デジャヴー封印された過去ー
マスカレード
第1話 夢のきざはし
2017 au Japon
変わり映えのしない日常は、いつもそこにあると思っていた。
何か変わったことでも起きないだろうかと期待することが、どんなに恵まれているのかも気づかずに…。
窓から見える木々はすっかり葉を落とし、凍てつく空に突き刺さるように形骸をさらしている。
枯れてしまったように見える枝には、膨らみがそこここに見られ、やがて芽吹く時を息を殺して待っているみたいだと霧島まどかは思った。
ー 息を殺して待っている? 生命の復活を? -
何かが頭の隅に引っ掛かり、まどかの胸にチリりと焦りとも不安ともつかないものが走った。
不安に蝕まれそうになって、まどかは慌てて手に持った海外旅行のパンフレットに視線を落とし、意識を集中させようとする。
暖房の効いた大学のカフェテリアでは、並んだクリーム色のテーブルを囲った学生たちが、食事をしたり、レポートを書いたりしていて、時々あがる歓声や笑い声に満ちている。
その一角に陣取ったまどかと双子の友人、水野愛莉と愛羅は、隣接する生協カウンターから海外旅行のパンフレットをもらい、卒業旅行のプランを練っていた。
双子の妹の方の愛羅が、めくっていたパンフレットをテーブルに置き、おっとりとした口調でまどかに話しかけた。
「ねぇ、まどかったら、明後日からもう2月なんだよ。いい加減に卒業旅行どこにいくか決めようよ」
妹の意見に賛成と頷き、しっかり者の姉の愛莉が、まどかに意見を求めようとして、ちらりと見てから溜息をついた。
「ああ、無理、無理。パンフレット見て、またいつものトリップ状態になってるわ」
自分のことを言われているとも気が付かず、真っ黒でサラサラのロングヘア―、黒目がちの大きな瞳をパンフレットに彷徨わせていたまどかは、中世の街並みをそっくり残したような写真を見た途端、心にざわめきを感じた。
何だろうこの感じ?ざわざわ不安が掻き立てられるような、それでいて惹きつけられるような・・・・でも、でも・・・。
「う~ん、ここじゃないんだよね。似た場所を知っているような気がするんだけど・・・」
「何か言った?まどか、それどこのパンフレット?」
愛羅が尋ねても、写真に見入っていて返事もしないまどかに代わり、愛莉がパンフレットを読み上げる。
「フランス南西部のペリゴール。人口1万人の街に、年間二百三十万人 年間二百三十万人の観光客が訪れ、街全体が映画の撮影に使われることもある。だって」
「わぁ~いいじゃない!インスタ映えしそう。そういえば去年の夏休みもまどかはフラン…」
突然、愛莉にポカッと丸めたパンフレットで頭を叩かれた愛羅は、びくっと肩を竦ませ、しまったというように口を覆った。
目の前で何の脈略もなく愛莉が妹の愛羅を叩いたので、さすがのまどかも不思議に思い、怪訝そうな表情を浮かべて、二人を交互に見つめたが、まどかが口を挟むより先に、愛莉が他のパンフレットを押しつけてくる。
「ねぇ、イタリアとかスペインはどう?こっちも見るものが沢山ありそう。あっ、でも、まどかは漫画の原稿できたの?就職前に一作品仕上げて投稿するって言ってたじゃない」
「なんか二人ともわざとらしくない?何か隠してる?」
「えっ?何も隠してないわよ。ね~愛羅?」
「そ、そ、そう。私はまどかの漫画のファンだから、まどかが漫画家になるのを楽しみにしてるの。で、描けたの?」
「うん。もう仕上げて投稿はしたけれど、想像上のきれいごとばかりで、納得いかないんだ。多分だめ。もっと色々経験して、読者の心に届くような作品を描きたい」
