第7話 襲いかかる闇

 夏の南フランスは、めったに雨は降らないドライな気候だ。

イタリア旅行中の洗濯物も午前中には乾き、ほとんどつめ終わったスーツケースにそれらを入れると、パッキングは終了した。


 夕刻になり、約束通り早めに帰宅したアレックスは、まどかを連れてニースのレストランへ向かった。

 立ち並ぶアパートメントの駐車場の一つに、車を止める。

 バカンスに出かけている友人の駐車場を借りたと説明しながら、アレックスは、まどかを近くのレストランへ案内した。


『花火大会が見える海岸は目と鼻の先だから、食事が終わったらゆっくり楽しもう』

『明日帰るなんて信じられないわ。早送りの時間に乗っていたみたい』


 アレックスの腕に手を絡ませて、見上げたまどかの顔には「帰りたくない」とはっきり書かれていた。

 「俺も離れたくない」と伝えるように、アレックスがまどかの手を何度も握り返した。

    

 十九時代でも、まだ明るい空を見上げると、日本に帰ったらこの明るさが恋しくなるに違いないと、たちまちセンチメンタルな気分になってしまう。

 そんな気分を振り払うように、まどかは案内された席で、早々にメニューブックを手にとって、料理を選ぶのに専念した。


 食事は軽いフレンチのコースを頼んだ。

 凝った盛り付けを見て驚くふりをし、手の込んだ料理を口にして、おいしいと感想を述べるが、アレックスに気を使ってのことで、本当は心から楽しむことができなかった。

 皿が下げられ、またもたらされるのを、まるで別れの儀式のように感じた。


 笑顔を張り付けて会話するものの、会話と会話の間に潜むやるせなさが、ともすると溢れそうになり、沈む気持ちに鞭を打って明るく振舞った。

 そうこうするうちに、まどかは疲れ、悲しみに抗う力を失って無口になった。


 二人がレストランを出たのは、辺りも暗くなり、ちょうど花火が始まる頃だった。

 海岸を見下ろすプロムナード・デ・ザングレイギリス人の散歩道には、地元民に混じって観光客らも立ち並び、今まさに打ち上げられようとしている花火を待っていた。

 アレックスとまどかも空いている場所に並び、暗い海に浮かぶ大型客船の明かりや、遠方に突き出た岬の上にある空港の誘導灯を目指して、降下する飛行機を見つめた。


 突然、ヒューという音と共に、一条の火の玉が空を目指して上がり、鮮やかな大輪の花を咲かせた。

 少し遅れて鼓膜に突き刺さるようなドーンという音と、辺りを揺るがすような振動に、一瞬身を固くするが、パラパラと降り注ぐような乾いた音に解される。

    

 降り注ぐような大小の花火を浴びながら、心を空っぽにして何も語らず、アレックスとまどかはその場に立ち尽くした。


 どのくらい経った頃だろう。花火の音とは違うざわめきとゴーッツという音が市街の方角から聞こえてきた。


 それは見る間に大きくなり、不穏な地響きを携えて、こちらへ向かってくる巨大なトラックの影へと重なった。

 バーンと何かにぶち当たる音や、高い位置にある光線に照らされた跳んでいく黒い人影、甲高い悲鳴や、逃げ惑う人々。

 辺りはさながら地獄絵と化したようだった。

 アレックスが状況を把握し、道の斜面を海岸へと降りるため、まどかの背中を押すが、驚きで硬直したまどかは動かない。


 ドーンという大きな音がして、目の前に人が飛んできた。


 驚愕に息を詰めたのは一瞬で、湧き上がる恐怖に耐えきれず、まどかが突き上げるような悲鳴を上げる。一度叫ぶと止まらずに、辺りを引き裂くような甲高い悲鳴を上げ続けた。

 抗うまどかの口をアレックスが手で塞ぎ、押し合いながら斜面を下りようとする人ごみに混じろうとしたが、その時すでに、巨大な影が目の前に突進してきた。

 迫りくる9トントラックが、まどかの視界を覆う。

    

