第6話 思い出の香り


 エリクの件で、ダニエルとアレックスが二三日家を留守にした間、まどかは一人でバスに乗り、カンヌをぶらついたり、ニース空港の近くにあるキャップ3000という大型のショッピングセンターで、買い物をしたりして時間を潰した。

 

 出会う人々は、南国の保養地特有のゆったりした態度と、フレンドリーな笑顔でまどかから先日の出来事を遠ざけ、知らないうちに強張っていた気持ちを和らげた。


 そういえば、アレックスは今夜の夕食を家で食べると言っていた。

 私も母を手伝って、何か作ってあげたいと思いながら食料品売り場を覗くと、肉屋のカウンターの中に、小太りで人好きのしそうなムッシューを見つけた。


 ガラスケースに収まった肉類は日本と違って、赤身に脂身がのっているいわゆる霜降りと呼ばれるものがない。イレーヌに聞いたところ、こちらでは、脂身は捨てる部位であるらしく、ケースの中の肉は、牛肉も豚肉も赤かピンク色一色の光沢を放っていた。

 その中でサーモンピンクの小ぶりな肉に目が留まり、まどかがこれは何の肉?と小太りのムッシューに問いかけた。


 肉屋はその肉を表す英語が分からないらしく、フランス語でゆっくりと答えたが、今度はまどかが首を捻る番で、色からして鶏肉だろうと判断し、鶏かダチョウかと知っているフランス語で聞いてみた。 ところが、どちらもノンと返ってくる。


 ふと閃いて、両手で羽ばたくフリをしながらピジョン(鳩)かと聞くと、肉屋が笑いながら首を振り、元から出たお腹を突き出し、『リビッリビッ』と鳴きまねをした。


『あ~カエルね?そうでしょ?』

『ウイ、マダム・・・・』


 ふいに後ろから笑い声がしたので、まどかが驚いて振り返ると、アレックスがまどかを真似て、肘を身体つけたまま手首だけで羽ばたいていた。

『マドカのは、鳩じゃなくて雀だね』


 アレックスのフランス語に、肉屋も面白そうに頷いて、かわいいところがそっくりだねと相槌をうってから、アレックスに彼女かいと聞いた。

 アレックスは、ぐるりと瞳を動かし、まどかを見てから、肉屋に何かを囁いた。肉屋は笑いながらアレックスの腕を叩いて励ます。


 一人だけ会話から除け者にされたまどかが、ふくれっ面でアレックスに詰め寄った。

『どうせ私の悪口を言ったんでしょう?でも、何って言ったの?』

 アレックスが、肉屋にまどかの言葉を通訳すると、肉屋は悪口なんてとんでもないと首を大きく振りながら、続けてにんまりする。


『ふ~ん。せっかくアレックスの為に夕食を作ってあげようと思ったのに、やめようかな~』

『えっ?本当?マダム.カズミから、マドカがここで買い物をしていると聞いて迎えに来たんだけれど、夕食の材料だったのか!オーケー。あとで会話の内容を教えるから、先に買い物を済ませよう』


アレックスの嬉しそうな顔に負けて、まどかは仕方がないとガラスケースを覗き込む。

『ねぇアレックス。すき焼きをつくりたいんだけど、スライスした薄いお肉が売ってないわ』


『薄い肉?そんなのは見たことないな。ブロックかステーキ用の肉しかないみたいだけど、聞いてみるよ』

 まどかのリクエストに応え、肉屋は特別に薄切り肉をスライサーで作ってくれた。機嫌を直したまどかは、肉屋に最高の笑顔でお礼を言って、別れを告げた。


 そしてその足で、店内にあるイレーヌの雑貨店へ、アレックスと共に立ち寄った。

 昼時で客がレストランに流れているせいか、タイミングよく雑貨店の中はイレーヌ一人だった。


『あら、アレックス!ここに来るなんて珍しいわね。ああ、マドカを連れてきてくれたのね?』

 イレーヌはにっこりとしてまどかに挨拶をすると、アレックスに向き直り、エリクの事件が片付いたのか心配そうに聞いた。


『ああ、俺は解放されたけど、父さんはまだ夜までかかりそうだ。ルイーズは借金のある恋人と共謀して、エリクに再び近づいて、お金をだまし取ろうとしていたことを認めたらしい』