最初は二人の態度に違和感を覚えたまどかも、大好きな漫画のことになるとだんだんと饒舌になり、ただでさえ大きな黒目に力がこもって、きらきらと輝きだした。
夢を語る生き生きとしたまどかに魅せられて、愛羅が称賛を込めた眼差しでまどかを見つめる。そして、応援する気持ちを込めて、もっと漫画が描ける状況を作ってみてはどうかと、今まで気にかかりながら、聞けないでいたことを口にした。
「まどかなら実現できそう。でも、どうしてまどかは旅行会社に就職を決めたの?漫画のための社会経験なら、バイトをしながら目指してもいいんじゃない?」
「うん、それはそうだけど、バイトと正社員では、こなす仕事も責任感も違うでしょ?旅行会社は、社会経験も海外旅行も両方できて、漫画に活かせる仕事だと思ったから決めたの」
ほんとはそれだけじゃない気持ちを誤魔化すべく、まどかの口調が知らず知らずのうちに早口になる。じっと観察していた愛莉が、ずばりと痛いところをついてきた。
「ふ~ん。権威ある脳科学外科医の娘としては、プー漫画でを描くわけにはいかないって感じ?医療関係じゃなくても、一度は就職して周りを納得させたかったとかじゃないの?」
「う~っ…鋭すぎるわ。愛莉のこそ推理小説か何か書けそう」
「愛莉だけじゃなくて私も分かってるってば!だっていつもまどかは、お父さんが医者なら理数系得意でしょ?とか、どうして医学の道へ進まなかったの?って聞かれるもんね。その度に困った顔してたもの」
まどかは参ったというように両手を顔の横に上げてから下ろすと、自分の卑小さや、鬱屈した悩みを、二人にぼそぼそと打ち明けた。
「ほんと言うと、才能がないくせにまだ夢を追っていたいの。社会経験を積むことは漫画のためなんて言いながら、物にならなかった時の受け皿にしようと考えたりするんだ。絵を描くことは好きだし、空想することも好きだけど、未来が確約されてるわけじゃないから、一本に絞るには不安なのよ」
まどかの口から、まさかネガティブな言葉を聞くとは思わず、愛莉と愛羅が顔を見合わせて、あたふたと慌ててフォローをした。
「仕事をしながら、夢を目指す人は大勢いるから、それは逃げでも悪あがきでもないと思うよ。地に足をつけながら、目標に向かって努力するってことだもの」
「愛莉の言う通りだよ。難しいことを考えるのは苦手だけど、まどかの絵がうまいことは私にも分かるもん。仕事しながらでも、まどかは漫画家になれるよ」
「ありがとう二人とも。でもね、本当に漫画家になりたい人は、夢に打ち込んで他人なんて気にしないはず。なのに私は、愛莉の言う通り、有名な脳科学外科医の娘に対して向けられる好奇心混じりの視線が気になるの。そんなことに気を取られて普通に就職を選んだ時点で、漫画家を目指す資格なんてないわ」
まどかが真剣に語るのを、目を見張って聞いていた愛羅が、思わず感想をもらした。
「なんかまどか、いつもと違う。愛莉が理屈っぽいのは普段からだけど、その愛莉と渡り合えそう。私よりしっかりしてるみたいでびっくり!」
「愛羅、それは無いわー。何か一気に脱力しちゃった。私ってどんな風にみられてたの?」
脱力してテーブルに突っ伏したまどかの頭を、愛莉がよしよしと撫でながら、友人として分析したまどかの性格を、優しく微笑みながら口にした。
「まどかは両極端なんだよね。本当は自分の意見を持ってるくせに自己主張しないし、周囲に迎合するから、周りは夢見がちな外見に騙されるの。で、興味が乗って、譲れないと思う事柄に関しては、豹変したみたいに滔々と自分の意見を述べるから、みんな驚くの」
「うん、確かにびっくりした。ふ~ん、そっか~。私はまどかに今まで騙されてたんだね。友達やめようかな」
