちらかというと自分の世界に漂うことが好きなまどかだが、普段見慣れている景色とはあまりにも違う所に来た途端、こんなにも積極的に物事を知りたい気持ちがみなぎることに、自分自身驚いていた。

 看板、表示、歩いている人間、どれをとっても、まどかには物珍しく、刺激的だった。


 ここでの日程は、父の友人の家に十日程滞在し、イタリア旅行に三日間出かけた後、もう一日父の友人宅で過ごして、次の日に出国。

    

 来る前はゆったりした工程だと思っていたが、もう一日目は移動で使い果たしてしまっている。

 そう思うと、時間がもったいなくて、何もかも見過ごさないようにしなくてはと意気込んでしまう。


 預けた荷物を受け取るバゲッジクレームにつくと、そんな無機質な場所にさえ、日本との違いが目に留まる。

 日本のターンテーブルは機能的で無駄のない楕円形だが、ニースのそれは、空きスペースを利用した結果なのか、ベルトコンベヤーが配置された軌道の描く曲線が面白かった。


 美やデザインを重視するお国がらのせいなのかと、一瞬くだらないことを考えて、どれだけ自分が感化されているのかと恥ずかしくなり、紛らわせるために、まどかはターンテーブル沿いに歩いた。


 流れる荷物の中に自分のスーツケースを見つけて、まどかが重たいそれを一生懸命引きずり降ろそうとした時、隣にいた男性がすっと手を伸ばし、代わりに取って床に下ろしてくれた。

 さすが外国人男性!女性に対するマナーが違うと感心しながらお礼を言うと、男性は『どういたしまして』とフランス語で答えて、去って行った。


「一応まどかでも、レディー扱いしてもらえるんだな」

 登吾が笑うと、和美もまどかを揶揄った。

    

「東洋人は年齢より若く見えるらしいから、まどかをまだ子供だと思ったんじゃない?」

「二人ともひどいな~。私のどこがお子様に見えるのよ」

 精一杯背伸びして、慣れない大人のワンピースを着てきたつもりのまどかがむくれたので、登吾と和美は顔を見合わせて、また笑った。


 まどか達がスーツケースを引きながら、到着ロビーに足を踏み出すと、出迎えの人混みの中から一人の男性が進み出て、登吾の名前を呼んだ。

 登吾とその男性は、再会を喜んで硬く抱き合い、お互いの近況を確かめ合うと、男性は連れの若い男性を振り返って、息子のアレックスだと紹介した。


 登吾が和美とまどかに、元共同研究者だったダニエル・モローと、ダニエルがフランスに戻ってから研究助手を務めている息子のアレックスを紹介している間、まどかは、失礼だと分かっていても、アレックスに目が引き寄せられてじっと見つめてしまった。


 流れるように軽くウェーブがかかったアッシュブラウンの髪と日焼けした肌。

 きりりとした眉の下には、冴えたブルーグレーの瞳が知性と好奇心を湛えていた。

 鼻筋が通り、厚めの唇がセクシーさをプラスして、まどかが知っているどの男性よりハンサムだと思った時、すっとその瞳が動き、まどかを捉えた。

    

 まどかはどきりとして、見つめていた気まずさから目を泳がせたが、アレックスの唇が弧を描いて微笑むと、今度はその口元に目が釘付けになった。


『初めまして、アレックスです。ようこそフランスへ』

 低くて心地よく響く声をもっと聴いていたいと思いながら、まどかも授業で習ったフランス語で、自己紹介をした。

『初めまして。まどかと申します。でも、フランス語はあまり話せないので、英語で話してもいいですか?』

『もちろん、いいよ。ひょっとして、フランス人はプライドが高いから、英語を話さないなんて思ってないよね?』


 ひと昔前の逸話を気にかけていたから、まどかはわざわざ英語で話していいか確認したのだが、アレックスにはどうやら見抜かれたようだ。

 いたずらっ子のように眉を上げたアレックスの顔を見て、そのフレンドリーさに安心したまどかは、ふふっと笑いながら白状した。


『ごめんなさい。ちょっと思ってたかも…』

『今の十代、二十代なら、英語は必須科目だから、大抵は英語で質問しても答えられると思うよ』

『そうなの?良かった。じゃあ、街中で迷子になっても大丈夫ね』


 二人のテンポの良い会話を目を細めて聞いていたダニエルが、まどかと和美のために、フランス語から英語に切り替えて登吾に話しかけた。

    

『アレックスとマドカは気が合うみたいだね。トウゴ、長いフライトで疲れただろう?歓迎会は明日にして、今夜はこのまま近くのレストランで食事をしてから、我が家に来てもらってもいいかな?』


『もちろんだ、ダニエル。時差のせいで食事の時間がずれたから、奥さんに用意してもらった料理を残したらどうしようと心配してたんだ』

『じゃあ、気軽に入れるレストランに行こう。マダム.カズミ、中華、インド料理、日本食、イタリアン、フレンチどれがいいですか?』


 和美は突然選択権を委ねられて、どぎまぎした様子で、アレックスとまどかにその役目を振った。

『わ・私たちは少量でもいいけれど、若い人たちはお腹が減っていると思うから、ムッシュー.アレックスとまどかに任せるわ』


『ええ~っ、そんなお母さん、いきなり言われても私にも分からないわ。ムッシュー.アレックスがお勧めのところに案内してください』

『アレックスでいいよ。俺もマドカと呼んでいいかな?…そうだな、カレーはどう?最近流行っているレストランがあるんだ』


 お腹が一杯のまどかたちは、カレーなら胃を刺激されて食べられるだろうと賛成した。


     