『なんて、ひどい!自分達のことしか考えない悪魔だわ!そんな人たちのために命を・・・。ごめんなさい。余計なことを言って。エリクの治療をしたことがあるあなたの方がつらいのに…』

 イレーヌは、アレックスの顔を心配そうに覗き見た。


『俺は大丈夫だよ。落ち込んだ時、マドカが励ましてくれたからね』

 アレックスが傍らに立つまどかに微笑みかけた。


『だって、本当のことだもの。アレックスは闇の中で彷徨さまよっていたエリクを、危険を顧みずに一度救ってるのよ。悪いのはルイーズたちで、アレックスは立派に自分の努めを果たしたし、研究上、立派な貢献をしたと思うわ』

 大真面目な表情できっぱりと言い切ったまどかに、イレーヌが歩み寄って優しく抱きしめた。


 エリクの事件は和美の前では伏せられていたので、イレーヌは改めて、痛ましい事件へ巻き込まれてしまったことへの慰めと、アレックスを励ましてくれたお礼をまどかに伝え、好きなものをプレゼントするから選ぶように言った。


『でも、もう充分お世話になっているのに、プレゼントは頂けません。自分へのお土産として買います』

『そんなこと言わないで選んで頂戴。息子のアレックスは雑貨なんて喜ばないから、娘のようなあなたに受け取ってもらえると嬉しいわ』

 そう言われては遠慮することもできず、まどかは店内をゆっくり歩いて回った。


 アイボリーを基調にした店内は明るく、雑貨などを飾る同色の棚やテーブルは、わざとシャビ―加工を施して、所々ペンキを剥がしてある。

 アンティーク調のキャンドルスタンド、写真立て、家型のキーケース、ラベンダーの匂い袋、香水、形の凝った調味料入れ、プレートなど、デザインが素敵で目をひくものばかりだ。

 そして店の奥の棚に飾られたミニチュアの靴を見つけて手に取った。


 エズで買ったものがロココ調の物なら、このデザインはガラス細工の色とりどりの花がつけてあり、また違った趣がある。裏を返すとイタリア製と書いてあった。

 値段は三十七ユーロするので、プレゼントしてもらうには気が引けると迷っていると、アレックスが横から靴を取り上げ、元の位置に戻した。


 突然のことで戸惑っていると、まどかの背中を押し、アレックスが近くの棚に誘導する。

 そこには革表紙の日記帳があり、表紙にはまどかがデザインしたのとそっくりな鷲の上半身とライオンの下半身を持つグリフォンが、浮き出すように装飾されていた。


『すごい!あの紋章とそっくりだわ!』

 まどかが喜んで手に取ると、アレックスは日記帳をロックするための錠前と、細い鎖のついたキーをその上に置いた。

 そのペンダントキーは、とても凝っていて、グリフォンをトップにしたアンティーク調のものだった。


『わぁ、かっこいい!こんな素敵なペンダントなら、お守りとしてずっとつけていたいわ。これを頂いてもいいかしら』

 アレックスはもちろんと言うように頷き、まどかの手から日記帳とペンダントキーを取り上げ、イレーヌのいるレジへ持っていった。


 アレックスに意味深な視線を投げたイレーヌが、まどかに本当にこれでいいのか聞いた。

 まどかがとても気に入ったことを告げ、お礼を言うと、イレーヌはアレックスに言われるままに、日記帳と錠前だけを包装紙で包み、ペンダントをアレックスの手に渡した。


『マドカ訂正するわ。アレックスは特別なプレゼントに限っては、雑貨に興味を持てるみたい』

『余計なことを言うと、母さんの分の夕食は俺が平らげるよ。今日はマドカが作ってくれるご馳走だからね』

 おお、怖いと肩をすくめたイレーヌに、まどかが胃薬を用意しておいてねと笑顔で手を振ると、その手を強引に引っ張って歩き出したアレックスに連れられ、駐車場へと向かった。