愛羅が冗談めかして大げさな身振りをしたので、さっきまで落ち込んでいたまどかと、愛莉の笑い声が重なった。
一緒になって笑っていたまどかの視野がぶれて、辺りがカフェなのかどこにいるのか分からなくなった。笑いは大きくなったり、小さくなったり、あちこちから聞こえたりして、これは数日前の出来事を夢に見ているんだとまどかに認知させた。
眠りながら夢だと分かっていても、まだ完全に目覚めるには至らず、意識がはっきりとし出して目覚めが近いと思っていると、知らずにまた深い眠りに引き込まれる。
何度もそれを繰り返すうち、どこかの景色が目の前に広がって、まどかはその中に足を踏み出した。
散策途中で霧が辺りを覆い、まどかの意識もまたおぼろげになる。
『帰りたい』
その時、突然聞き覚えのある男性の声が響き、ぼんやりと意識が浮上した。
誰だろうと漂う声にすがろうとしたが、視界を遮る霧に儚く吸い込まれていく。
「…どこへ?」
『……』
ふと、霧島まどかは、自分の声で目が覚めた。
三列にならぶ細長い窓からは、レースのカーテンを通して、月明りが差し込み、室内を幻想的に照らしている。
布団から出した手を月明りに翳してみると、青白く輪郭が浮かび上がり、まるで自分の一部が透けていくようだ。
まだ夢を見ているのかと、起きがけで力の入らない掌をぐっと握り込んで、爪の食い込む感覚で現実を認識する。
はっきりと覚醒したことで、さっきの声が妙にリアルに甦った。
「帰りたい」ってどういうことだろう?
まどかは生まれも育ったところも今の場所で変わってはいない。
そして、あと2か月ほどで、旅行会社への就職が決まっていて、過去も未来も明確な一本の道で繋がっている。
なのに、数日前、あのフランスのパンフレットを見て以来、ふとした瞬間に噴き出すような郷愁にかられるようになった。
寂しくて、恋しくて、胸が絞られるような思いに切なくなって、どこかに帰りたくなるのだ。
さっき夢の中で、石畳の階段を上り、まるで本当にそこにいるように、はっきりと先の風景を見た。
両側にひしめくように並んだ石造りの古い家々は、今まで行った場所の記憶にはない景色だった。
日本から出たことのないまどかには、どうしてそんなリアルな景色を見たのか、
そして、そこがどこなのかも検討がつかない。
もしかして、この間見たパンフレットの中にその風景があって、知らない間に目に焼き付いていたのかもしれない。
考えているうちに、月明りはいつの間にか夜明けの光に溶け込んで、まどかの真剣な顔に陰影を深く刻んでいった。
今日から休みだというのに、朝早くから食事の席についたまどかに、母和美がトーストとおかずの皿を渡しながらたずねた。
「今日は朝からバイトでもあるの?」
「ううん、今日はバイト休み」
ぼ~っとした様子で新聞に目を落としたまどかを見て、和美と、父の登吾が心配そうに視線を合わせる。
まどかは去年の夏の一時期、脳に問題があったとかで、脳科学研究の第一人者である父、霧島登吾教授の元で、先端治療のため入院をしていた。
ところが、不思議なことに、まどかはその期間の記憶を全く覚えていない。
そのせいか、体調が少し悪いというだけで登吾が過敏に反応するので、心配していると分かっていても、まどかにとってはそれが少々煩わしく感じられる。
案の定、登吾がまどかの顔を覗き込んで、質問をしてきた。
「気分がすぐれないようだが、大丈夫か?」
「お父さん、私はもう子供じゃないんだから、そんな重病人を見るみたいな顔やめてよね。ただ寝不足だってば」
登吾はほっとしたように、そうかと頷きお茶を口にする。