 アレックスがまどかを抱きかかえるように道端に伏すと、アレックスを踏み越えて逃げた男が、トラックの運転手の撃った銃弾に倒れ、すぐ横に転がって痙攣した。


 もうもうと上がる土煙と、排気ガスに混じった生臭い匂いが辺りに立ち込める。

 まどかに覆いかぶさり、視界を防ぐアレックスの身体を避けて顔を出したまどかの目に、弾き飛ばされた男の顔が写った。絵画の「叫び」の顔さながらに目を見開いた人間の歪んだ口からは、赤黒い何かがこぼれている。


 トラックが通り過ぎた後に累々と積る屍が、事の凄惨さを見せつけた。

 逃げ惑う人々、渦巻く悲鳴、そしてパトカーのサイレンが聞こえ、パン、パン、パンと乾いた銃弾の音がして、すべてが終わった。


『まどか。大丈夫か?』


 痙攣する人々を見つめたまどかの視点はあっておらず、口元がわなないている。

 アレックスは土ぼこりにまみれたまどかを抱き込み、スマホで病院の緊急番号を押す。


『こちらドクター・アレックス・モロー。ニースのプロムナード・デ・ザングレで暴走トラックによる怪我人が多数出た。数十人に及ぶ模様。至急救急車を回してくれ。それと、怪我人ではないがショック状態の女性を一人連れて行くから、心療内科のベッドを用意してくれ』


 切ってすぐ、ダニエルに電話をかけ、事の詳細と、病院へ向かうことを話した。

    

 アレックスは、道路脇にうずくまる夫婦にケガはないか確認した後、まどかを少しの間託し、救急車が到着するまで、周辺に横たわる息のある者、重軽症者を把握した。

 救急箱も薬も持ち合わせていない為、軽い応急処置しかできず、到着した救急隊に状況と優先順位を告げた。


 そして、意識が朦朧としているまどかを抱え、人混みを掻き分けながら駐車場へと向かった。

 道には、横たわった小さな女の子の上半身に上着をかけ、手を握って泣いている父親や、動かない夫の身体に、声もなく伏している女性の姿があり、見る者の胸を締め付けた。


 病院に着くと、アレックスは心療内科の棟を一目散に目指し、用意をしてくれた看護師にお礼を言うと、ベッドにまどかを横たえた。

 瞳孔、脈拍を調べ、呼びかけるが、声に対しての反応がない。

 外ではひっきりなしに到着する救急車のサイレンが響き渡っている。


 ドアがスライドし、ダニエルと登吾、そしてイレーヌと和美が入ってきた。

 汚れたまま力なくベッドに横たわり一点を見続けるまどかに、和美が駆け寄って抱き着いた。

『ああ、まどか。まどか・・無事でよかった。傷は?痛いところはない?』


 まどかの眉がぴくりと動き、目の前の和美に焦点を合わせようとでもするように、目を眇めた。

 和美がまどかの頬に触れた途端、その手を勢いよく振り払ったまどかが、ベッドの上を飛び退り、顔の前で何かを払うように腕を振り回して叫んだ。


『いやーっ!来ないで!あっちへ行って!』

    

 両手で頭を抱え、ベッドを転げまわる。

 落ちそうになったまどかを抱き留めたアレックスが、落ち着くよう呼びかけたが、叫び声は止まらない。

『父さん、フラッシュバックによるパニックだ』


 騒ぎを聞きつけ、駆け付けた夜勤の看護師に、ダニエルが鎮静剤を持ってくるように指示すると、登吾はイレーヌと和美を部屋の外へと連れ出した。

 まどかの様子にショックを受けた和美が全身を震わせて、足元から崩れるように、廊下のベンチに腰掛ける。


『あなた。まどかは一体どうなってしまったの?』


 真夏だというのに辺りは凍り付くような恐怖がはびこって、廊下全体にも響き渡るまどかの悲鳴が、ビリビリと冷気を震わせる。

 イレーヌが和美の横に腰掛け、そっと背中をさすると、登吾がイレーヌに目礼して、無理やり絞り出すような声で状況を説明しだした。


『人はあまりにも凄惨なものを見たり体験すると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になることがある。大抵は事件から1か月後くらいに表れるが、それ以前に起こるのを急性ストレス障害と呼ぶ。多分まどかはそれだろう。自分の精神を保つため、記憶喪失になるものもいるし、あったことを否定して何でもない振りで、平静を保とうとするものもいるが、突然のフラッシュバック追体験が起こって、パニックになる場合がある』