 ドアを開けてくれたことに礼を言い、運転席へ回って乗り込んだアレックスに、まどかは気になっていたことを尋ねた。

『そういえば、お肉屋さんとは何を話していたの?』

 アレックスはエンジンをかけてエアコンをつけると、身体を捻ってまどかに向き合った。

 軽い冗談が返ってくると思ったまどかは、急に緊張感に包まれた車内でどうしていいか分からず、半分おどけた表情を引っ込めた。


『マドカは、今大学4年生で、就職はもう決まっているんだよね?』

 まどかは話がどこに向かうか分からず、戸惑いがちに頷いて、旅行会社に就職が内定していることを話した。

『1年間フランスに留学することはできないだろうか』

『どうして、そんなこと・・・?』

『勝手なことを言っていると自分でも思う。できれば俺が日本に行ければいいのだけれど、まだ助手の立場ではそうもいかない』

ふぅと溜息をつき、アレックスが真剣なまなざしでまどかを見る。

    

『俺はマドカのことをもっと知りたい。あと1週間で日本に帰ってしまうから、友人のままの方がいいと思っていたけれど、あの事件の時にまどかが言ってくれた言葉が、落ち込んでいた俺を一瞬にして引き上げてくれた。できればもっと一緒に過ごしたい』


 先がどうなるかも分からないのに、就職を蹴ってフランスに1年留学しないかというアレックスの問いかけは、言った本人が認めるように確かに自分勝手だった。

 だが、甘い言葉や嘘の未来で誘惑するのではなく、現時点で二人がお互いを見極めるための方法を提案したアレックスは、とても真摯で真面目だった。

 何か答えなければと思うけれど、フランスへの留学は今は考えられないし、代案も思い浮かばないまどかは、うろうろと瞳を泳がせる。


 そんなマドカを見て、アレックスは自嘲めいた笑みを漏らした。

『ごめん、マドカ。自分の気持ちだけを押しつけてしまった。あまりにも時間が短すぎて焦ってしまったみたいだ』

 少し俯いたアレックスのブルーグレーの瞳が、長い睫毛で暗く陰る。


『アレックス、できれば私ももっと一緒にいたい。でも、留学は考えさせて。旅行会社に務めて業務を理解したら、こちらの支店に転勤できないか聞いてみる。でも南仏は支店がないからパリになると思うし、いつそれが叶うかも分からないわ』

 途端にアレックスの顔が輝いた。

『いつになってもいい。マドカが同じ気持ちで応えようとしてれることが嬉しいよ』 


 そして、ハンドルから離れた手がポケットを探って紋章型のペンダントを取り出し、まどかにそれを差し伸べた。

『まどかが去っても、思い出で繋がっていたくて、これを持っていようかと思ったんだ。でも俺の気持ちと一緒に預けるよ』


 ペンダントをまどかの首にかけると、アレックスの手は細い首を辿り、まどかの頬を包んだ。その大きな手の平は温かいはずなのに、まどかの身体にぞくぞくするようなさざ波を起こさせた。


 耳に触れた指先がくすぐったくて、まどかが首をすくめると、アレックスがふっと笑って、頬から後頭部へと手をずらす。

 髪の中に入った指先に気をとられていると、手首に力が入りアレックスの方に引き寄せられた。


 アレックスも身を乗り出し、まどかがアッと思った時には、唇にアレックスの柔らかさを感じて、慌てて目を閉じた。

 少し触れ合っただけで、離れていった唇に安堵して、まどかが瞼を開けると、すぐそばで熱を孕んだアレックスのブルーグレーの瞳がまどかを見つめている。


 上がる息がアレックスにかからないよう、懸命に抑えようとするけれど、どきどきと早打つ心臓のせいで、吐息をもらしてしまう。

 アレックスの手は触れたまどかの肌越しに、速くなった脈を捉えているに違いない。そう思った途端、頬がみるまに赤く色づいた。

    