メガネのガラスが曇るのを気にもせず、湯飲みを傾ける登吾に、まどかはどっちがぼ~っとしてるんだかと苦笑した。
「あのね、多分日本じゃないと思うんだけど、どこかの街を夢に見たの。なんだかすごく懐かしい気がして…。私って、石畳とか石造りの家並みが続く街って尋ねたことがあるかな?」
登吾を安心させようとしたまどかは夢のせいで寝不足なのだと話した。
ところが、安心するはずの登吾は、湯飲みを口に運んだまま固まってしまい、和美までもが、持っていた箸を片方落としてしまった。
「どうしたの?私何か変なこと言った?」
両親の不可解な行動に、まどかが怪訝な表情を浮かべてたずねると、曇った眼鏡を外して、慌てて袖で拭った登吾が、まどかに真剣な顔で向き直る。
「他に、何か他に思い出したことはあるか?」
父の勢いに押されて身じろいだまどかは、身体を真っすぐに戻し、考えるほど霧散しそうになる夢の記憶を辿った。
「夢の景色は、石のアーチをくぐった先に、古い石を積んだ家やパステルカラーの壁の家が隙間もなく並んでいたと思う。壁を這う木に赤い花が…」
一瞬何か閃いたように感じ、まどかは息を飲んだ。
どうしたんだろうと不安になりながら、呼吸を整え、じっと待っている登吾に続きを話し出す。
「赤い‥花が咲いていて、太陽の光がサンサンと降り注いでいたような・・・。ヨーロッパの田舎街かな?それと、帰りたいって声が聞こえたような気がするの」
登吾はその言葉に眉根を寄せ、両肘を机についた状態で両手で頭を覆った。
まるで、こうなることが分かっていて、これ以上聞くのは耐えられないというような苦悩を浮かべている。
「お父さん?どうかした?私の思い出せない期間に関係すること?」
行ったことのない風景に郷愁を抱き、頭の中で帰りたいと声が聞こえたら、それはきっと記憶のない時に訪れた場所を思い出したのだろうと、当たりを付けたまどかが、登吾に問いただす。
「少し考えさせてくれ」
カレンダーと時計を確認した登吾は、スマホを取り出しながら、ダイニングを出て行った。
父は一体何を隠しているのだろう?まるで何かに怯えているようだ。
母なら何か知っているかもしれないと視線を向けたまどかは、テーブルの上に片方転がった箸を拾いもせず、もう片方の箸を握り締めて心ここにあらずという和美の様子にはっとする。
(おかしい!絶対に私に何か隠している)
その時、廊下に出ていった登吾が外国語で何かを話しているのが聞こえてきた。
『ダニエル久しぶりだね。…ああ、みんな元気にしているよ』
和美がガタンと椅子から立ち上がった音で、まどかは一瞬電話の声から意識がそれたが、和美の動揺以上に、言葉を理解できた自分に驚いていた。
和美が怯えたように後退りするのにつられて、まどかも立ち上がったが、和美はまどかを見ようともせず、ダイニングに続くリビングを横切って、隣りにある和室へ入り、
『ところで、アレックスの様子はどうだい?‥‥そうか、まだ目覚めないか‥‥』
目覚めないという言葉に、まどかは胸騒ぎを覚え、テーブルの縁を思わずつかんだ。
『アレックスを違う病院に移すって?君もその病院に誘われたのか…?ああ、確か脳神経 医学に力を入れているところだな。君の研究はその移転先の病院でできるのか?‥‥何だって?諦める?』
父のショックがそのまま伝わったように、まどかは聞こえた名前の人物に感情移入していた。
目覚めないアレックスという名の男性。植物状態か何かだろうか?
ダニエルが自分の研究を捨ててまで、アレックスに付き添おうとしているのは、かなり症状が悪くて、目覚めさせる為に必死に打つ手を探しているように思える。
ドクン!