    

『まどかは、今、その状況なのね?それはいつまで続くの?』

 

 登吾は和美から視線を外し、悲し気に首を振った。

『分からないんだ。だんだんと症状が落ち着く場合もあるし、何年経っても症状に苦しんで、薬で緩和させることもある。まどかの症状がどうなるかは誰にも分からない』


 そんな!と和美が言いかけた時、病室のドアがスライドして、アレックスが廊下に出てきた。

 静まり返った病室を気に掛ける和美に、まどかは鎮静剤が聞いて眠っていると、アレックスが説明した。

 そして、居住まいを正したアレックスが、登吾と和美に頭を下げた。

『申し訳ありません。私がマドカを花火大会に連れ出したせいで、こんなに大変な目にあわせてしまいました。本当にすみません』


 登吾が声もなく首を振り、アレックスの肩に手を置き、頭を上げるように促す。

『トラックの暴走は、多分テロだろう。君のせいじゃない。君が悪いんじゃない。でも、今夜出かけなかったら、娘も明日は元気に日本へ帰国できたのにと思わずにはいられない。脳科学外神経外科でこの分野の症状に触れることが多いから、分かっているだけに余計に辛いよ』


 登吾の語尾が震えた。

 顔をあげるように言われても、アレックスは登吾たちの顔を直視することができず、俯いたまま唇をかみしめ、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。

    

『マドカが元気になるまで、尽力します。私が責任を持って…』

『今後まどかにどんな症状が出るかは分からない。だから、どうか日本に帰れる小康状態にまで持っていってほしい。あとは日本で私が診るよ』

 アレックスはがっくりと肩を落とし、黙って頷くしかなかった。







 淡く発光した空間に漂いながら、まどかはそっと辺りを見回した。白だけではなく、地層のように淡いベージュや灰色が重なっているかと思うと、境は薄れてうやむやになる。 どうしてそうなるのかも、どこにいるのかも今のまどかにはどうでも良かった。今は何も考えたくないと目を閉じる。


 時々意識が浮上して、誰かの泣き声が聞こえる。

 ああ、お母さんだ。どうして泣いているんだろう。声をかけたいのに虚脱した身体と頭では、それさえも難しく感じる。


 ぼんやりとした霧の向こうにアレックスの心配そうな顔も見える。こちらを見つめる目があまりにも悲し気で、手を伸ばして慰めたいのに、その距離が遠いのか近いのかわからず、再び無の世界に沈んでいく。

    

 どのくらいそうして眠ったのだろう。男性の言い争う声で目が覚めた。


『父さん、お願いだ。マドカと俺をバーチャルで繋いでくれ。このままでは、マドカはどんどん潜っていってしまう。まだ意識が浮上できる間に捕まえたいんだ』

『だめだ!エリクの時に、お前は相当危ない橋を渡った。今回はマドカへの思いが強いだけに、平常心を保って施術できるとは思えない』

『だけど、俺はマドカと同じ事故現場を見ている。マドカがそれを再現したとしても、耐えてみせるし、安全な場所へ誘導することができると思う。お願いだ』


 長くは集中できない意識がおぼろげになった時、はっきりとした言葉がまどかに届いた。


『だったら、俺は父さんの助手を下りるよ。大切な人を守ることもできない研究なら、続ける意味もない』

『アレックス…』

『俺は必ず戻ってくる。約束する。だから、マドカを追わせてくれ』


 追う・・・・わたしを・・・? 