 恥かしくて長い髪の中に顔を隠そうとするが、アレックスの手はしっかりとまどかの頭を押さえていて、それも敵わない。

 アレックスの顔がもう一度まどかにかぶさり、今度は唇を上下、そして角度を変えてむように口付ける。


 バーチャルの時とは全然違う!と、まどかはおののいた。

 漂うコロンの香り、質感と音、雄と雌の動物的な本能に導かれて重なる熱が、未知への怯えと興奮を呼び起こし、せめぎ合いながらまどかを飲み込んでいった。

 チュッと音を残し離れたアレックスが、額だけをくっつけて、まどかに問いかける。


『どうして、靴を取り上げたか分かるかい?』

 回りきらない頭で考えるのは難しく、まどかが首を振る。

『エズで話したことを覚えてる?』

 そういえば、恋人に靴を贈らない国があるという話から、アレックスがまどかに何か言ったような・・・・。


ーまどかなら、興味があるものしか目に映らなさそうだし、隣にいる人の存在も忘れて走って行っちゃいそうだから、もし、まどかが彼女だったら、靴は絶対贈っちゃだめだなー


『思い出したわ!アレックス、それって・・・』

 彼女になる承諾をする前に、どこへも行かせないという独占欲を発揮したってこと?と言う言葉を飲み込んで、アレックスに視線で問いかける。


『ああ、自分でも驚いてるよ。マドカが体験プログラムで、作って名付けたアレックス王国の紋章入りの日記帳を見つけた時に、これだと思った。マドカに教えようとしたら、例の興味津々キラキラビームを手にした靴に注いでいただろ?咄嗟に奪い取って棚に戻してしまったんだ』


 ほんの少し前、キスを仕掛けたアレックスの中の大人の男にドキドキしただけに、あまりにも子供っぽい嫉妬と行動を説明されて、そのギャップにまどかは笑いが止まらなくなった。

 そんなに笑うなよ!と、アレックスに肘でつつかれたまどかが必死で笑いを抑え、アレックスの選択は間違っていないと伝えた。


『自分のデザインとそっくりなエンブレムが浮き彫りされた革表紙の日記帳なんて、普通は手に入らないわ。バーチャルの世界でいくら体験したって、あくまでも仮想で、現実世界では形のないものだもの。本当に気に入ったわ。素敵なものを選んでくれて、ありがとうアレックス』

『気に入ってくれて嬉しいよ。自由にどこへでも行ける靴より、マドカにはアレックス王国の紋章の鍵を持っていてもらいたいからね』


 おどけてペンダントを引っ張った後、アレックスがふとまどかの膝に置かれた買い物袋に目を留める。

『マドカ、俺たちの熱で牛肉の色が変わらないうちに、家に帰ろう』

 まどかが慌てて、身体から袋を遠ざけるのと同時に車が動き出し、家路に向かったのだった。


 アレックスと一緒に家に戻ったまどかは、買い物袋を下げて、キッチンへと向かった。

 和美が手際よくジャガイモやニンジン、アスパラの根元の皮を剥く傍らで、まどかは白菜を1枚ずつ剥がし、水で洗ってパットの網に載せる。


 まどかがキャップ3000に行っている間、和美と登吾はアジアンショップに出かけ、足りない物を買ってきたようだ。滞在させてもらうお礼にと夕食は和美が作っていたので、大抵の日本食用の調味料はそろっていたが、みりんを探しにいったらしい。


 当初予定のすき焼きに加え、まどかのリクエストで野菜の天ぷらも作ることになったが、和美は最初いい顔をしなかった。

 すき焼きと天ぷらなんて油っこすぎない?と心配する和美に、デザート以外の食べ物に基本は砂糖を使わないヨーロッパで、みりんや砂糖を使ったすき焼きはどうなのかしら?とまどかが言ったので、和美も折れて作ることになった。


 まどかがお菓子作りには熱心に取り組むくせに、食事作りに無関心だと思っていた和美は、まどかが長ネギを斜めに切るのを見て、関心がなさそうでちゃんと見てるんだと口元を緩ませた。


 和美が剥いたジャガイモを、拍子木切りにしようと包丁を入れたマドカが思わず手を止めた。

「こっちのジャガイモって何て瑞々しくって柔らかいの?」

「フランスは農業国でもあるから、野菜や果物は美味しいわね。それに地続きでヨーロッパ各地の野菜や果物も入ってくるから、値段が驚くほど安いし、羨ましいわ」

「そうなんだ。あっ、でもこの間のキャベツの炒め物はちょっと頂けなかったけど・・・」

    

「ああ、あれね・・・。こっちのキャベツはプラスチックみたいに硬いって知らなかったのよ。煮物には適しているかもしれないけど、炒め物には向かなかったみたい。ごめんね」