その時、まどかの心臓が大きく波打った。
『帰りたい』
頭の中で、またあの声がする。
まどかは驚いて、頭を激しく振った。
起きている時に声がするのは初めてだった。
『マドカ俺を連れてってくれ』
白昼夢ではなく、はっきりと男性の声が聞こえたまどかは、その場にへなへなと座り込んだ。
「あなたは誰?」
自分の中にいる男性に聞いてみる。
『思い出して俺を…。じゃないと戻れない』
まどかは片手でこめかみをもみほぐしながら、自分の中に隠れている相手を探そうとした。
「ヒントをちょうだい」
あまりにも真剣に考えすぎて、息をすることさえ忘れていたまどかが、苦し気に呼吸をしながら、問いかける。
『深淵の闇の洞窟で待つ』
声はふっつりと消え、それ以上、まどかが問いかけても何も返ってこなくなった。
「深淵の闇の洞窟って何だろう?遺跡か何かかしら?」
そうつぶやいた時、後ろで気配がしたのに気づき振りかえると、登吾がスマホを片手にしたまま、まどかをじっと観察しているのが分かった。
「まどか。誰と会話していた?ぶつぶつ独り言を言っていたぞ。夢と関係があるのか?」
登吾は被験者を見るように、自分の感情を全て隠し、まどかのいかなる行動も見逃すまいとしているようだ。
夢ではなく、頭の中で男性の声が聞こえるなんて言ったら、私はまた病院送りにされて、父の最先端治療という名の実験体されるのかしら?
父を信頼していないわけではないけれど、自分をめぐって父と母が夜中に喧嘩しているのを聞いてしまってから、どうも警戒心が先に立ってしまうのだ。
まだ、病院から家に戻ったばかりで、頭がはっきりせず、喧嘩の内容も理解していなかったけれど、今ははっきりと思い出すことができる。
そう、あれは夜中に水を飲みに階下へ降りた時に、キッチンから聞こえた。
「あなたのせいで、まどかは戻らなくなるところだったわ!治療って言ったって、本当はまだ確立されていないんでしょ?」
「何を言うんだ!治療としてもう認可が下りているんだぞ。あの時はまどかの状態が重かったのと、途中で停電が起きたんだ。緊急用の補助発電が作動して、すぐ再開したが、あれは完全なアクシデントだ!」
「父親なら、危険が伴う施術を娘に行ったりしないわ。成功例が欲しくって、まどかを実験に使ったのよ!」
「馬鹿なことを!お前だって、まどかが意識障害を起こした時に、何とか元に戻してと言ったじゃないか!難しい施術だと言った時に、反対しなかったのを忘れるな」
「あなたが成功例ばかり話すから、てっきり問題ないと思ったのよ。あの子があの人のようになったらと思うと‥‥」
突然泣き出した和美に、登吾は怒りを削がれたようで、あとは慰めの声が聞こえた。まどかは喉の渇きを覚えつつ、二人の邪魔をすることもできずに、部屋に戻ったのだった。
ふと我に返ったまどかは、じっと様子を窺っている登吾に疑問をぶつけてみる。
「お父さん、アレックスって誰?」
ひょっとして、母が言っていた「あの人」のことだろうかと、まどかは父の答えを一言一句聞き漏らすまいと構えた。
「ああ、電話で名前を聞き取ったのか。私の友人で共同研究者のダニエル・モローの息子だ。ダニエルは二年前フランスに戻ったが、あちらで同じ研究を続け、アレックスは助手を務めていた」
視線をまどかから逸らしたまま答える登吾に、まどかはまた一歩踏み込んでみる。
「アレックスは私と何か関係がある人?意識が戻らないから、病院を移るらしいけど、事故かなにかで植物状態なの?」
登吾が信じられないものを見るように、まどかを見つめた。血の気を失った口びるがわなないている。
「まどか、お前、フランス語が分かったのか?」
「そうよ。2年生まで第二外国語でフランス語を取ったぐらいだけど、はっきりと理解できるの。どういうことか、もう何も隠さないで説明してくれる?お父さん」
登吾は額に皺を刻んだまま、何かを探るようにまどかを見つめたかと思うと、視線を落とし、その先をゆらゆらと定めることなく左右に
「‥‥できれば、お前にこの話はしたくなかった」
登吾はふーっと溜息をついてから、先を続けた。
「アレックスが自然に目を覚ますのを心から願っていたが、もう6か月半も経ってしまった。もしお前が彼を思い出して、施術をやり直したら、彼はひょっとしたら助かるかもしれない」
明るい展開を予測して目を輝かせたまどかに、登吾は悲し気に目を伏せて首を振る。
「彼は助かるかもしれないが、お前を失うかもしれない」
「えっ?‥‥」
まどかは意味が分からず言葉に詰まったが、なぜか夫婦喧嘩を耳にした時の登吾が和美を責めた言葉がよみがえった。
-馬鹿なことを!お前だって、まどかが意識障害を起こした時に、何とか元に戻してと言ったじゃないか!難しい施術だと言った時に、反対しなかったのを忘れるなー
確か意識障害と言っていた。私は昏睡状態かなにかだったのだろうか?