 

ああ・・・もう、何も・・・・考え・・・・られな・・・・・・

 





  外界を隔て、平穏な世界を覆う壁が微かに揺れている。

 遠くで聞こえる雷鳴に混じって、多数の人間が近づいてくる気配にまどかは怯えた。


 頭に締め付けを感じる。雷の音は聞こえなくなりホッとしたのも束の間、手や足にも何かを付けられたよ うだ。

 触らないで、放っておいて!声に出せない苛立ちと、何かが始まる予感に、どきどきと心臓が高鳴って神経が張り詰める。


『マドカ。俺だ。アレックスだよ。この繭みたいな中にいるのかい?』


 怯えていただけに、親しい声を間近で聞いた途端、まどかの胸は安堵で満たされた。

 思わずその方向に歩き出すと、繭に微かな亀裂が入り、細い裂け目ができた。


『マドカ。ここから覗いてもいいかい?君が元気か確認したい』


 まどかもその隙間の前に立って、覗き込むアレックスの瞳を捉えた。

 ブルーグレーの瞳がぱっと見開かれたかと思うと、くしゃっと表情が歪んだ。

 見る間に潤った美しい虹彩が、何度も瞬く瞼に遮断される。


『マドカ会いたかった』

 その切なげな声に揺さぶられ、まどかがアレックスに手を伸ばすと、繭が消滅した。


 アレックスに抱き込まれ、口づけられたが、何かが違うと勘がまどかに告げていた。

 心の底に渦巻く不安が、今いる場所から動くことをためらわせる。


『どうしたマドカ?ほらビオットの街だよ。いつも歩いているだろ?』

 アレックスがまどかの横に移動し、色とりどりの花が飾られた石造りの家や、パステルカラーの優しい色合いの家が建ち並ぶ街を見せる。


 最初は目だけを左右に動かしていたまどかも、首も回して、辺りを確認すると、少しずつ不安は溶けて、知らずに詰めていた息も楽に吐けるようになった。

 アレックスにしがみつくようにして、そっと一歩を踏み出して辺りを窺うが、何も起こらない。


 平穏な日常なんだから、当たり前なのかもしれない。

 でも、私は何を恐れているのだろうと、もう一歩踏み出す。

    

 アレックスは口元を上げ、まどかを急かすでもなく、優しく見守っている。

 それに励まされ、もう一歩、もう一歩と踏み出すうちに、普通に歩けるようになっていた。


 行きかう人たちが笑顔を向けるが、おかしなことに、みんなドレスや十字軍のマントで正装をしている。

 これは見たことがあるような・・そうだ、ビオットの聖十字軍の祭りだとアレックスが言っていた。

 広場を抜けて、鍛冶屋があって、コインの歴史のテントがあって、あの先にこの街の入口、こっちからみれば出口があるはずだ。


『マドカ、もう少しで到着だ。よくやった。ムッシュー・トウゴもマダム・カズミも君を待ってるよ』


 その時、ジジっと雑音が耳元に入り、アラームが鳴ったと思うと、一瞬のうちに辺りが暗闇に包まれた。


 ドクンと心臓が跳ねる!心臓が跳ねて空いたスペースに恐怖が流れ込み、足元からザザッと粟立ちのさざ波が這い上る。

 

 あれが!、光る目が襲って来る!


 まどかは暗闇の中、ターンして元来た道を駆け出した。

 その途端、電灯が瞬くように目の前の景色が戻り、耳元に叫ぶようなフランス語が響く。


『アレックス、雷が落ちて停電した。サブの発電機を作動させたが、そっちは大丈夫か?』


 意味の分からない叫び声は、まどかの恐怖心を煽り、今にも建物の隙間から光る目が飛び出してくるのではないかと、怯えさせた。

    

 ひょっとして、アレックスは私を捕まえて、あの化け物に差し出すのだろうか?と猜疑心が沸き起こる。


 一方、アレックスは側にいたはずのまどかが消えて、ダニエルの説明を聞くどころではなくなった。

『どこだ?マドカ?あと少しで連れ戻せたのに!父さん。マドカが闇に驚いて疾走した。今から追う。驚かさないよう、そちらからの割り込み連絡を切断するよ』

『分かった。無理をするな』


 出口近くまで来ていたのをターンして、街中に向かって走り出す。

 停電は回復したはずなのに、明るくなったはずの街が進むに連れてどんどん暗さを増していく。

『まずい!マドカが精神投影の世界を作っているかもしれない』


 歴史を展示するテントが見えてきて、その前を行きかう人々の群れの中に、マドカの背中が見え隠れした。

『マドカ!止まってくれ!お願いだ!』


 まどかの背がびくっと震え、アレックスの方を振り返った。

 怯えるような表情を浮かべ、必死で首を振るまどかが、聖十字軍の騎士と従騎士の叙任式を受けている少年たちに何かを告げた。

 