「ううん。国によって違うものがあるんだって分かって、面白いわ」


 昨今はインターネットですぐ情報が手に入り、世界が狭く近くなったと言われて久しいけれど、身近な食材にもこんな違いがあることを発見すると、まどかは現地に行って直に触れる大切さを知った。


 夕食作りに夢中になっていたせいか、背中に温かさと覚えのあるコロンを感じた時には、アレックスがまどかのすぐ後ろに立って手元を覗き込んでいた。

『俺も日本語を勉強しようかな。マダム.カズミとマドカの秘密会議に入りたいし・・』


『あら、アレックス。締め出してごめんなさい。あなたはお仕事があるから語学に時間を割くのは大変でしょう?まどかがフランス語を覚えればいいわ。それとも・・・・お互いに教え合うとか‥』

 和美が最後の言葉に妙な間を置きながら、アレックスとまどかを交互に見たので、まどかは自分たちの気持ちが、親に分かるほど出てしまっているのかと、内心焦りまくった。


 ところがアレックスは涼しい顔をして、それはいい案ですねと受け流す。親に知らせるには中途半端な関係だけど、車の中でキスしたくせにとまどかは複雑な心境になった。

 その夜の食事はどれも美味しくできて、仕事から帰ったイレーヌがレシピを教えて欲しいと和美に頼み、料理談義に花を咲かせた。

 アレックスが肉のスライスは自分の手柄だと言い、まどかは料理の味は野菜のカットの仕方で決まるのよと負けずに手柄を主張した。


 後片付けは男性の役割になったので、まどかは淹れたお茶をイレーヌの前に置くと、日記帳のお礼を述べた。

『日記帳をありがとうございました。素敵すぎて喜びのあまり値段に目がいかなかったのですが、頂くには高価なものだったのではと後から心配になりました』


『大丈夫よ。これでもオーナーだから、仕入れ値価格で手に入るもの。それにせっかく滞在してもらっているのに、相手もできなくて申し訳ないと思っているの。この時期は従業員が夏休みをとるから、繁忙期なのに人手が足りなくて私は休めないのよ。お詫びもかねているから心配しないでね。よかったらカズミもお店に来ませんか?』

 日記帳のなめらかな革を撫でて、本当に素敵と褒めた和美に向かって、イレーヌが誘いをかける。


『お邪魔でなければ、お店を覗きに行かせてください。もちろん定価で購入しますね』

『あらあら、先にけん制されちゃったわ。明日は従業員が一人出てくるから、1時から3時間ほどなら、ランチと店内の案内ができるわ』

『まぁ、嬉しい!じゃあ、明日伺いますね』


 話が弾む母親たちを残して、日記を持ったまどかはリビングを去り、自分の部屋へと戻った。


 一人になると、作り慣れない料理を振舞ったせいもあり、知らず知らずのうちに入っていた力が抜けて、ふーっとため息が漏れ、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 軽くバウンドした身体から、首にかけたペンダントトップの鍵がベッドカバーに滑り落ち、その拍子に鎖が首筋を撫でた。


 ざわりとした感覚が走り、それが首筋から頬を辿ったアレックスの手の平を思い出させ、まどかは思わず両手で頬を覆った。

 頭を振って追い払おうとするのに、熱をはらんだブルーグレーの瞳が迫るのを思い出してしまう。


 知らなかった時は誤魔化せた気持ちが、重なった唇で感じた熱に炙り出され、くっきりと浮かび上がる。

 もう決して、アレックスを友人として見ることはできないだろう。


 夕食の時も、思い出せばドキドキして挙動不審な行動をとりそうで、意識しないでいつも通りにしようとすればするほど不自然になり、アレックスは平気なのだろうかと、余計にアレックスを目で追ってしまった。