 空港からニースとカンヌを結ぶメイン ストリートを、カンヌ方面に少し車で走ると、大きな駐車場と建物の周りを取り囲むオリーブの木がみえてきた。


 その駐車場につくと、アレックスが助手席を降り、すかさずまどかが座っている後部座席のドアを開けた。

 あまりにもスムースなエスコートに、まどかが固まっていると、和美が笑いながら、背中を押して下りるように促す。

『あ・ありがとう』

 それだけ言うのがやっとで、まどかは車を降りて、周囲を見回した。


 十九時代だというのに、南仏の空は明るくて、まるで日本の十六時代のようだ。

 ここまで来る途中のビーチでも、沢山の人たちが波と戯れていたのを見て、日本じゃないんだと改めて実感させられた。

 空気も日本の夏特有の湿気を帯びた蒸し暑さはなく、からりと乾いて日陰に入ると涼しかった。


 カレーを食べると聞いて、インド風の建物を想像していたまどかは、ヤシの木が立ち並ぶアプローチを抜けて目の前に現れた建物に驚いた。

 元は洋食レストランだったのか、フレンチ窓を多用した白い瀟洒な建物は、中に入っても外見と違わず、赤いカーペット、ロココ調のオブジェが置いてあり、まどかはその違和感に唖然としてしまった。


 その様子にアレックスが笑いをかみ殺して囁いた。

『経営者はフランス人だからね。オーナーの息子は日本人が大好きだから、きっとテーブルまで来ると思うよ』

    

 アレックスが言い終わらないうちに、金髪碧眼のハンサムなギャルソンがやってきて、まどかたちを見ると破顔した。

「こんばんは。日本人ですか?ようこそいらっしゃいました」


 いきなり日本語で語りかけられ、思いもよらないプレゼントをもらったように嬉しくなったまどかは、自分の気持ちに戸惑いながら、彼よりもぎこちない日本語で挨拶をかえした。

 見るもの、聞くもの、新鮮な異国の地で、日本との違いに目を見張っていたくせに、日本語で語りかけられると、ころっと嬉しくなるなんて、まるで親離れできない子供のようだと自分がおかしくなった。


 彼の案内するテーブルにつくと、彼はうきうきした様子でメニューを一通り日本語で説明した。

「日本語お上手ですね」

 まどかがにっこりしながら彼を誉めると、大きな尻尾を振る犬のように喜んで、まどかに向き直った。

「俺はテオといいます。日本のアニメやマンガが大好きで、そこから日本語を勉強しています」


 漫画家を目指すまどかには、テオが日本の漫画のファンだということが、とても嬉しかった。

 でも、両親にも漫画家になりたいと言ったことがないまどかは、なれなかった場合を考えて、一ファンにとどめることにした。

    

「漫画は私も大好きです。パリで、ジャパンエキスポという日本のアニメやマンガのお祭りが開催されるのは知っていましたけれど、南フランスにまで熱心なファンがいるなんて驚きました」


 まどかとテオが話しているうちに、他の4人はメニューを決め、次々にオーダーした。テオは辛さや量やトッピングを尋ねてから、まどかに向き直って聞いた。

「おまえは?」

「えっ?」


 一気に場の空気が凍ったのを感じ、アレックスがまどかの顔を窺った。

『どうした?何か問題でも?』

『え~っと、多分漫画で覚えたからだと思うんだけど、初対面の人に使ったら失礼にあたる「You」を使われたからびっくりしたの』

 まどかはオーダーを伝えた後、テオに「あなた」を使うようにした方がいいと教えると、テオは少し頬を染め、謝ってから店内に消えた。


 なんだか悪いことをした気分になって、まどかはテオが消えた厨房の方を何度もちらりと覗き見た。

『気にすることないよ。もし、知らずに他の日本人客に言って怒らせたら、それこそ彼はショックを受けると思うから・・。それより、明日から十日間程、病院に休暇届を出してあるから、行きたいところがあったら、案内するよ』

『私たちのために休んでくれたの?ありがとうアレックス』

『どういたしまして。マドカに喜んでもらえると、俺も案内しがいがある。ムッシュー.トウゴとマダム.カズミはどこか行きたい所はありますか?』

    

『アレックスとマドカは、若い者どうしでコースを組むといい。私はトウゴとマダム.カズミを案内しよう』

 ダニエルの提案に一同は賛成して、あとは観光コースや、政治問題、流行していることなど、会話に花を咲かせ、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


 食事を終え、ダニエルが席についたままチェックを頼むと、テオがやってきて、請求書をまどかの前に置いた。

「えっ?私?」

 目を真ん丸にして、周囲の大人の顔を交互に見るまどかの様子がおかしくて、笑いが起こる。

「ああ、間違えました。あなたにではなく、ムッシューにでした」

 テオがウィンクをまどかによこし、ダニエルの前に置きなおした。


 ああ、さっきの注意を素直に受け入れて披露してみせたんだと察したまどかは、テオのスマートな対応で、彼に恥をかかせたのではないかと気にしていた心が晴れた。

 こういう機転の利かせ方って見習わなくっちゃと自然に笑顔が浮かんだ。


 レストランを出た一行は、ダニエルの運転する車で家に向かった。

 南フランスに多いオレンジシャーベット色の塗り壁の家は、ようやく暗くなった空の下で外灯に照らされて、刷いたり、うねりをつけた模様の複雑な影を壁に浮かび上がらせていた。

    