まるで穴が開いたように記憶のない夏休みの期間に、一体何が起こったというのだろう?
「お父さん。私は何の病気で、どんな治療をしたの?」
「…お前、今日はバイトないんだろ?病院についてこないか?実際に装置を見せて説明しよう。何か思い出すかもしれない」
「うん、わかった。用意してくるから待ってて」
治療に使用した装置を見て、果たして思い出せるだろうかと考えながら、まどかは支度を整えた。
そして階下に降りながら、とんでもない過去だったらどうしようという不安に包まれる。
私を失うかもしれないと父は言った。
このまま何もしなければ、私は私でいられるんだろうか?
どうしようもない不安にかられ、保身に回りたい気持ちが湧きおこった時、頭の中にあの声が蘇った。
ー 思い出して俺を…。じゃないと戻れない ー
そうだ、このままじゃいけない!まどかは決心して、玄関で待っていた父に病院に行こうと促した。
あの声の持ち主とどんなことがあったのか突き止めなければ、私は素知らぬ顔で今後の生活を続けることは無理だろう。
玄関のドアをあけ、戻れなくなるかもしれないと思った途端に愛着を増した風景を目に焼き付けると、まどかはドアのレバーから震える手を離し、外へと一歩踏み出した。
大学病院に着くと、登吾とまどかは、コンクリートの壁に囲まれ、塩ビシートが貼られた無機質な長い廊下をカツカツ靴音を響かせながら、一番奥にある研究棟に向かった。
研究に関する施設使用の連絡を朝一で受けたスタッフが、登吾に準備が整っていると告げてから、さりげなく意味ありげな目をまどかに向ける。以前使用したのであろう装置と、その時一緒だったかもしれない目の前のスタッフを、全く覚えていないまどかは決まりが悪くなった。
ようやく登吾の部屋に辿り着くと、出迎えた秘書が、チャコールグレーのカーペットが敷かれた応接室へと案内してくれた。
部屋の広さや置いてあるものを見て、まどかは改めて、父が脳科学研究の第一人者であることを認識する。
オーク材でできた重厚な机とその上に積まれた書類、医学書がびっしり並んだ本棚に目をやった時、飾られている写真立てが、ふいにまどかの目に飛び込んできた。
薄いオレンジシャーベット色の塗り壁の家を背景にして、手前にあるオリーブの木の下に5人の男女が立っている
その中の3人は、遠目にもまどかと両親だと分かるが、父と同年代の外国人と、その外国人に面差しの似た若い男性は誰だろうと気になり、まどかはソファーから立ち上がって、引き寄せられるように本棚に歩み寄り写真を手に取った。
日本にも南欧風の家はあるが、窓にミントグリーン色の木製の鎧戸が付いているのは、どうみても本物の南欧の家のように見える。
日本を出たことがないと思っていたのは、間違いだったのだろうか?