 ともすれば、アレックスの目から唇へ視線が落ちてしまう自分は、きっと物欲しげな顔をしていたに違いない。

 こんなことばかり頭にちらついて、団らんの中で自分を保てなくなり、逃げだしてしまったのだ。


 とりとめのない回想をノックが破り、まどかが返事をするとドアが開き、アレックスが部屋を覗いたので、まどかの心臓が飛び跳ねた。

 アレックスは開けたドアのノブを片手で握ったまま、身体半分を部屋に入れると、明日行きたい場所があるかまどかに聞いた。


 少し離れたベッドの上にいるまどかに、アレックスのつけているコロンのラストノートがわずかに届いて、もどかしい二人の距離を手繰たぐり寄せたくなった。


『こっちに来てから思ったんだけど、男性も女性も素敵な香りをまとってるなって・・・。私も自分に合う香水が欲しいな』

『ああ、それならグラースに行こう。フランスの香水や香料の3分の2を作っている街だよ。シャネルの5番もグラースで生まれたんだ。きっと好みの香りが見つかると思う』

『うん、楽しみ』

 明日の予定よりも、目の前にいるアレックスに気をとられ、何だか言葉が上滑りをしているみたいに感じる。


『入らな・・・いの?』

 数メートル離れているのに、アレックスの存在が膨れ上がっていくような圧迫感を感じて、言葉がうまく繋げない。気まずさから逃れたいのに、逆のことを提案してしまう。


 アレックスが一瞬ためらいを見せたが、廊下と部屋の中間に立っていた位置から、歩を部屋に進めた。

ドアをそっと閉めたがノブから片手を離さない。

 不思議に思って視線を顔に向けると、アレックスが空いている片手を伸ばし、こっちに来てとまどかを誘った。


 いぶかしみながらベッドから腰を上げてアレックスに近づくと、広い胸に抱き寄せられ、まどかは息をのんだ。

 引き締まった身体に、自分の柔らかい身体が押しつけられて、形を変える感覚がまどかに男と女の違いを感じさせた。

    

 すでに重ねたことのある唇は、もう遠慮もなく所有権を主張して、まどかに覆いかぶさった。

 誰かに見られる心配もない密室は、危険とスリルに満ちていて、まどかの息を上がらせる。 開いた唇に唇とは違う熱くうごめくものが滑り込んだ。舌だと分かった時には身体が硬直したらしく、アレックスの手がなだめるように後頭部を撫でる。

 その優しい動きにふっと力が抜けた途端、舌の動きが歯列をかいくぐりまどかの舌をさすった。


 再び緊張して硬くなるまどかに対し、アレックスはより柔軟に舌と戯れて誘惑し、戸惑いながら応えようとしたまどかの舌に絡んでは離れ、追いかけてきたそれを吸って、まどかの身体にさざ波を起こさせた。

 ゆっくりだった動きが性急になり、背中を撫でるアレックスの手が労りから指先を使った愛撫に変わると、まどかの膝からがくっと力が抜けて、アレックスに完全に抱き留められた。


『君はとても素敵だ』

 熱い囁きがまどかの耳に吹き込まれ、身体が震えた。

 しばらくそのまま体重をあずけ、ふと気が付くと、アレックスの片手はまだドアノブから離れていなかった。

 視線を追ったアレックスが苦笑する。

『これは、俺にとってはなけなしの理性を繋ぐ鎖で、君にとっては命綱だよ』

 ウィットに富んだ言葉で、重くならないように自分の気持ちを表してくれるアレックスに、まどかの心は激しく揺さぶられた。

    

 それとは反対に、こんなに大人で、キスから察しても恋愛経験が豊富であろうアレックスが、未熟な自分を相手に不満を感じないんだろうかと疑問が湧いた。

 そんな気持ちを読んだように、アレックスが少し不安気な表情を浮かべるまどかの顔中に優しいキスを降らせ、切なさが溢れる瞳で見つめた。


『今度会った時に、君の気持ちが本物なら、この片手も自由にして、両手で君を捕まえる。いいね?』

 日本に帰ってしまうまどかに期限付きの自由と選択を与え、アレックスは握っていたノブを回した。


 まどかから離れるアレックスの腕が、身体が、まるで熱く火照った熱まで奪っていくように、夜のひんやりした空気が取り巻いた。


『おやすみなさい。アレックス』

それだけ言うのがやっとだった。


     


 翌朝ルート8をカンヌ経由で走り、グラースに着いたのは九時半頃だった。知り合いに頼んで、十時に香水作り体験を予約してもらったとアレックスに知らされ、まどかは大喜びで香水メーカーの工場に入っていった。