 開閉式のミントグリーンの鎧戸を、両側につけた窓がいくつも並ぶ大きな家は、とても洒落ていて、雑誌で紹介されそうだとまどかは感嘆したが、ふとあることに気が付いた。

「お父さん。網戸が無いんだけど、蚊や虫は入ってこないの?」

 登吾と和美もおやっと思ったらしく、ダニエルに尋ねる。


『日本のように湿気が強くないせいか、蚊は少ないんだ。電子蚊取りをつければ、開け放って寝ても大丈夫。日中は日差しを防ぐ鎧戸を閉めていれば、風が入るし、涼しくてクーラーは殆どいらないよ』

『へ~っ。何か驚くことばかり!』


 まどかが他に聞くことはないかと、辺りをきょろきょろ見回したので、和美が落ち着きなさいと腕を突っついた。

『まどかがこんなに好奇心むき出しで、行動するのを初めて見たわ。国内旅行に行ったって、一通り眺めるだけで、あまり感情を出さないし、すぐに自分の考えに浸っちゃうしね』

『お母さん。日本人は同じことが大好きでしょ?お土産を見ても、名前が変えてあるだけで、どこでも売っているものばかりだから面白みがないの。建築物だって古い建物でなければ個性を感じられないし…。それに比べたら、ここは、空気から本当に日本と違うわ。五感が刺激されっぱなしよ!』

 大きな目をキラキラさせて興奮気味に語るまどかは、いきいきとして、とても輝いていた。


 アレックスはそんなまどかの様子を眩しそうに眼を細めて見た。

 そして、あちらこちらを観察するのを邪魔しないように、歩調を合わせてアプローチを抜け玄関にいざなった。


 すると、まるで見計らったように、大きな扉が開いて、美しい女性が顔を出した。

『いらっしゃい。話声が聞こえたんだけど、いつまでたっても入ってこないから、庭で遭難しちゃったかと思ったわ。初めまして、ダニエルの妻のイレーヌです。ようこそフランスへ』

 ユーモアたっぷりで快活なところは、アレックスが受け着いだに違いないと、まどかはイレーヌに好感を持った。


 イレーヌもまどかを一目見て気に入ったようで、リビングでお茶をふるまいながら、色々な話を振った。

『そう、大学4年生なら、アレックスと4つ違いね。アレックスは主人と一緒で研究に没頭して、大学時代から付き合っていた女の子に去年ふられたのよ。でも、新しい彼女を見つける暇もないの』

『母さん、そういう話は本人のいないところでしてくれよ』

 慌ててアレックスがイレーヌを止めたが、その慌てぶりがおかしくって、まどかはくすりと笑ってしまった。

『俺だけ秘密を暴かれるなんて不公平だから、まどかも秘密を白状すること!彼はいる?』

    

 まどかの横で、登吾と和美が合わせたように大きく首を振ったので、まどかは唇を突き出し、軽くにらんでから、いないと白状した。

 何だか家族ぐるみのお見合いみたいで、まどかはとても照れくさくなった。

 ダニエルもイレーヌも絵に描いたような素敵な夫婦で、その両親に育てられたアレックスは、外見もさることながら、性格もまっすぐで男らしくて、周りの女性が放っておかないんじゃないかと思われた。


『私は自分から押せないからもてないけれど、アレックスがその気になったら、順番待ちをしている女性がすぐ飛んでくるでしょ?』

『おやおや、私の娘はいつの間にそんな言い方を覚えたんだ?』

登吾が笑うと、アレックスが悪のりして、大げさにうそぶいた。

『純情な俺をまるでプレイボーイみたいに言うなんて、傷つくよな全く!』

 リビングにみんなの笑い声が響き渡った。


 まどかにとっての南フランスの第一印象は、景色も人もとても素敵で、これからの2週間の滞在中に、どんな素晴らしいことが起きるのか期待で胸が一杯になった。




 

 聞きなれない鳥の声に目が覚めて、辺りを見回すと、まどかはここが日本の自分の部屋じゃないことを思い出した。

 優雅なアイア ンベッド、花や鳥をパターン化した美しいトワレ柄の壁紙とカーテンは、まるでリゾートホテルにいるようだった。

 湿気がないせいか、朝の空気はひんやりとして、山の朝のようだ。


 着替えて、優雅なアイアン手すりを施した階段を下りると、別室の客間で休んだ両親はすでに起きて朝食を食べていた。

『おはよう。まどか。良く眠れたかしら?』

 イレーヌがにっこりと笑い、朝食のプレートを差し出した。

『ええ、ありがとうございます。素敵なお部屋で快適に眠ったせいか、とっても目覚めがよかったです』

『まぁ、それは良かったわ。私はこれから雑貨店の仕事にいくけれど、ダニエルとアレックスに行きたいところに連れていってもらってね。遠慮はなしよ?』


 姿勢とスタイルの良さに加え、しぐさが洗練されているイレーヌは、すっきりとしたシャツとプレーンのスカートでも、お手本にしたくなるようなエレガントな女性だった。

 ヨーロッパ人の多くが、夏季休暇を2週間から1か月取る中、南フランスは夏がメインの保養地なので、イレーヌは自分の経営する雑貨店の書き入れ時に休めないらしい。

 じゃあ、また夕食時にねと言い残し、店へと出かけて行った。

    

 イレーヌと交代したかのように、Tシャツにサイクリングパンツをはいたアレックスが帰ってきた。

 アレックスがグローブを外し、汗でしめった髪をかき上げると、腕の筋肉が盛り上がった。そこから目を外したつもりが、ぴったりと張り付いたシャツのせいで引き締まった男らしい身体が視界に入り、まどかはドキドキしながら、おはようと声をかけた。