まどかは、いぶかしみながら、今朝の話から察すると、おそらくフランス人のダニエルとアレックスであろう人物に視線を戻す。
白髪まじりのチェスナットブラウンの髪を、知性的な広い額に流したダニエルは、ライトグレーの瞳に笑顔の似合う紳士だった。
ダニエルの息子であり、脳神経科学の研究助手のアレックスは、緩くウェーブのかかったアッシュブラウンの髪と、人の心を見通すような青みがかったグレーの瞳を持つハンサムな青年だ。
日に焼けて引き締まった体躯がワイルドな印象を与えないのは、いたずらっぽく上がった眉毛と、片方だけ上がった口元がからかう様な表情を作り、撮っている人間、多分母親に向けられているからだろう。
年齢は二十代半ばだろうか、登吾とダニエルより頭半分くらい高い身長は、185cm以上ありそうで、平均身長がそんなに高くないと聞くフランス人にしては高身長だ。
「アレックス・・・」
声に出して名前を呼んでみる。
その途端、急に視界がぐらりと揺れたように感じた。
まるで動き出したエレベーターに乗っているような浮遊感が身体を包む。
一瞬何か赤いものが見えたと思ったら、身体が硬直し、不安の渦が巻き起こった。
がたがたと勝手に身体が震え出したまどかを、登吾が驚いて支えソファーに座らせる。
だが、側にいる登吾の姿さえ目に入っていないのか、まどかは唇をわななかせ、目を見開いたまま、見えないものに向かって叫び出した。
登吾は秘書に、鎮静剤をもってくるように指示し、まどかの口にハンカチをかませ、抱きしめながら必死で呼びかける。
「まどか。まどか。ここは日本だ。大丈夫。落ち着いて。こわいものなんてないんだよ。聞こえるか?」
まどかが、今にも失神しそうになった時、頭の中でまた男性の声が聞こえた。
『マドカ逃げたらダメだ!今君がどこにいるか見るんだ!こっちにこもろうとしても、俺が押し戻す。怖くないから見てごらん』
まどかの目が焦点を結び、登吾のカッターシャツを握り締めている自分の手をとらえた。
荒い息を吐きながら上を向くと、登吾が心配そうにまどかを見下ろしている。
口に押し込まれたハンカチを抜きながら、まどかは自分が、冷汗をびっしょりとかいていることに気が付いた。
「私・・・。パニックになったの?アレックスの声が聞こえたわ。こっちに逃げようとしても、押し戻すから、現実を見ろって・・・」
登吾が顔をくしゃりとゆがめ、まどかを支える手に力がこもった。
「私は、まどかが今のままでいてくれることだけを願って、アレックスが命がけでまどかを救ってくれたことに、目を瞑ろうとしていた。すまないアレックス。まどかの中にいるなら許してくれ」
「お父さん。これはどういうこと?どうしてアレックスの声が聞こえるの?私の中にいるってどういうこと?」
「断言はできないが、眠っている時や、危険を感じた時に声が聞こえるのは、アレックスの意識がまどかの中に閉じ込められている可能性がある。私にはアレックスとコンタクトが取れないから、今はまどかにしか状況が分からない。ちょっとこっちへ来てくれ。フランスで使用した装置と同じものがあるから、見てくれないか」
部屋を出るのと同時に、秘書が鎮静剤をもってきたので、念のため登吾は注射器の入ったそのセットを受け取った。
そして、まどかを促し、研究棟の奥にある実験室に入った。
外界から完全に遮断されたその部屋には、細長いカプセルを縦半分に割ったようなベッドがあり、頭部には大きなドーナツ型のMRIに似た機器が設置されていた。
ベッド脇には、モニターが置かれ、まどかにはわからない多数のスイッチやダイアルとレバーが並んでいる。
部屋の壁には、被験者を観察するためにあるのだろうと思われる横長の窓があるが、、ミラー効果でこちらからは何も見えないようになっていた。
まどかは、部屋の隅から隅まで見て回り、装置にも触れて一生懸命考えたが、思い当たるものは何もなかった。苛立つ気持ちを抑え、何とか思い出そうと両手を髪に差し込んで、ぐしゃぐしゃと頭を揉みこんでみる。