 香水を調香する調香師はフランス語でnez(鼻)と呼ばれ、調香師になるためには、パリかこのグラースにある学校で十年の修行が必要だという。インストラクターが話す説明を聞きながら、テーブルに置かれた棚に並ぶ二〇〇種類のオイルから、香りの基本となるベース・ミドル・トップノートを選び出さなくてはならないらしい。


 まどかは、女性用だけど甘くなり過ぎないものを作りたいとインストラクターに相談し、市販のスミレの香水の材料でもあるスミレ、バラ、マンダリン、ゆり根などを使って、つけた瞬間はスパイシーに香り、徐々に甘さに代わる香水を作った。


 アレックスはまどかの手首に鼻を寄せ、大きく息を吸って、う~んいい香りだと満足そうに息を吐き、香水の名前は?と聞いた。


『えっ?名前なんて考えていないわ』

『でも、これはまどかの香水としてレシピが残るから、次も同じ香水を注文する時に必要になる。いい名前を考えよう』


 急に言われても困るんだけどと、腕組みをしたまどかは、首から下げたアンティークキーのペンダントの鎖が腕に絡むのを感じた。


 鍵を目の前に翳し、連想ゲームのように思いつく言葉を並べた。

『key(鍵)―diary(日記)―memory(思い出)―emblem(紋章)』


 まどかの言葉をアレックスがワンフレーズにまとめた。

『Memories of The Emblem』


『紋章の思い出?かっこいい!すごく素敵?でも名前負けしてるかも‥』

 はしゃいだ後に、すぐ首を傾げたまどかの様子がおかしくて、アレックスは噴き出した。

『要は、まどかと俺に分かればいいんだよ。だけど名前に靴を入れるのだけはだめだ』


 今度はまどかが大笑いする番だった。身体を折って笑い続けるまどかに何とかペンを持たせると、アレックスが上から握り込み、ぶれる文字でMemories of The Emblemと香水のタイトルを書いた。


 インストラクターに別れを告げ、自分専用の香水を、購入したアンティーク調の香水瓶に入れてもらったまどかは、嬉しくなって思わずそれを抱きしめた。


 なんだか大人の女になった気分だ。そんなまどかを目に焼き付けようとするように、アレックスが傍らで笑みを浮かべじっと見つめている。


 急にまどかは切なくなった。

 今日でアレックスの休暇は終わりで、まどかも明日から3日間は、登吾が借りたレンタカーでイタリアに家族旅行をする。

 旅行から戻った翌々日にはここを発つことを思うと、今日一日が、アレックスとゆっくり過ごせる最後の日だと、改めて残り時間の少なさを思った。


 フランスに留学しないかと聞かれた時は無謀だとその考えを否定したが、今度いつ会えるかさえ分からないと思うと、アレックスの提案はまどかをそそのかすように心の中で首をもたげる。

 そんな思いが伝わったのか、グラースの古い街並みを歩きながらアレックスが問いかけた。


『今度の長期休暇はいつ?』

『クリスマスからお正月を挟んでの冬休みと、2月から2カ月の春休み。春休みは友人達と1週間くらい卒業旅行に行くつもりなの』

『もし、マドカに合わせて休みが取れたら、日本に行こうかな』

『ほんと?すごく嬉しい?』

 思わずアレックスの左腕にしがみついたまどかの手を、アレックスが右手でぐっと握り込む。


『明日からはイタリア旅行で会えなくなるね。四日後はなるべく早く帰るから、前に話したニースの花火大会を見に行こう』

『わぁ、すごく楽しみ!』

    

 でも、本当は楽しみより、その翌日帰国しなければいけないと思うだけで、寂しさが募った。

 ここに来る前はこんな感情は知らなかった。

 楽しみにしていたイタリア旅行も興味が失せて、少しでもアレックスとの時間を作りたいと思ってしまう。両親には悪いけれど、きっと明日のイタリア旅行は味気ないものになるだろう。


 今はアレックスといるのだから、離れることは考えないようにしよう。今日一日は恋人として過ごした最高の日にしようと、ともすると忍び込もうするやるせなさを押し殺し、まどかはアレックスの前で陽気に振舞った。