『ああ、マドカおはよう。今日も良い天気だよ。あとでドライブに行こうか?ちょっとシャワーを浴びてくるから待ってて』


 リビングに面したテラスから、ダニエルが切ったばかりの花を持って入ってくると、和美が立ち上がって花を受け取り、ダニエルから渡された花瓶に品よく生けた。

 ダニエルに日本の華道の決まりを説明しながら、洋風の花を日本流にアレンジした母を、まどかは少し誇らしく思った。

 ダニエルがしきりに褒めるのを見て、こんな日常のさりげないことさえ、一つの文化交流になるんだなと感心した。


 あまりにも、熱心にみていたせいか、和美が気が付いてどうしたのというように首を傾げた。

「お花がどうかした?」

「うん。ちょっとね・・・。私がフランスの文化や物に興味があるように、彼らは日本の文化に興味があるんだなって思って・・・。 外国語が話せるだけじゃなくて、日本人としてのアイデンティティを持ってないと、本当の国際交流はできないんだなって思ったの」

「ふぅ~ん。すごい。昨日ついたばかりで、もう目覚めちゃったんだ?」

「茶化さないの!いつもお母さんが言ってるでしょ。国内旅行をしても反応が薄いって。あるのが当たり前すぎちゃって、自分の国の文化に無関心すぎたなって反省してるの」

 ムキになって反論するまどかを、和美は優しい目で見つめて微笑んだ。



 朝食のあと、ダニエルと、登吾と和美は、カンヌへ観光に行き、まどかとアレックスは別行動をとることに決まった。

 アレックスはまどかを車に乗せ、昨夜まどかたちが着いたニース空港を通り過ぎ、ニースの街へと向かった。

    

 窓にへばりつくようにして、目に染み入るようなコバルトブルーの海を見ているまどかに、アレックスが話しかける。

『ニースはイギリス人の保養地として栄えたところなんだ。この海岸沿いの道はプロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)なんて名前がついているんだよ。ああ、そうだ!毎年夏にはここで花火大会があるんだ。十日ほど先だけど、よかったら見にこよう』


 右手に白いパラソルが花のように咲いたニースの海岸を、左手には有名なホテルが立ち並ぶ中心街を見ながら通り過ぎ、到着したのはモナコ寄りにあるエズという鷲の巣村の一つだった。


 鷲の巣村は、その名の通り、他の動物から卵や雛を守るため、鷲が崖や山の頂上に巣を作ったことに由来している。

 この地方は、スペイン、ローマ、北アフリカからの侵略で、統治する国がころころ変わったので、侵入者をより早く見つけるため、海を見下ろせる高地に拠点を固めた。

 占領の際、農民が城主に助けを求めることもあり、城砦を頂上に作って、いざというときに逃げ込めるようにした。隙間なく建てられた石造りの家の壁自体が、城郭都市の役割を担っているようだ。

    

 そのため、びっしりと立ち並んだ家の間を通る道は、幅が狭くて分岐点がいくつもあり、頂上へ至るまで迷路のような役割を果たして、侵入者が一度に大勢で攻め込めないようになっていた。


 昨今は、夏季だけのお店やブティックが開かれる観光地に変わり、頂上に作られた植物園から見渡す地中海は素晴らしい景観だ。

『ほら、あそこに海へ突き出したレストランのテラスが見えるだろ?あれはコーヒーのコマーシャルで使われた場所なんだ』

『すごくきれい!白いパラソルが光る海に映えるわね』


 うっとりと眺めるまどかの頬を撫でるように、さらさらのロングヘアが風で踊り、横にいるアレックスに誘うように伸びてくる。

 思わずそのひと房を手に取ってしまったアレックスが、同じように驚いて振り返ったまどかに照れながら謝った。

『ああ、ごめん。でも、なんて綺麗な髪なんだ!俺たちの髪は細くてウェーブがかかっているけど、日本人の髪は一本一本がしっかりしていて、真っすぐなんだね』

 

 手の上の髪を指でなでながら、アレックスが感嘆したようにつぶやいた。

 髪の毛に神経なんて無いはずなのに、アレックスの指に絡みながら、零れ落ちる感覚が地肌に伝わるようで、まどかは思わず首をすくめた。

    

『アレックスの髪だって、色も綺麗なアッシュブラウンだし、セットしやすそうで羨ましいわ。私たちは殆ど同じダーク色の目と髪でしょ。きっとアレックスが日本に来たら、みんな同じ顔に見えるんじゃないかしら?』


『う~ん、確かに映画やテレビで見ると、人物の区別がつきにくいときがあるね。特に、ニュースに映る若い人たちのファッションは似通っているから、どの人も同じに見えたりするかな・・』


『でしょ?日本人は流行に流されやすいし、単一民族が同じ恰好をすれば、個性を大事にする外国人には見分けがつかないわよね』

『でも、マドカなら見つけられる自信があるな』


 あまりにも堂々と明るく言われて、まどかはどきっとしながら、その意味を推し量った。

 一つはアレックスにとって、まどかが特別に見えるという意味。

 でも、出会ったばかりで、父の客人としてもてなす相手として接しているだろうから、それは考えられない。


 あと一つは、日本でもよく言われる、ぼ~っとしている時があるとか、夢見ているような表情をしているとかいう、いわゆる他人から浮いている存在という意味だろう。


 アレックスからそんなことを聞きたくなかったが、口をふさぐこともできず、その少し厚めでセクシーな唇から漏れる言葉を覚悟した。

    