 ようやく追いついたアレックスが、まどかに近づこうとすると、騎士と従騎士が剣を抜いて、アレックスの前に立ちふさがる。

 そのすきにまどかは、また街の奥へと走りだした。

 光った足に目を留めると、まどかはエズで買った土産と同じ靴を履いていた。

    

『そんなバカな!マドカ待ってくれ!』

 それでも止まらないまどかの背に、アレックスは以前体験したプログラムの設定を思い出して、やけくそになって叫んだ。

『どけ!俺はここの領主で、マドカは俺の妻だ!領主の命令を聞け!』

 ざっと剣を持った騎士が二手に別れ、道が開ける。

 

 まどかは立ち止まって、アレックスの後ろを指さした。

『来ないで!ほら、あれが近づいてくる』


 アレックスが振り向くと、闇に覆われた出口の方から、二つの光る目を持った巨大な何かが突進してきた。

 祭りで賑わう広場の人々を踏みつぶし、大きな羽で薙ぎ払っている。

 一瞬ロボットのように見えた巨大な物体は、目がギラギラとしたライトのように強い光を放つドラゴンだった。

 アレックスはまどかを安全な場所に避難させようと、走って追いつき手首をつかんだ。


『いや!離して!光る目に渡さないで!』

『そんなことはしない!マドカ!俺を信じてくれ』

 

 そうこうするうちに、大きな丸い目をランランと輝かせた巨大なドラゴンが、すぐ近くまで迫り、なぎ倒された人間がまどかの前に飛んできた。

 まどかの顔色が真っ青になり、目が恐怖で見開いた。

 頭を両手で抱えると、闇を切り裂くような悲鳴を上げた。


『助けて!殺される!誰かあれを止めて!』

    

 ドラゴンの脚はいつの間にか、人間の背丈ほどもある巨大なタイヤに変わり、

粉塵を巻き上げながら、石畳をすりつぶすように回転した。


『マドカ聞いてくれ!2週間くらい前に、ここで紋章作りをした時、君は俺とドラゴンが戦うのを想像したと言っていた。これは君の記憶の片鱗が幻になって出てきただけだ。怖がらないで、落ち着いてくれ!』


 まどかは眉を寄せ、必死でアレックスの言葉を理解しようとした。

 アレックスの言っている話が本当なら、たった2週間前の会話をなぜ忘れてしまったんだろう?

 どうして、思い出そうとすると不安になるのだろう?

 不安になる気持ちを我慢して、今こうして思い出そうとしても、まるで記憶にロックがかかっているように重苦しく感じて、ためらってしまう。

 だとしたら、何が私に記憶を失わせたのだろう。


 まどかが考えている間、光りの目の化け物はぐるぐる同じところを回っているだけで攻撃はせず、誰も被害にあわなかった。

 やはりこれは、私が作り出している幻想なのだろうか?


『アレックス。どうしてドラゴンの脚がタイヤになったの?何かわけがあるなら教えて』

 その途端、回っていたドラゴンが真っすぐとこちらに向き合った。

 背中をひんやりと恐怖が撫でる。


『マドカ怯えないで。あれは空想が生んだものだ。俺がいるから怖がらなくていい。ビオットのいつもの街を思い出して言ってごらん』

    

『…パステルカラーの壁に囲まれた細い路地、ブーゲンビリアの赤い花が

アーチ状に入口を飾るカフェ、それから…』


 一瞬頭の隅で赤い何かがよぎった。

 ドクンと心臓が鳴ると、光る目が少しにじり寄った。 

 アレックスが落ち着けとまどかの手を握る。


 それから・・、先へ進もうとしても、強い日差しを受けて

鮮やかに咲き誇る赤いブーゲンビリアの花だけがクローズアップされる。


 赤・・赤はこんなにきれいじゃない! 

 頭にまた何かがよぎる。

 化け物が、光る目をランランと輝かせ、まどかの方へやってくる。

 

 口を開けて転がっていたのは誰?