そんなまどかを労わるように、登吾はまどかをベッドに腰掛けさせ、コントロールボックスから伸びた何本もの線に繋がれたパネルと、クリップ式のイヤホン、ゴーグルなどをどうやって使用するのかを説明した。
登吾の話によると、これはバーチャル空間を利用した治療機械で、軽い不安障害を抱えた患者に対して使われるということだった。
「例えば何らかの理由や失敗から、相手に対して不快を与えるのではないかというプレッシャーが働き、対人恐怖症になった人に、バーチャル空間で、自信を持たせ、不安な気持ちを克服する体験をさせるんだよ」
「そうなの。ただ大丈夫だからと言葉ではっぱをかけるより、仮想でも体験で自信を持たせるのは効きそうね」
「ああ、日本には恥の文化があるせいか、この患者は群を抜いて多くてね、文化依存症候群とされ、海外でもそのまま”Taijin Kyofusyo”と呼ばれるんだ」
研究のこととなると登吾は止まらなくなる。続けてとうとうと症状を語り出した。
「思春期などにみられる【あがり症】はこの一種で、症状は軽く自然に治る場合が多いけれど、こじらせると、引きこもりになったりして、社会的生活が困難になるんだ。それで治療が必要になる」
そこまで聞いて、まどかは胸の奥がチリチリするような、不安と不満をもって、登吾の話を遮った。
「私は対人恐怖症だったの?それで、この治療をわざわざフランスで受けたっていうの?」
「いや違う。…まだ、それだったら、どれほど良かったか…」
「いい加減にして!もう、隠すのはやめてちょうだい!」
「マドカ、記憶喪失には2種類ある。自分の心を守るために忘れていた方がいい場合もある。お前の場合は特殊すぎて、パニックが酷過ぎた。アレックスはそんなまどかを見ていられなくて、一か八かの賭けに出たが、停電のアクシデントで失敗したんだ。事実を思い出したら、廃人になる可能性もある。それでも聞きたいか?」
そんな深刻な内容だとは思ってもみず、まどかは返事に困った。
忘れてしまいたいほどショックな出来事に遭遇したというのだろうか?
でも、この生活はアレックスの支えがあるから成り立つ仮初めのものに違いない。
私を救うために犠牲になったアレックスを、このまま見殺しにしていいのだろうか?
「お父さん、私がパニックになったのはいつ、どこで?場所は?」
「・・・・お前が記憶を失ったのは2016年昨年の夏だ。
2年前の2015年の3月に、ダニエルが日本での共同研究を終えて南フランスに戻った後、家族を連れて遊びに来ないかと誘ってきた。
それで、去年のお前の夏休みを利用して、家族揃って2週間の予定でダニエルを尋ねて行ったんだ」
「この写真がその時のものね?」
「ああ、そうだ。お前とアレックスは気があって、二人でよく出かけた。
帰国の前夜も、ニースの花火大会にまどかを連れて行く許可をアレックスが求めてきて、
その日は遅く帰ると・・・」
登吾は途中で言葉を切り、顎をぐっと引いて、耐えるように下を向いてしまった。
「お父さん、少し考えさせて。この部屋のパソコンを使っていい?」
辛そうな登吾を直視できず、まどかは自分で調べられることを調べようと思った。
「ああ、私も医局に行くよ。お昼を一緒に食べよう。それまでここで待っていてくれ」
秘書に後は頼むと言づけて、登吾は部屋を出ていた。
まどかは、教えてもらったパスワードでパソコンを開き、昨年2016年の夏にニースで起こった事件を調べた。
それは簡単にヒットした。
いくつものタイトルが並び、画像を見た瞬間、まどかはまた、
突然激しい眩暈を覚えた。
心臓を鷲掴みにされるような得体のしれない恐怖が襲い、
全身が粟立って血の気が引いていく・・・。
地響きと襲い来る影を感じた途端、まどかは耐えられずに意識を手放した。
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