『マドカは目で語るタイプだね。何に興味があるのかは、その視線を追っていけば分かる。その熱のこもったきらきら光る瞳を見れば、普段見慣れている風景さえ、俺にも特別に思えてくる。きっと心の中に、溢れるほどの好奇心や、探求心を持っているんじゃないかって思うよ』


 ふわっと心に風が吹き込んだような気がして、まどかは慌てて気持ちを引き締めた。

 だめだめ、気持ちまでさらわれちゃ!2週間後に帰国するんだもん。

 お互いに仕事が始まったら、アレックスは研究に没頭するだろうし、私は新入社員で覚えなくちゃいけないことが沢山あって、コンタクトをとり続けること自体難しくなるだろう。


『私を美化してくれてありがとう、アレックス。でも、実際はそんなに情熱的でもなくて、日本では何となく一日が過ぎましたって感じなの。アレックスこそ何に対しても真摯で、情熱的って感じがするわ』

『ああ、研究に関してはね。真摯で情熱的すぎて、彼女にふられるくらい研究バカなんだ』


 通りすがりの観光客でさえ、アレックスに目を止めるほど恵まれた容姿なのに、肩をすくめる仕草がかわいく思えて、まどかはにっこり微笑んだ。


 その時、海の方でボ~ッと汽笛が鳴って、大きな豪華客船がゆっくりと動き出した。

 切り立った崖から見下ろす海は、海岸部分で泡立つ波がまるで白い絵の具のように溶けだして広がり、コバルトブルーの海面に濃淡を揺らめかせた。

    

 ビーチからほどなく深みを増した海のキャンバスを、悠々と進む真っ白な大型船が、筆で刷いたような白波を立てている。


『あれはアラブなどのオイルダラーの持ち物だよ。船舶に会社のマークがないだろ?船でバカンスにきたんだと思う。まどかは、船と飛行機とどっちが維持費がかかるか知ってるかい』


『えっ?飛行機かしら?空を飛ぶのって燃料かかりそうだし…』


『ところが船を維持する方がかかるんだ。飛行機は専属のパイロットでなくても、

目的地までレンタルすることができるから、人件費も限られてくる。

ところが船は船長、コック、整備係、清掃係などの大勢のスタッフを、旅行中ずっと駐在させないといけないだろ?そして何より燃料費がかかるんだよ。

二十メートル級の軽油使用の船で、リッター数百mしか走らないらしいけれど、

あのクラスは重油だし、ずっと船旅をしているんだろうから、燃料代は想像もつかないな』


『ふ~ん。でも、オイルダラーなら燃料代気にしなくていいかも!』

『そうか!油田を持っているオイルダラーに燃料費は関係ないか』

『なんか生活が違い過ぎて、私がいかに凡人かを思い知らさる気分だわ』

『そういう飾らないところが、マドカのいいところだね』

『はい、はい。素朴ってことでしょ?』


 キラキラ光る波を眼下に眺めているせいで心が広く開放されたのか、会って1日も経っていない異国の男性と、こんなにリラックスして話せる自分にまどかは驚いていた。


 張り出した枝の影が映る石畳を歩きながら、アレックスが土産物屋のショーウィンドウを覗き込む。

 古い石壁にはめ込まれた大きなガラスには、凝ったアイアン窓枠がついていて、さすが芸術の国だと感心させられる。


 アレックスに続き、まどかも中を覗き込むと、瀟洒な香水瓶や陶器の靴、花瓶など、ロココ調を思わせる土産物が物語の世界のように並べられていた。

 窓に張り付いたまどかを見て、アレックスがクスクス笑いだした。

『ほら、目がキラキラ輝いてきたぞ!クリスタルの土産物より眩しいかもしれない』


 むっとした顔をわざと作って、まどかはアレックスの腕をぴしゃりと叩いた。

 硬い筋肉にちょっと驚いたけど、素知らぬフリをする。

『痛っ!俺はガラス製品より繊細だから、取り扱い要注意なんだぞ』

『ガラスじゃなくてグラスファイバーでしょ?』

『ひどいな、それ!せっかくここに来た記念に、何かプレゼントしようと思ってたのに・・・』


 まどかがちらっとアレックスの顔を窺うと、それを予測していたアレックスがにんまりと口の端をあげて笑う。

『ほんと、マドカの目には表情があるよ!期待してますって訴えてくる』

『じゃあ、表情を消すから私の欲しいものを当ててみて。当たったら、魔法使い認定してあげる』

 アレックスがそんなのお手の物というように軽い足取りで店のドアを開け、〝Bonjour″と店のマダムに声をかけると、まどかにどうぞと中に入るよう促した。


 まどかは表情に出さないように、お土産ものをあちこち見て回った。

(うわ~っ。この香水瓶のフォルム素敵!三十五ユーロもするんだ。

あっ、でもこっちのミニュチュアのハイヒールは豪華だわ。

陶器の色がパールピンクから水色に変わるグラデーションが綺麗だし、

陶器の花が沢山ついててすごく素敵!あっこっちのお人形は・・・)


 無表情を装っていたのは最初だけで、まどかの目が輝き、頬は紅潮して、唇がほころんだ。

 笑いを湛えたアレックスが、距離を置いてその姿を観察していることに、まどかは全然気が付かないほど夢中になっていた。


 ふとまどかの目の前が陰り、大きな手が伸びてきて、まどかの目を釘付けにしている陶器のミニュチュア・シューズを持ち上げた。

『これを母に買っていこうかな』

『あっ・・それ…』

 追いすがるようにまどかの手が上がったのを見て、アレックスが俯きながら笑うのを必死で耐えている。

『ひどいわ!ひっかけたのね』

    