 赤黒いのは何?


『まどか、恐怖に支配されるんじゃない!落ち着いて』

 でも、もう遅かった。光る目の化け物がスピードをあげながら、

真っすぐにまどかに襲いかかってきた。

 すんでのところで、アレックスがまどかを抱えて地面に伏し、顔のすぐ横をタイヤが通り過ぎた。


 思い出した!


 まどかがそう思った時、獲物を狩ることなく突っ走った光る目は、

ぐるりと方向転換をして、不吉なビームをこちらに当てた。

 するとドラゴンの皮がメリメリと破れ、中から巨大なトラックが露出した。


 まどかは悲鳴を上げながら、アレックスを突き飛ばし、逃げ惑う人混みを掻き分けて走った。

 目の前に領主館が迫ってくる。扉にぶつかるようにしてスピードを落としたまどかが、ノブを回したが、鍵がかかっていて開かない。

    

 後ろを振り返ると、走ってくるアレックスのすぐ後ろを、光る目が追ってきていた。

 パニックに陥りそうになったが、恐怖に支配されるなというアレックスの助言を思い出し、落ち着こうと胸に手をあてた。

 その手に、首から下げたペンダントが当たった瞬間、アレックスの言葉が蘇る。


『マドカにはアレックス王国の鍵を持っていてもらいたい』

 

 咄嗟の判断で、領主館の鍵穴にペンダントキーを差し込んで回した。

 カチッと回った鍵を抜き、扉を開け、追い付いたアレックスと共に中に飛び込んだ。

 そのすぐ後で、スピードを落とさずに突っ込んだトラックは、領主館の壁にぶつかり大破した。

 一部の壁が崩れ、建物ごとぐらぐらと揺れる視界の中、天井から石のブロックが落ちてくる。

 瞬時にアレックスがまどかをかばって抱き込んだ。


 光りが漏れる隙間に手を入れ、瓦礫の山を少しずつ崩すと、ほこりにまみれ、頭から血を流したアレックスが、まどかに覆いかぶさっていた。

『アレックス?』

 不安気な声で呼ぶと、アレックスが震える腕でまどかの上から身体をずらし、心配させまいとするように、弱々しく笑った。

 まどかにケガはなく、どこも痛みは感じない。自分が作り出した世界にいるのだから、痛みはなくて当たり前なのかもしれない。

 でも、目の前のアレックスは傷ついていた。


 いくら心理学を学んだからといって、凄まじい恐怖が生み出す怪物と対峙して、攻撃をかわさなければならなかったのだから、相当の精神的ダメージを受けただろう。

 まして、自分の防御だけでなく、まどかまで守っているのだから、気力が底をついているかもしれない。


『ごめんね。アレックス。あなたを傷つけて。ごめんね。でも、まだ怖いの。あなたをまた傷つける前に帰って。もう私に構わないで』


 石の山から這い出たまどかは、先ほどの衝撃で、シャンデリアが揺れている豪華な広間を抜け、その先へ先へと進み、使用人が出入りする貯蔵庫の中に入った。

 入口から入る明かりで、辛うじて室内が見える。吊るされた玉ねぎや、にんにく、その他のものを掻い潜って進むと、その奥にまた扉が現れた。ギッと軋む扉を開けると地下へ続く階段の先が暗闇に消えていた。


『マドカ、ダメだ!潜るんじゃない!戻ってこられなくなるぞ』

 貯蔵庫の入口で逆光に浮かび上がったアレックスの影が、吊るされて揺れる野菜の間から見え隠れする。


 まどかは追い立てられるように、湿った石の階段を、暗闇に向かって下り始めた。まどかが進むと、少し先の壁が発光して足元を照らし、通り過ぎるとまた消えるのを繰り返し、かなり下りた所で階段が終わった。

 

 薄く発光する壁を伝って進むと、大きな鉄格子が現れ、その先に水が溜まった洞窟のような空間が口を開けていた。

 鍾乳洞のように牙状の岩が、高い天井から何本もぶら下がり、それを伝って水滴が滴り落ちている。

    