 ここであったことを忘れないために、アレックスを思ったこの気持ちを、一つの残らず記憶に留めておくために、まどかはあの日記帳に思い出を綴ろうと思ったのだった。




 イタリア旅行中は、隣に感じることのできない熱を思って虚しくなったが、笑顔で紛らわし、何とか乗り切った感じだった。

 登吾も和美も何も言わなかったが、まどかが消沈しているのを感じ取り、普段より優しく朗らかにせっしてきたので、余計に気まずくなった。

 見るもの全てにアレックスを結び付け、帰ったらこの話をしようとか、このお土産は喜ぶだろうかと考えてふと気づく。

    

 アレックスはフランス人だから、ヨーロッパのことなんか説明しなくても分かっているだろう。最後の晩餐を飾ってある教会に隣接する土産物屋で、手に取った羽ペンや画集をそっと棚に戻す。

 今度アレックスが日本に来た時に、日本の良さを説明して案内してあげる方が、きっと喜んでくれるだろう。


 身体はイタリアに居ながら、心をフランスのアレックスに向けたままのまどかの旅は終わり、高速道路でイタリアとフランスの国境を示す看板を超えた時にはほっとした。

 空港でレンタカーを返し、タクシーに乗り替えて、ビオットの標識が見えるころには気持ちが急いて、窓に張り付かんばかりに外の景色を見続けた。


 アレックスの家に辿り着くと、まどかは喜びで「ただいま~」と叫びたい気分だった。

 車が停まる音を待ち構えていたように玄関のドアが開き、アレックスが飛び出してくる。

 まどかは両親の目も気にせず、アレックスの腕の中へと飛び込んだ。

 アレックスがしっかり抱き留め、額にキスをする。


 登吾と和美はタクシーの中で、手を離れていく娘に対する寂しさと、成長への喜びが綯い交じった複雑な笑みを浮かべて見守っていた。


 夕食時も、ダニエル、イレーヌ、登吾、和美だけが和気藹々と話し、アレックスとまどかは上の空だということが、親たちにもはっきり伝わった。


 お互いに視線を逸らそうと努力していても、二人の視線は絡み合い、感情の色を溢れさせていく。

    

 親たちは肩をすくめ、アレックスとまどかが二人の時間を持てるよう、近くのパブに出かけることを決めた。

 もちろん、ダニエルがアレックスに無茶をしないよう釘を刺すことを忘れなかったので、登吾も和美も安心して出かけていった。


『信用されてないと怒る気持ちより、歯止めをかけてくれて有難い気持ちの方が大きいよ』

 アレックスがワイングラスを運び、ソファーに座ったまどかの横で、ふざけて大げさに溜息をついたので、まどかはくすりと笑ってしまった。

『イタリア旅行は楽しかったけれど、アレックスがいないから物足りなかった。いつか一緒にいけたらいいな』

 叶わないかもしれない願望を呟いてみると、アレックスが肩を抱き寄せた。

『俺もこの3日間は、まどかに会えなくて寂しかった』


 手がまどかの腕を揉み解すように、ゆっくり肘へと移動する。

 知らずに息をつめて、アレックスの手がもたらす感覚を追っていたまどかが、大きな息を吐くと、アレックスが顔を覗き込んだ。


『そんなに緊張して・・・。怖いかい?』

 まどかが首を大きく振り、アレックスの肩に顔を寄せた。

『俺はまどかに会えてよかったと思う。短い間でこんなに大切な存在になるなんて思いもしなかった。今度会えるまでに、この気持ちをもっと確かなものに育てていきたい。だからまどかも、俺のことを忘れないでくれ』


『忘れるわけないわ!こんなにもアレックスのことで頭がいっぱいなんだもの。

絶対に忘れない!』


 言い切ったまどかの唇をアレックスが荒々しく塞いだ。

 ワインの味と香りが口内に唾液とともに流れ込む。

 アレックスのコロンに混じるほのかな体臭が、情欲で煽られたようにまどかを包んだ。

 アレックスの腕の中、激しいキスで揉みくちゃにされながら、まどかは心で呟いた。


 忘れない!忘れるわけがない。こんなにも愛しい人なんだもの。








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