『もし、俺に特殊な力があったとしても、マドカには使わなくても済むと思う。ほら、これ欲しいんだろ?』

『‥‥んーっ』

 簡単に当てられたのが悔しくって、素直にうんと頷けないまどかを後目に、アレックスがレジに進んだ。


『スーツケースに入れるから、緩衝材で包んで割れないようにしてもらえますか?包装もプレゼント用でお願いします』

『ウイ。メルシー、ムッシュー。とてもお綺麗な彼女ですね』

 品の良いマダムがシューズをエアーキャップで包み、古典模様が描かれた箱に入れてリボンをかけてくれた。

 日本では綺麗な包装は当たり前だが、こちらは簡易包装が普通で、頼まなければこんな風に素敵な包装はしてくれないことを、まどかは登吾から聞いていたので、アレックスの心使いが嬉しかった。


『ああ、残念ながら彼女ではなく、父の友人のお嬢さんなんです。今日は役得で俺が観光案内をしています』

 南フランス人は陽気で、初対面の人とも楽しんで会話をしをする。

アレックスもマダムとウィットのある言葉をやりとりした後、包んでもらったプレゼントをまどかに渡して店を出た。


『アレックス、あの・・ありがとうございます』

 改まってまどかがお礼を言うと、それがアレックスの癖なのか、片眉をあげていたずらっ子のような表情をした。

『マドカの欲しいものを当てたんだから、当然俺にもご褒美があるよね?』

    

『えっ?この靴はだめよ!マダム・イレーヌには他の物を買ってあげるから・・』

 まどかが、あたふたとしながら包みを急いで背中に隠したので、アレックスはまた大笑いするはめになった。


『マドカといると、笑い過ぎて腹筋が筋肉痛になりそうだ。プレゼントした靴を取り返したりしないよ。そうだ、靴にまつわる言い伝えを知ってるかい?』

 石段を下りながら、まどかがう~んと首を捻る。

『何だろう?旅行とか、出発のイメージが思い浮かぶんだけど』

『ああ、近いね。素敵な靴を履くと、素敵な場所へ連れて行ってくれるとか、自分の人生を歩く意味で自立とか、あとは恋人には贈らない国もあるかな・・・』


 話の途中までは、そんな意味があるんだと感心していたまどかは、最後の言葉に引っ掛かりを感じた。恋人には贈らないのに、まどかには贈ったということは・・・・


『そんなに警戒しなくても、誤解したりしませんよ~だ』

 まどかが軽くにらむと、アレックスが慌てて訂正する。

『ああ、ごめん。ただのトリビアなんだ。恋人がよそに行かないように贈らないんだってさ』

『ふ~ん、愛しているからこその羨ましくなるような風習ね。でも私はそんな後ろ向きな願掛けより、素敵な場所へ連れて行ってくれるエピソードの方が好きかな』

    

『ああ、まどかなら、目を皿のようにして、あちこち珍しいものを探すんだろうな』

『アレックスの中の私のイメージってどうなの?まったく!警戒心がゼロの子供みたいに聞こえるわ』

『マドカなら、興味があるものしか目に映らなさそうだし、隣にいる人の存在も忘れて走って行ってしまいそうだから、もしマドカが彼女だったら、靴は絶対贈っちゃだめだな』

 明るい展開に、まどかの口元も緩んで、笑い声がもれた。


 冗談を応酬しているうちに、エズの入口付近のレストランに着き、二人はブルターニュ地方の家庭料理であるガレットとサラダを注文した。

 そば粉のクレープに載せるのは、1枚はシーフード、もう一枚はチキンとシャンピニオンの具材を選び、シェアすることを伝えた。

 どうやら先に言ってお皿を用意してもらわないと、相手の皿に半分どうぞと載せるのは、あまりマナーがよくないらしい。


 出てきたガレットは、シーフードはもちろんのこと、喉の奥から鼻に抜けるような香ばしいシャンピニオンや、お肉の味が濃いチキンも、まどかにとっては初めて食べるような美味しさだった。

 店を出て、駐車場に向かいながらも、まどかがしきりに料理を褒めるので、歩いたからお腹が減ったんだよと、アレックスが呆れたように返した。

    

 普段から食べなれているせいか、アレックスにとってはこれといった感動はない。まどかの大げさにも取れるような誉め言葉が面白くて、ついつい揶揄いの言葉が出る。


『いつか俺も日本に行って、マドカが食べ慣れているものをがつがつ食べながら、こんな美味しいものを食べるのは初めてだと言いたいな』

『私はがつがつなんてしてません』

『ははは・・・失礼。マドカの食べ方は上品だよ』

『取ってつけたような言い方で、嬉しくな~い。でもね、気の合う人と会話を楽んで食べる料理は、どんな調味料を使うよりおいしく感じられるのかも』


 言った途端、まどかは、ちょっと調子にのりすぎて、変な意味にとられなかったかしらと不安になり、慌てて言葉を継ぎ足した。

『でも、相手が私とアレックスじゃあ、化ける味もしょぼかったりして…』

『こら!言ってくれるね!ガチョウに変えてフォアグラ料理にするぞ!』

 アレックスは、まどかの欲しい土産物を当てたら、魔法使い認定をするとまどかが言ったことを思い出し、変な呪文を唱えだしたので、まどかは笑いながら走って逃げた。


 きっと私は、初めて来た国でハイテンションになっているだけなのだ。

 気をつけないと、親切心で案内してくれているアレックスにのぼせ上って、恥をさらすことになるかもしれない。

    