『ああ、やっと無に帰れる』

 その洞窟に吸い寄せられるように、ふらふらと歩き、天井まで届く鉄格子の扉に手をかける。

 開かない。でも、この鍵を使えばいい。

 まどかは首にかけたペンダントを錠前に差し込み、容易く開けた。

 

 格子の扉が人一人分の幅にスライドする。足を踏み入れた途端、身体を後ろに引かれ、ペンダントの鎖が引きちぎられた。

 まどかが、しりもちをついて見上げると、格子を背に鍵を握ったアレックスが、真剣な表情で見下ろしていた。


『ここから先は行かせない』

アレックスが一歩後退し、鉄格子の扉の中に身体を入れる。

 まどかが慌てて立ち上がって、駆け寄った目と鼻の先で扉が閉まり、アレックスが錠前に鍵をかけた。


『アレックス、やめて、ここを開けて』

 まどかが格子を握ってガチャガチャ揺らしたが、アレックスはそんなまどかの姿を辛そうに見つめていた。


『マドカ聞いてくれ。光る目のトラックは、壊れてしまったから、もう君を襲わない。奴は死んだIl est mortんだ!』

 アレックスが光る目と言った瞬間、洞窟に溜まった水に波紋が起き、アレックスの足首がずぶずぶと水に沈んだ。何事もなかったようにアレックスが続ける。

    

『マドカがパニックを起こしても、ここで俺の気力が続く限り君の混乱をセーブしてみせる。でも、気力が尽きたら、俺はここで溺れ死ぬかもしれない』


 まどかが嫌だと首を振り、手を伸ばしてアレックスから鍵を奪おうとするが、

アレックスが手を上げてしまい、腕から滑り落ちたまどかの手が袖を掴む。

 反対の手へ鍵を持ち替えたアレックスが、まどかに近づき格子越しに頭を寄せる。


『自分に打ち勝つ方法を見つけるんだ。もし、また追憶しフラッシュバックても、今いる場所は安全だと分かるような、現実と幻と区別できるものを見つけてくれ』

『アレックス、お願い、出てきて。私ちゃんと現実を見るから。アレックスがここで守ってくれなくても、平気だから…』


 掴んだままの袖を手繰り寄せ、まどかは顔にアレックスの手を当てて、頬ずりをする。

 耐えるような表情で、アレックスがまどかの唇を指でなぞる。

『本物の君に触れたい。温かさを感じたい。君を…抱きたい』

 突き上げる悲しみに口が開き、まどかは慟哭した。

『アレックスをこんな所に置いていけない。私も一緒にいる』

 子供のように泣きじゃくるまどかを、アレックスがなだめた。

    

『マドカ、じゃあ、君が強くなって、現実と向き合えるようになったら、迎えに来てくれ。まだ今は不安定だから、思い出す度に怯えるかもしれない。だから強制的にバーチャルを切り上げて、ここの記憶を忘れさせよう。日本で安全な生活を楽しんで、心が癒えたら、俺のことを思い出して』


『いや!そんな危険なことできない!もし、アレックスを忘れてしまったら・・忘れたままだったらどうなるの?本物のアレックスはどうなってしまうの?』

『この先は、誰にも分からない。どのくらいで思い出すかも、忘れたままなのかも・・・。でも、君を信じて待つよ』


 それ以上言わせないように、アレックスの決心をひるがえそうとして、まどかは格子に顔を寄せ、アレックスの唇を塞いだ。

 口づけながら、アレックスが〝trois″と呟く。

『やっ、カウントしない…』

 言葉が嗚咽でかき消される。まどかはこの瞬間、大切な人を失う恐怖を知った。


『君が幸せに暮らせるように願ってる…〝due″』

『アレックスを忘れるなんて、絶対にいや!私の世界から消えないで!』

アレックスの頬も溢れる涙で濡れていてた。震えて掠れる声が最後のカウントを告げた。

『まどか。君を…待ってる。〝une″』

『いや~っ!アレックス。アレッ…ク』


 ぐにゃりと渦を巻くように景色が歪んだ。

 深い闇に吸い込まれるように、ぐるぐる視界が回り、とぎれとぎれの悲鳴が

辺りにエコーのようにこだました。

 

 そして、・・・・・・ブラックアウトした。




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