 恋だと勘違いをしないように、自分の心に注意をしたまどかは、帰りの車の中では真面目な生徒になりきって質問し、エズなど鷲の巣村の歴史についてアレックスの講義に真剣に耳を傾けた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、ビオットに戻ったのは午後3時を回っていた。


 アレックス一家が住むビオットは、コートダジュールのリゾート地の一つ、アンティーブに近く、海岸から4kmほどの小高い丘にある。

 かつての休火山らしき場所に村を作ったため、粘土、砂、マンガンが豊富に採れ、十八世紀半ばまで、ビオットの石窯で焼かれた陶器は、マルセイユやアンティーブ港から広く輸出されたらしい。


 一旦は廃れたビオットの陶器工芸に代わったのは、ガラス工芸で、一般のガラス製品にはない特色があった。普通のガラス製品は気泡が入ると廃棄されるが、ビオットのガラス製品はわざと細かい気泡を入れてあり、色が鮮やかな割に、涼し気に見えるのだ。


 旧市街にある土産物屋の軒先には、色とりどりのガラス製品が飾られていて、古い石造りの壁を這う赤やピンクのブーゲンビリア、紫色のラベンダー、そして窓辺につるされたゼラニウムなどの花と併せて街を鮮やかに彩っている。


 車を車庫に入れてから、アレックスはまどかをビオットの中心街へと散歩に誘った。

 朽ち果てた城門のような石のアーチをくぐると、石造りの建物に続き、オレンジや黄色のパステルカラーの建物が隙間もなく隣接していた。

 それを縫うように走る細い石畳を上っていくと、メイン広場に出る。


『ビオットは小さな村だけど、これでも一応鷲の巣村なんだ。大昔テンプル騎士団に村が贈与された関係で、そのお祭りがあるんだよ』

『エズは石造りばかりだったけれど、ここは石造りとパステルカラーの壁とが混在していて美しい村ね。あの壁にあるアイアンのプランター飾りまでおしゃれだわ。

看板とか、何気なく置いてあるもの一つとっても、デザインが素敵!

ここのお祭り見て見たいわ。滞在中に見られるかしら?』


『残念だけど、3月の祭りなんだ。古い街並みを背景にして、女性はドレス、男性は騎士団に扮装して練り歩くから、昔の時代にタイムスリップしたように錯覚するよ』

『うわ~っ。そんなこと言われたら、ますます見たくなるわ』

 まどかは中世のおもかげを残すその街並みをぐるりと見渡してから、アレックスの顔を仰ぎ見た。

『う~ん、またそんな眼でねだられると…。あっ、そうだ!本物じゃないけれど、体験することはできるよ』

『本物じゃないのに、体験できるの?何それ?』


 アレックスは、生い茂るブーゲンビリアが軒先に影を落としているカフェの階段を数段上がった。

 通りに面したテラス席はアーチ状にくりぬかれた壁に囲まれ、ブーゲンビリアのつるがその壁を這うように覆っている。

 南フランスの強い日差しに照らされて、ブーゲンビリアの花は目に焼き付くほど赤さを際立たせていた。


 軒先の席に座ると、アレックスはメニューをまどかに渡しながら質問をした。

『マドカはお父さんの研究をどのくらい知ってる?』

『う~ん。親不孝でごめんなさいって感じ。私完全な文系なの』


 そこへ白髪のマダムがオーダーをとりにきたので、まどかはアップルジュースを、アレックスはアイスティーを頼んだ。

 すぐにマダムが銀のトレーに瓶入りのアップルジュースとアイスティー、そして二つのグラスを持ってきて、にっこり笑いながらテーブルに置いた。


〝Merci Madame“

 アレックスがお礼を言い、マダムと二言三言会話する間、まどかは濃い茶色の液体をグラスに注いで、飲んでみた。

 日本のアップルジュースと違って、喉にたまるような甘さがある。


 ふと、アレックスのアイスティーのラベルを見ると、桃の絵の上にアルファベットでピーチと書いてあるので、ただのアイスティーじゃないんだと興味をそそられた。


『フランスでアイスティーと言えば、これになるんだよ。さわやかで美味しいよ。飲んでみるかい?』

 アレックスがまどかの視線に気が付いて説明をすると、空気が乾燥しているせいか、喉の乾いていたまどかは、アップルジュースを飲んでから、ほんの少しアレックスのアイスティーをもらった。

『美味しい!今度からこれを頼むことにするわ』


 まるで知識欲旺盛な子供のようなまどかに微笑みながら、アレックスは

途切れてしまった研究の話を続けた。


『マドカはバーチャルリアリティーって知ってるよね?普通は一人で体験するもの

だけど、父親たちのやっている研究は、二人で同じ世界を共有できるものなんだ。

似たものに仮想タウンがあるけれど、外からアバターを見るのではなく、

そのバーチャルリアリティーの中では、本物の世界にいるように、自分の目で

ものを見て、考えることができるんだ』


『えっと、話がすごすぎて飲み込めないんだけど、つまり、今こうして私の目の前でアレックスがアイスティーを飲んでいる状態が体験できるわけ?』

『うん、そうだね。そして同じように話もできる』

『それって、すごくない?人が混雑する時期にわざわざ出かけなくても、二人で本物の旅行をしたように感じられるわけでしょ?父は脳科学の研究からゲームを作っちゃったの?』 

 これにはアレックスもたまらずに噴き出してしまい、ようやく笑いが治まると

椅子に背をもたせて息を整えた。

    

『ゲームじゃないよ。あくまでも治療に使うんだ。例えば患者のトラウマになった

出来事を、バーチャルでなぞってみる。その時に付き添い相手、つまりコンダクターがうまくいくように患者を誘導して、自信をつけさせる。そして、再度体験するときは、コンダクターは見守るだけで、自分で解決させてトラウマをなくすんだ』


『ふ~ん。それだと、コンダクターというのは、友人とか普通の人じゃだめね。心理療法とか分かっていて、正解に導ける人じゃないと、余計悪い状態にしちゃうかも…』


『その通り!まどかは頭がいいね。俺は脳科学を専攻する傍ら、心理学も勉強したから、心のツアーコンダクターを務めることもある。でもね、人はそれぞれ性格が違うから、いつも同じ道を行くわけじゃない。臆病な人には明るくて展開が分かりやすい道だし、一筋縄で行かない人には、仕掛けを沢山つくらなくっちゃいけないから、結構大変だよ』


『確かに、自分の精神も強く保たなければ、相手に引きずられそうね』

『マドカはすごいね。この話をすると、大抵の人は夢物語かゲームかなんかのように、何度でもリセットできる簡単な治療だと思うんだ。マドカのように初めて聞いて、これだけ理解できる人はそういないよ。ご両親がマドカのことを夢見がちだと

言われたけれど、違うね。あまりにも簡単で単純な物事に反応しないだけで、

本当は複雑で珍しい体験を待ち望んでいる眠り姫ってとこだな』

『ああ、残念!』

『何が?』

 肩をすくめるまどかの顔を、アレックスが怪訝な顔をして覗き込む。

    

『目覚めさせたのが王子じゃなくて、やたらと頭が回る魔法使いだったんだもん。

いつどこで何に変身させられるか分かったものじゃないわ』

 まどかは最後まで残念そうな顔を保つことができず、笑いを堪えながら鼻をひくひく動かせたので、アレックスもつられて笑いだした。


『まどかは女優にはなれないな。じゃあ、正直者で辛辣な物言いの旅行者という設定で、明日病院の研究室でこの村の祭りを体験してみるかい?』

『面白くない人物像だし、ツアーコンダクターには問題があるけれど、その体験ツアーに参加したいわ』

『よし!決まりだ。明日が楽しみだ』


 少年のようにきらきらと瞳を輝かせたアレックスを、風をまとったブーゲンビリアの木漏れ日が柔らかに撫でて、アッシュブラウンの髪やブルーグレーの瞳の濃淡を自在に変える。

 まどかは、自分の中に未知の疼きが生まれるのを感じた。

 きっとこれは、アレックスの言う「待ち望んでいた複雑で珍しい体験への興奮」に違いない。

 そう思い込むことで安心したまどかは、アレックスの話声に心地よく耳を傾けた。



 その夜の夕食は、イレーヌが手をかけたご馳走だった。

 前菜の一つに出たマカロンを見て、こ れってデザートじゃないのと首を傾げた

まどかに、イレーヌが説明する。

『シャンピニオンや、フォアグラを使った甘くない前菜よ。食べてみて』

 生地に練り込まれたフルーツをイメージさせるカラフルなマカロンと違い、

素朴なベージュ色のマカロンを一口食べたまどかは、思わず『美味しい!』と叫んで破顔した。イレーヌが嬉しそうに頷く。


 ニース風サラダも、さすが本場と思わせるほど美味しくて、まどかはう~んと目を瞑って幸福をかみしめる。

 娘の生き生きした様子に、登吾と和美も普段より口数が多くなり、夕食は笑いの絶えない場となった。


 アレックスはテーブルに載った大振りの香水瓶の様なものをとって、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、まどかに使うか聞いた。

『オーデコロン?どうして食事中に?』

 まどかは薄い黄緑がかった液体を見て、ひょっとして自分が汗臭いのかと心配になり、手首に向けてかけようとした。


 ところが、アレックスが唇を噛んで笑いを殺しているのに気が付き、先にお手本を見せるよう要求する。

『う~ん、顔や身体にかけても悪くはないけれど、これはオリーブのバージンオイルだ。サラダやアペリティフ、肉料理など、香りづけにシュッと一吹きするんだよ』

 アレックスがメインディッシュに振りかけお手本を見せると、元々美味しそうな肉の艶が増し、香りが一段と濃厚になった。


『本当は手首につけて、匂いを試したりしないか期待してたでしょ?残念でした。

アレックスのおすすめなんて絶対裏があるから、簡単には乗らないわ』

『ひどいな~。明日バーチャルタウンで置き去りにするぞ』


 二人がふざけて言い合いをするのを、大人たちは微笑んで聞いていたが、

バーチャルタウンと聞いて、登吾とダニエルが興味をしめした。

『明日病院の研究室を使っていいかな?ビオットの聖十字軍の祭りをまどかに

体験させたいんだ』

 アレックスの質問に、ダニエルが病院に連絡を入れおくと言うと、

登吾と和美も見学をしたいと言い出したので、仕事のイレーヌを除き、

みんなで出かけることになった。


『全員で参加できるのはないの?』

 和美が聞くと、登吾が首を横に振った。

『治療目的で作ったものだから、患者の集中力を欠かさず、目的地に辿り着かせるためには二人の方がいいんだ』

    

 いつの間にか話が研究のことに移ったが、3人のドクターが、女性たちにも

分かるように難しい内容をかみ砕き、不思議で興味深かい内容を熱弁するので、

女性たちも真剣に聞きき、途中ちんぷんかんぷんな質問を交えて笑いあいながら、

夜は更けていった。


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